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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第七十四話「選択」

 暗闇の中ゆらりと現れた人影。片手で消費期限の切れたチョココロネをむさぼっていた俺はその手と口を止めてその人影をぼんやりと見ていた。

 ゆっくりと力なく歩くその人影をゾンビだと認識する間に秋津さんは左の腰に帯刀した刀を抜き、その首を撥ね飛ばす。首は小さな弧を描きアスファルトに叩きつけられ、少量の黒い血液を塗り付ける。勢いよく脳天めがけて刀を突き刺すとゆっくりと顎の動きが止まった。


「右にもいるぞ」


「任されましたぁ!」


 秋津さんが叫ぶでもなく後方に声をかけると、石井君が血にまみれた斧を俺のいる場所からでは見えない位置にいる人影に振り下ろす。暗闇の向こうで上体の倒れる鈍い音が響いた。


 呆気にとられながら唇の脇に付いたチョコレートクリームを舐めとるとプラスチックみたいな味が口の中に広がった。





 石井君たちに借りたダウンジャケットを着こみ、体育座りで完全な夜明けを待っているのは雑居ビルの非常階段の踊り場。寒さを紛らわそうにもすべての部屋にカギがかかっていて、秋津さんたちの経験上から簡易的な安全圏である階段で一晩の寒さを堪えていた。

 ポケットの中からでも圧倒的な存在感を放つグロックをポケットの上からまさぐる。

 

 

 白狼たちと別れてから二時間ほど、普通なら徒歩でも二倍の距離を歩ける時間をギリギリまで使い、闇夜から襲い来るゾンビを相手にしていた。……俺以外が。

 奴らがどこにいるのかも、どこから来るのかもわからない。グロックは一度もポケットから出ることのないまま懐で人肌に温まっている。狙って撃って殺す以前の問題だ。引き金に指を掛けることも俺にはできなかった。


 

 大きくため息をつくと、鉄製の階段を降りる音が後頭部で聞こえてきた。


「……無理はしなくていい。誰がやってもすべて同じだ。経験のある人物に任せれば被害が起こる可能性も少ないだろう。あまり気負うな。銃を持つのも初めてなのだろう」


 まさぐっているポケットの下に銃があることが分かっていたのか、それとも俺のヘタレ具合を察したのか、二つ上の踊り場で一人で寝ていた成塚さんから励まされる。

 まだ何も言っていないのにすべてを悟られたようで余計虚しくなった。


「……完全に足手まといっすよね、俺」


「……自分でそう思うのか?」


 成塚さんは体育座りで丸まった俺の隣に立ち、もうじき東にある低いビル群から現れる朝日を待ちながら聞き返した。


「……いや、まぁ、そう思わずにはいられないですよね」


「……まぁ気持ちは分かる。私の駆けだしの頃もそうだった。組織犯罪の取り締まりが女にできるわけがないと自分の出る幕すら与えてもらえなかった。苦悩し、時には泣いたこともあった」


 ……鬼の目にもなんとやらか。


「だが、今回は違うと私は思う。自分の器量の無さに歯噛みすることは無い。足手まといという言葉もこの状況では使うことはできないだろう」


 東の空に背を向けていたけれど、日差しが足元に差して朝日が昇りはじめたのが分かった。


「こうなってしまったら個人の義務も、責任もない。自分がどれだけ他人の役に立てているかなど気にする必要はない。ただ生きていればいい。それだけだ。秋津はきっと君の事を足手まといというかもしれない。だが、あいつもどこかで私のように思っているはずだ」


 そう言ってもらえるのはありがたいけれど、付いていくと言ったのは俺だ。多少なりとも力にはなれると宣った以上、これ以上何もせずにこの人たちの傍にいるのなら離れてしまった方が彼らにとってはずっといいだろう。


「……あぁ……駄目だ」


 ネガティブ思考は直さなければ。こういう考えで生きてきて結局は一人きりだ。だからこそ仲間のために何か少しでも役には立ちたかった。

 

「……成塚さん……その、良かったら射撃、教えてくれませんか?」







 階段を静かに降りて成塚さんと二人雑居ビルから通りに出る。ビルのすぐそばにある交差点から何十メートルか先に立つ人影を成塚さんは睨みつけ「早々に済ませるぞ」と雑居ビルの向かいの家の塀へと俺を連れてきた。


「的はここでいい」


 マチェットで自分の頭の高さと同じくらいの位置に傷をつける。それが何を意味しているのかはすぐに分かった。


「いくら消音機が付いているとはいえ、無音というわけではない。いずれ近くの感染者に嗅ぎつけられる。満足のいく結果が出なくても戻るぞ」


 俺は頷いてさっそくグロックを構える。腕を組んでこちらを見る成塚さんは何も言わないので、スライドを引き、バツ印の書かれた中心部に狙いを定めて引き金を引く。抑えられても耳を労する嫌な銃声のあと、右上五十センチほどズレて塀に穴が開いた。


「……月並みだが、構えが固いな。もっと力を抜くといい」


 各方面でさんざん言われた言葉だ。「力を抜け」みんな簡単に言ってくれる。必要な時に力が抜けたことなんて一度もなかった。


「それと、これはどうしても抜けない感覚だが意識と狙いはもう少し下に置いておけ。まっすぐ狙ったところには大抵当たらない」


 頷き、もう一度引き金を引く。先ほどより近くはなったけどバツ印にかすってもいない。たった二発で手元は手汗で濡れている。


「……お手本見せてくれませんか」


「私が撃って君はそこから何を学べると?時間がない以上君は短時間で経験に経験を重ねなければならない……それに」

 

 成塚さんは腕を組んだまま足を肩幅に開いて言う。


「君はバツ印の真ん中を当てなくてはならないのに、二度とその場所に当たらなくなってしまうぞ」


「……そんなあからさまなドヤ顔初めて見ましたよ」



 それから十分間で計十二発の弾をブロック塀に打ち込んだ。黒いアスファルトには白い塀のかけらが散らばって、周囲には粉が舞っていた。


 結局バツ印に掠めることもできなかったが、バツ印の書かれたブロックには二発ほど撃ち込むことができた。喜んでいいのかどうかは分からない。


「もう戻るぞ」と言った成塚さんは最後にグロックを寄越すよう手のひらを広げたので手渡すと、そのまま水が流れるように自然に構えバツ印のど真ん中を撃ち抜いた。起きたばかりだからかポカンと口を開けてその偉業を目に留めていた俺に成塚さんはこれ以上ないドヤ顔をしてみせる。色々となんなんだこの人は。


「……それで、どうですか。俺の評価。そのうち上手くなれるんですかね。……才能ないなら『ない』ってはっきり言ってくれていいんですけど」


「……まぁ数撃てば当たるというやつだ。経験が命中率をあげてくれる。暗殺を目的としない限りは才能なんて銃を撃つのには必要ない。そのために人々は銃を作ったのだから」


 確かに、まともに当たりさえすれば引き金を引く力以外の力はいらない。成塚さんの言葉になるほどなぁと感嘆する。


「ゆえに、問題はそこではない」


 グロックを返却される。手のひらに乗ったそれは慣れてしまえば「軽い銃」と言われるのもなんとなく分かって来た。


「……初めて銃を使った訓練のあと、上司に問われたことがある。『お前の目の前に悪辣極まる犯罪者がいるとする。そいつは盗みや放火を繰り返し、国の重要人物を殺し、お前のような若い女性を犯し、或いは殺し、もしかしたらそいつはお前の家族を無残にも殺した犯人かもしれない。そうだとして、目の前の悪人に向かってお前は引き金を引けると思うか?』」


「……さすがに家族を殺されたら俺は引くと思いますよ」


「そうだろうな。私もそう思った。そして君と同じ答えをした。『身内が殺されたのなら容赦なく撃つ』……私が初めて人に対して銃を向けた時、指先は凍り付いたように動かなかった。相手は同じく銃を所持していてこちらが発砲される危険性もあったが、それでもなお引き金を引くことは叶わなかった。……その時分かった。人は人を殺すことができない」


 ぼんやりとその言葉の意味を探る。もしそうなら、なぜ殺人が起こる?なぜ戦争が起こる?成塚さんは横断歩道の白と黒のラインを見つめる俺を一瞥して続ける。


「……人が人を殺すには、一度自分を殺す必要がある。今まで培った倫理や道徳にまみれた清廉潔白な自分を殺し、そこから生まれた何かになる必要がある。……もしくは戦争などの過酷な状況や、絶対的な絶望、耐えきることのできない事件によって死んでしまった自分から人ではない自分が生まれる。その時、人は人を殺すことができる何かになる」


「……それが人の形をしているだけだとしても同じだろう。思うに秋津や石井、行方不明の雨宮、私も含めて、もはやそういう人でなしの一部だ。望むと望まないにかかわらずこの世界に生きていれば誰しもがそうなる。……君はまだその一人ではない。人で居るために、仲間の役に立ちたいという気持ちもよく分かるが引き金を引かぬこともまた一つの選択だ。覚えておいてくれ」


 そして成塚さんは何かを思い出したように最後に一言だけ呟いた。


「……初めて人に向けて引き金を引いた時は心底、心が冷えたものだ」




 交差点へと歩き出すと、先ほどまで小さく見えていたゾンビがおおまかな容姿が把握できるくらいに接近していた。俺たちの姿が見えたのか、少量の銃声に気づいたのかは定かではないけれど、彼女は確実にこちらを睨みつけ、とぼとぼと手を前にしながら歩いている。


 腕の長さは左右非対称、鼠色のコートの袖口は引きちぎられて欠損した腕から骨が突き出ている。髪型は今風にショートボブの彼女の顔は、顔色が悪いだけで何一つ崩れてはいない。控えめにいっても美人と呼ばれる顔だった。


 俺はゆっくりとグロックを構えて、先ほど一番当たりの良かった時の感覚を思い出す。


 ゾンビ映画でも知っている。話にも聞いている。


 彼女を殺しきれるのは脳への一発のみ。


 彼女は一歩ずつ、足を引きずりながらこちらへとやってくる。


 構えた銃の先に彼女の姿を捉えることができない。目がどうしてもそれてしまう。


 彼女の歪な息遣いさえこちらに聞こえた時、ようやく銃口の先に彼女の姿を見た。その時すでに俺と彼女の距離は二メートルを切っていて、彼女の腕はこちらに伸びていた。


「……っ!!」


 俺の視界に横から入り込んできた成塚さんは目の前の彼女を思い切り蹴とばすと、叩き割るようにしりもちをついた彼女の頭にマチェットを振り下ろす。どす黒い血に濡れた彼女の顔面は一瞬にして目も当てられないほどの顔になり、俺はそれからも目を逸らす。

 何よりも目を逸らしたかったのは、マチェットを振り下ろすときの光を宿さない瞳を持った成塚さんだった。


 人が人を殺すとき、人は人でなくなる。


 その意味が今初めて分かった。


 


 外の世界に出てから最初の夜が明けた。

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