第七十二話「されど牙は鈍く光る」
「日野君……だっけ?」
日は沈んで不必要に動くのを避けなければならない夕闇の中、応援を待つ俺たちは吹きすさぶ風に縮こまっていた。
言いようのない焦燥感と夜の闇の閉塞感に外にいるのにこの場所が窮屈な空間に思えて仕方がなく、煙を見上げて立ち尽くす俺に見覚えのあるようなないような男が話しかけてくる。どこにでもいそうな大学生。工場で生産されてるんじゃないかというくらいにどこでも見かける姿だった。
隣には浅黒い肌をした長身の男も立っている。それはどこかで見たような光景でもあった。
「……はい、いや……うん。そう。日野、日野陽平」
舐められないように敬語を訂正したのは逆効果だったのかもしれない。二人は一瞬視線を合わせた。
「おい、石井。確かに同じくらいには見えるがそんな馴れ馴れしく話しかけて良かったのか?先輩だったら謝れよ」
「固いなぁ花田は。日野君は俺らと同じくらいに見えるけど、今いくつなの?」
「……二十一だけど」
実はあと一週間くらいで二十二になる。
「いよぉっし!!俺もこいつも二十一!!」
「俺はとっくに二十二なんだが」
「あれ、そうだっけ。お前も誕生日三月後半でしょ?」
「四月前半だ。全然違うだろ」
「近いから似たようなもんだって」
「どういう理屈だ」
最近の若い者はお互いの年齢を思い出せない割に年齢の話が大好きらしい。口を半開きにしたまま半笑いを浮かべる俺を置いて二人の話題は加速していく。
……と思っていた。
「……大変だったね」
石井という男は確かに俺の目を見て、俺に話しかけた。俺は喉の奥から返答をしようと思って「ぅ」と言葉にもならない発声をする。それが恥ずかしくてすぐに切り返した。
「別に、俺は、何も……つい先日まで籠城してたっていうか、引きこもってただけなんだ。外にいた君たちの方がたぶん大変だったと思うよ」
「……そんなわけないよ。……ってこともないけどさ。俺らも俺らで色々あった。でも、日野君はたった一人でゾンビの中ひたすら籠城してたわけでしょ?俺はきっと耐えられないよ」
「だろうな。でも……俺もちょっとキツイと思う。想像もつかない恐怖だな」
自分の心の壁を建設する手が止まる。その手を外へ伸ばすように俺は一言呟く。
「……みんな同じだよ」
二人は俺の言葉を噛みしめるかのように頷いた。最初の印象とは違って、その表情は凛としていた。
「その通りだな」
長身の花田という男は神妙な面持ちの成塚さんや白狼たちを見回す。
「ここにいる全員がそれぞれに置かれた状況と戦っているんだ。秋津さんだってきっとそうなんだろう。あの人の場合、特にそうなのかもしれないけどさ」
「……でも、きっとその本質はみんな同じさ。だからここにいる」
「らしくないこと言ってるな石井。あんまし無理すんなよ」
「無理してねぇし」
「あはは……」
意識していない、作り笑いではない笑みが自分からこぼれる。二人もそんな俺を見て、静かに笑った。大勢の人間がいるのにどこか冷たいくらいに静謐な空間の中で、俺たちの周りは確かに暖かかった。
「俺たちはいつまでこうしていればいい?」
秋津さんが苛立ちを声と視線に含ませて白狼を睨む。既に白狼が応援を要請してから一時間近くが経とうとしていた。
冷たい風が吹き付ける俺たちの周りには住宅が少なく死角になるようなところもない。しかしいくら見晴らしがいいとはいえ、夜になればそれも意味を成さなくなっていく。うかつに光を照らすことも良しとしたくはないので、半径五十メートルにライフルを構えた隊員が配備されている今の環境ですら安全だとは言い切れない。ガードレールの向こうに生えた枯れすすきのサラサラと小さく乾いた音すらはっきりと聞こえる静寂の最中だった。
「……ごめんなさい。軍曹が言うに状況の確認中らしいの。私たちがじゃなく応援する側のね」
「確認……?なんだってそんなに時間がかかる?なんのための応援だ?」
「……噛みつくな秋津。向こうも慎重なのだ」
「それは分かるが今の俺たちは慎重さを求めちゃいねぇ。なんならこいつらが付いていかなくとも俺は先に行くぞ。待ってることほど性に合わねぇこともねぇんだ」
「だが今は待て。彼女たちがいるのといないのとでは安全も効率も何もかもが大きく違う。今日私たちが死霊の餌食になったってなにもおかしくないんだ。今は待て。でなければ拘束する」
秋津さんはため息をついて側にあった小石を蹴とばした。縁石に当たってその向こうへ飛んで行ったのがなんとなしに音で分かった。
軍曹がジープの助手席から出た時、俺は救いの手に縋るように白狼の隣にいた。白狼はこちらに目を向けることはなかったがその場から動くことも無かった。それがなんとなく嬉しいような気がしてはいたがそう思う理由は分からなかった。彼女は確かに美しいけれど、恋だとかそういう感情ではないと思う。
『……少尉、今大尉から直々に連絡があった。単刀直入に言えば要請は断られた。大尉があんたに替われと』
軍曹の声の調子から良くない話だというのは分かった。無線を受け取った白狼の表情にも嫌悪感が浮かんでいる。それから白狼はゆっくりと冷淡な調子で声をかけた。
『……大尉、マディソン少尉です。応援が派遣できないとはどういうことでしょうか』
応答したのはさらに冷淡な男の声だった。
『質問の意味が分からないな少尉。私は冷静に状況を判断してお前の要請を断っただけだ。他に何を答えればいい?』
『……断る理由を聞いているんです。中隊をまるごとこちらに向かわせてほしいと言っているわけじゃない。保護した生存者たちの仲間が未だに近くに取り残されている。我々にも彼らにも時間はない。近くの小隊だけでもいい、二個小隊も来てもらえれば十分なんです。どうしてそれが叶わないのでしょうか』
『冷静に状況を判断したまでだ。断る理由としては十分だろう』
『……分かりませんね。大尉の回答が答えになっていないもので』
『現地にいながらも状況が分かっていないということだな……。もう周囲は闇の中だ。それだけでも十分に行動を中止する理由にはなる。……それに、その生存者達からは聞いているのか?お前たちの居る場所はデッドゾーンだ。我々が救助を断念する理由になり得るほどに付近は感染者たちで溢れている』
白狼は何も言わずに冷淡な声の男が再びしゃべりだすのを待っていた。
『……それに私がお前に替われと言ったのは、お前のくだらない質問を聞くためじゃない。命令だ。保護した生存者を連れて今すぐこちらに戻ってこい』
『……それは叶わないでしょう。生存者たちは仲間が保護されるのを望んでいます。決してこの場から退くとは思えません』
『なら』力強い返答だった。『ならそこに置いていけ。第三小隊だけでも帰投しろ』
『……それでは私たちに課せられた使命とはまるで真逆ではないですか。応援が来ないならそれでもかまわない。私たちだけで保護した彼らとその仲間とともに帰投します』
『分かっていないな』
白狼の険しい表情にその隣に立つオーウェン准尉や他の隊員でさえ苦い表情を浮かべていた。
『我々の目的とは何だ?少尉。そして、お前に課せられた使命とは何だ?アイラ・マディソン少尉。いや、あえてお前をこう呼ぼう。お前が任されたものとは何だ?メリーランドの白狼よ』
彼女が歯を食いしばったのが暗闇の中で分かった。
『私が答えようか?白狼。我々の目的とは救いを求める人を救うことだ。そしてお前に任されたのは我が国の未来だ。お前はその復興の象徴だ。決して失うわけにはいかない』
「……まるで傀儡だな」
白狼はあざけるように、けれど怒りに打ち震えながら日本語でそう呟いた。きっと聞き間違いではないと思う。
『我々は一時の情に煽られて活動する自警団ではない。冷静な判断の上に統率され、固い信念の上に目的を完遂する兵士だ。一小隊を統べるものとしてそんな基本的なことも分かっていないのか?……なるほど、我々中隊の中でお前の小隊だけが唯一犠牲者を出した理由も分かってきた』
『……それ以上……!』抑えていたであろう白狼の怒りが、牙が暗闇に光る。『それ以上彼女について何か言及してみろ……!今度こそあんたの鼻っ柱をぶち折ってやる』
『話にならないな。准尉に替われ。これ以上狂犬と話すつもりはない』
白狼は震えながら大きく息を吸い込んで准尉に無線を差し出す。お互いに目を合わすことも無くそれを受け取った。
『……オーウェン准尉です』
『話は聞いていたか准尉』
『……大方聞こえてましたよ』
『なら話は早い。命令だ。代理ということにはなるが今から小隊の指揮を君に任せようと思う』
『……うちの小隊長はまだ生きて隣にいますが』
『……第三小隊長は極度の疲弊で錯乱状態に陥っている。小隊の指揮が務まるとは思えない。私が彼女に下した命令と同じものを君に下そう。生存者を保護し、直ちに帰投しろ。それが出来なければ君たちだけでも帰投するんだ。これ以上の消耗は何の役にも立たない』
『……命令に対しては何の異論もありません。ただ……うちの伍長の殉死がプロパガンダの役に立ったような言い方はやめてもらえますかね。まだ伍長の死から日も浅いんです』
『……気を悪くしたようなら謝ろう。私も口を慎むが准尉もあまり考えすぎるな。……命令の復唱が必要か?』
『……いえ、直ちに』
『なら以上だ。小隊を頼んだぞ、小隊長』
二人の会話が終わるころには周りの空気は重苦しくなっていた。会話の聞き取れない俺を始めとして、成塚さんや石井君もその空気に気づいていた。
『……悪いが少尉。中隊長のいう事は頭ごなしに批判できるほど間違っちゃいなかった。人格を疑いたくはなるが指揮官としては正しい』
『……だろうな。あたしだって頭の隅じゃわかってるんだ。だが、受け入れられない。大尉は現実主義者かもしれないが現実を目の前にしているのはあたしたちだ。現実はいつだって悲観的なものとは限らない』
白狼は成塚さんたちの顔を一人一人見つめていく。
『あんただって見たでしょ?……キティが、命を懸けて守った小さな命の顔を。その小さな手を。もう誰にも救えない、それも現実かもしれない。でも確かにそこに命がある。それもまた現実だ。あたしはそれに命を懸けている。だから陽平もここにいる』
『ただ……もう小隊の指揮権はあたしにはない。どうするかはあんたが決めて』
『……少尉はそれに従うんすか』
『…………』
酷く思いつめた表情の少尉は深々と息を吐いて言葉を、もしくは大きな選択肢を選んでいる様だった。




