第七十話「この世の果てまで」
もぬけの殻だということが分かっていつまでもその場にいれるほどこの人たちが暇ではないことは分かっている。路上にうずくまってわずか数十センチ先のアスファルトを見つめる俺の肩を叩き、白狼は彼の生徒手帳を渡した。
「彼は必ず助けるから」
白狼の言う通り、彼は、奥村少年はこの家から脱出出来たとはいえ、未だ無事とは到底言えない環境で生きている。死地と化した日本を離れて文化的な生活を約束されたところで初めて自分が助かったと言って良い。
「あの時、意地でも彼の現在地を聞いておけばよかった」
白狼の後悔が途方もないようなものに聞こえる。
「でも、どうしてもあたしは前を向いている人間に弱い。あたしが意地張ったところできっと彼の意地に負けてた」白狼が俺から数歩だけ離れたのを耳で把握する。「仮に、何回あの時のやりとりをやりなおしできるって言われても結局あたしは彼の言う通りにして陽平を助けると思う」
「彼の意志は小隊を動かすんですか」
彼は引きこもりだぞと半分呆れながら返す。もう半分は俺もきっとあいつのいいなりになるんだろうという納得だった。無線でのやり取りでは俺の逃げ勝ちだったけど。
「この世界で諦めを知らない人間より強い人間はいないわ。彼らは人を変える。きっと世界も変える」
「この素晴らしい世界も変えられますかね」
「本当に救おうと思っていて、なおかつそれを諦めなければ」
かつて胡散臭い成功者たちが口にした耳障りの良い言葉。俺の大嫌いだった言葉。白狼から放たれたそれは十分に信頼できる価値のあるものだったようにも思う。
横目に見えた彼女は浮ついた一時の成功ではなく、永劫に続く尊い未来を見据えているのだろう。
重量を感じるほど伸びきった髪をなびかせる春風が心地よかった。降りかけたまぶたを閉じないままでジープの走る広い国道の景色を見る。
国道にはよく見られるアメリカのお菓子みたいな色をした古本屋や雑貨店の建物が並んではいるが、活気と言う言葉からはほど遠い。たった数週間前までは制限速度四十キロを七十キロで飛ばす車が走っていたに違いない。休日や帰宅時間には混雑して全く動かない時もあったけど、とにかく今は動いている車の影もない。
彼がどこを通って海に行ったのかは知らないが、似たような光景を目にしていたのだろう。
俺自身は何を失ったわけでもないのに酷い喪失感が去来している。この道の先に彼はいるのだろうか。遠くを見据えると目の裏側から涙が滲みそうになる。
道はどこまでも続いているように見える。いずれ道にも終わりはあるのだろうけどその先に行けないということもない。だんだんと夜の近づく空、よく知った街から遠ざかるジープ。窮屈で愛しいあの部屋にはもう戻れない。帰る場所はもうない。
不思議と悲しくはなかった。
俺は、これからどこにでもいけるのだ。
引きこもりはようやくしがらみを打ち破り、広い世界へと飛びだっていく。
君もこんな気持ちだったのだろうか。
春風に煽られながら無限の開放感が満たされていく。
隊員たちはみんな穏やかな表情を浮かべながら静かに前を向いて流れゆく景色を眺めている。俺も、同じ方向を向き、前に進もうと思いを募らせる。
『少尉、あそこに黒煙があがってます』
オーウェン准尉が前方を指さすと遠くの方で黒煙が上がっているのを見つけた。ここからでは煙しか確認できないが、煙の量を見るに大火事が起こっているらしい。
『人為的なものっすかね』
『……そうかもしれないな。チャーリー、近くの小隊に連絡取って状況の確認を』
『了解』
少尉は国道の大きな交差点でハンドルを切り、ジープは二車線の道路へと入っていく。
「……これから向かうんですか?」
「ええ、無駄足になろうともね。陽平はあの煙についてどう思う?」
「……大火事?」
「……まぁ、そう考えるのが妥当かもね」
白狼が再び交差点を煙に向けて曲がる。前方にセンターラインに沿って歩いているゾンビが見えた。
「あたしの国の都市で起こった話なんだけど、パニックから数日たってとあるブロックだけが火事に見舞われたことがあったの。何件もの家を巻き込んでそのブロックだけが地獄の業火みたいに燃え盛っていた。幸い感染者の手は少なかったから消防チームが駆けつけたみたい。もちろん火を消すために行ったわけじゃないけどね」
ゾンビを左に躱してから白狼は続ける。
「火事の中から見つかったのは熱気で半分溶けたいくつもの燃料タンクと窒息してアスファルトに倒れていた男女のグループ。彼らは一番目立つような救難信号を出したつもりみたいね。二十人近くいた中で三人だけが生存者になった」
「……じゃあ、あの煙の元にも生存者がいると?」
「そう思ってる。でも、本当は這ってでもその場から逃げていてほしいけどね」
ジープは水たまりの濁った水を撥ねながら舗装状態の悪い狭い県道を走っていた。しばらく気づかなかったが既にロービームでライトをつけていたらしい。停車した車のボディに反射した光で俺はそれに気づく。羽織っていた上着に袖口まで手を引っ込めて、夕暮れに巻きあがる不吉な黒い煙を見上げていた。
「……あれは」
白狼が日本語でぼつりとつぶやく。彼女が日本語の時はもちろん俺に話しかけているときなのですぐさま反応したが、それ以上白狼は続けずにアクセルを緩めながら呆然と前方を見ていた。後部座席から身を乗り出して同じ方向を見ると歩道を何人かの人影が歩いているのが分かった。
眼鏡を忘れたので相も変わらず低い視力でそれを注視する。
ジープのスピードメーターは二十キロ。自転車と同じくらいの速度で人影へと向かう。
彼らの足音が聞こえるところまで車が近づくと、ようやくそれがゾンビでないということに気づき、俺はその高揚感とともに白狼より先に生存者に声をかけた。
「あの!!」
「あぁ?」
振り返った彼の姿にドキン、と心臓が強く拍動する。ジープはそのままゆっくりと彼らを通り過ぎて数メートル先で止まった。
お願い、止まらないで。このまま通り過ぎて。この人たちはたぶん救助を必要としてない人だから。
「……外国人の部隊みたいだな」
「ひょっとして助けに来てくれたとか?」
「……もしそうなら遅すぎだ。今の俺らには必要ない」
自分と同じくらいの若い集団が何かを話し合っている。彼らの姿を見て、前に進もうだとか宣ってた俺に、その思いを打ち消して大学時代の嫌な記憶が蘇る。っていうか今助けはいらないって言ってたじゃん。このまま行っちゃっていいよ……!絶対に関わっちゃいけない人がいたんだから……!!
「話はできますか?あたしたちはあなたたちを助けられる。どうか、まず危険な人間じゃないと理解してほしい」
俺の思いとは裏腹にジープを降りた白狼がグループに声をかけた。
白狼の言う通り、白狼たちは危険な人物じゃない。でも相手はそうじゃない。
「……悪いが信用しろと言った人間は信用しない方がいいって学んできた。俺に武器を持った手前らを信用しろと?ダメだ。あんたの話には耳を貸すつもりはねぇ」
「……しかし」
「おい!そこの日本人!!」
後部座席の陰に隠れた俺を低いがなり声が呼びかける。俺は気づかないふりをしたまま、更にゆっくりと身を屈める。顔中から変な汗が噴き出していた。
「てめぇだよ。さっき俺に声かけたてめぇだ。降りてこいつらが誰なのかを話せ」
ガクガクと手を震わせながらドアを開けて、ガタガタと足を震わせながら車の外に出る。
目の前に立っていたのは、多少崩れているとはいえ、どう見たってヤのつく人だった。
引きこもりだった君も同じような体験をしたのだろうか。
……してないよなぁ。




