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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
高校演劇部部長:雨宮陸3
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第六十三話「若者のすべて(前編)」

 恐怖は人を殺す。


 歓喜、憤怒、悲哀、それらの感情に色があるとするなら恐怖はすべてを塗りつぶす漆黒だ。

 打ち立てられた固い決意、逃げ延びた安堵の一息、どうしようもないほど憎しみに満ちた狂乱と混乱。 どんな状況でも恐怖という感情は波のようにすべてを飲み込み跡形も残さない。


 先ほどまで目の前にいた中島さんは見えていた。振り返れば仲間がいた。

 車のフロントガラスを叩き割った途端、それらが目の前から掻き消えた。


 体を叩いた無数の殺意。闇は一層深く濃くなって視界を奪い、バールを握った指先から熱を奪う。



「さぁ来いよ……!!こっちだ……来い……!!」


 来るな。このまま素通りなりなんなりしてくれ。


 車の窓やボディをガンガンと叩きながら、振り向いて逃げ出したくなる足を押し付けて靴の裏で地面をこするに留める。

 敵の数、敵の位置、遠くからなら見えていたことも、とうに頭から消え去ってついには自分が何のためにここにいて、なぜこんな自殺まがいの事をしているのかすら分からなくなっていた。


 少しだけ頭を冷やせ。息を吸え。

 俺は闇の中で食屍鬼をひきつけている。その間に中島さんを部員たちが助けてくれているはずだ。次はどうする?


「……っ!」


 気がつくと食屍鬼の足音が目の前で聞こえていた。顔をあげるとコートを血で濡らした男の姿が見えた。この暗闇の中では自分からたった数メートルのところまで食屍鬼が来ないと姿の把握すらできないようだ。急いで別の車のフロントガラスへと登りその手から逃れる。


「……この判断が間違ってなければいいけどな」


 奪われたのは視界だけではない。悪臭としか呼びようのないほど色々な臭いが混ざり合っている事故現場では鼻も利かなくなっていた。いっそこのまま利かなくなってしまえばいいのに。この世界は悪臭だらけだ。

 それでもこの中のとある悪臭の出所が自分の考えと違っていなければそれは一つの道を切り拓く可能性を秘めている。

 

 俺は食屍鬼に囲まれないうちに次の車の上へと飛び乗って大きな声をあげて闇の向こうの仲間たちに呼び掛けた。


「中島さんが大丈夫そうなら発煙筒の明かりをつけてこっちに向かって投げてくれ!!!返事はしなくていい!!!その代わりに助けたら発煙筒を投げるんだ!!!」


 離れたところで食屍鬼がうごめくのが見えた。夜に目が慣れたのか、恐怖が引いたのかは分からない。


「投げたらすぐに畑の方に逃げてくれ!!!ためらうな!!!俺もすぐそっちに向かうから!!!」


 闇の向こうからは仲間の姿はもちろん、動く音さえも聞こえない。俺は食屍鬼の中に取り残されたようなものだ。発煙筒が投げ入れられるのをただ待ちながら、少ししか機能のしていない五感を生かして食屍鬼の手から逃げた。




 事故なりなんなり、自分が死ぬような事態にあった時、アドレナリンの作用で一瞬がとても長い時間に感じられることがあるそうだ。

 自分は今までそんな経験があったことは無いが今がまさにその時ならこれほど迷惑な話もない。

 

 感覚的には十分以上、流れた時間はたぶん数分。


 小さな明かりがクルクルと回りながら俺の数メートル先に落ちた。その明かりの向こうにも仲間の姿はないが彼女たちが生きていて成功したことが分かった。俺は迂回を続けてようやく一つの臭いの発生源まで駆け抜ける。


 ほんの一瞬肘に当たった冷たい肌の感触に肝を冷やしながら、ポケットの中を探る。


 人の肉が腐って放つ悪臭も、むせ返るほどの血の匂いもこうなってしまう以前には嗅いだことなんてない。ただ国道に充満する人の一部の臭い以外に一つだけ嗅いだことのあった臭いはあった。


 バールをズボンのポケットに引っ掛けて上着のポケットの中のマッチを取り出して箱の側面にこすりつける。力の加減を誤って根元からポッキリ折れて地面に落ちた。拾っている余裕なんてない。

 残りあと三本。


 震える手でマッチのできるだけ先端を握ってこすりつけると火が付いた。


 消さないように目当てのものがある場所をゆっくりと探す。

 掠れた息がほとんど耳元で聞こえると食屍鬼の手が肩を掴んだ。


「ぐぅ……っ!!」


 マッチは地面に落ちて火が消える。闇の中でもがく俺と今にも食らいつかんとする食屍鬼。


 肩か背中か腕か、どこを噛まれようと死んだも同然だ。


 振り返り食屍鬼の側頭部を掴んで自分に近づく顎を遠ざける。


「離れろっ……!!」


 利き腕ではなかったが左手でバールを掴んで迷いなく眼窩を突き刺した。確実にとどめを刺せるよう力を入れて奥深くまで沈みこませる。


 もうそれを引き抜いている余裕はない。

 倒れた食屍鬼はそのままに、マッチを再び取り出して火をつける。

 残り二本。


「……先パイっ!!」


 闇の中から聞こえたその声に手元からマッチが落ちる。


「ああ、くそっ……!!……藤宮!!!俺はまだ生きてる!!!すぐにそっちにいくからもう逃げろ!!!」


「嫌ッスよ!!!先輩も一緒に逃げなきゃ私はこっから動かないッスよ!!!!なんスか!!人には死ぬなって言っといて自分だけは例外ッスか!!!!」


「んなこたぁねぇよ!!!すぐに合図が出る!!早く走れ!!もう喋らなくていいから早く!!!」


 残り一本。


 後ずさる足元で液体が跳ねた。その臭いを改めて嗅いでから確信する。

 鼻の先でトラックのタイヤからゴムの臭い。足元に流れ落ちたままの液体からは……ガソリンの臭い。


 横転したトラックの荷台の上によじ登り、これでもかと足元を蹴って食屍鬼をおびきよせる。さすがに荷台に登る食屍鬼はいない。今度こそ小さな棒の先端に火をつけた。


「キャンプファイアーだ……!」


 マッチの落下とともに炎は音を立てて燃え広がる。まるで炎など気にも留めずに進む食屍鬼とは違ってあらゆるものに引火するのを恐れた俺は荷台から食屍鬼たちの反対側へ飛び降りて全力で走り抜けた。


 目をつむりたくなるくらいの激しい炎による明りのおかげで食屍鬼たちとの距離感はつかめる。見えてしまうのも恐ろしいが、見えないことに比べるならまだこちらの方が全然マシというものだ。


 車の上に飛び乗るのを繰り返してできるだけ食屍鬼の手の届かないところを走る。

 ガードレールを飛び越え一度畑に降りるとようやく心臓を掴んでいた冷たい恐怖の手から逃れられた気がした。


 繰り返す激しい爆発音。漆黒の夜空に真っ黒い煙が広がる。

 地獄の窯の底のような炎の中、焼かれる屍者たちが身もだえることすらせずに機能を失う手足のせいで次々と棒きれの地面へと伏していくのが見えた。


 正面の道路には炎を見上げる五つの人影がある。


 畑の土をぐしゃぐしゃと踏みつぶしながら声をかけた。


「……みんな無事か……!?」


「……雨宮!」


 背中に詩音ちゃんをおぶった最上の声を聞く。

 その隣には疲れ果てた顔の中島さんが立っていた。自分のやったことは無駄にはならなかった。そう思わずにはいられなかった。


 呆けたまま突っ立っていると全身に強い衝撃が走る。仰け反りかけた体を正面から俺の腰に腕を回して支えたのは藤宮だった。


「……馬鹿先パイ」


 胸元に顔をうずめた藤宮の声は震えていた。


「……悪かったよ」


「ばーかばーかばーか」


 胸の中で一単語しかない罵詈雑言を吐いてから離れる際、無礼にも俺の体を突き飛ばして有沢の元へ駆けて行った。

 藤宮の顔がうずまったところは濡れて湿っていた。


「女の子を泣かせたのはこれが初めて?」


 最上が藤宮を見やってから含み笑いをして俺に尋ねる。


「……えぇ……これカウントに入れるの……?」


「あら、自覚もないの?」


「さすがに女の子泣かしちゃってるのにそれは……どうかと思います」


「ギルティ……完全に……ギルティッスよ……!」


「……言いたいことはいろいろあるが……まぁいつも通りに戻れたならそれでいいか」


「とりあえずマンションに帰ろう」俺は一言呟くと仲間とともに轟轟と燃える国道に振り返って夜道を歩き出した。

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