第六十二話「自殺志願者と生ける屍」
数十分も歩けば道路を歩く食屍鬼たちと畑を歩く俺たちの間にあった高低差はなくなって、今は白いガードレールと自転車が二台通れるかどうかという狭い歩道だけが生者と死者の歩く道を隔てていた。
振り返った空では太陽が灰色と紫色をまぜたような色の雲の下に落ちて、踏みつけていた自分たちの影がとうとう消え失せた。
あと一時間もしないうちに周囲は闇に飲まれ、行動時間の限界が訪れる。
そんな一刻を争う事態で俺たちはガードレールの陰に身を隠しながら息をひそめて国道を見渡していた。
「いいニュースと悪いニュースってやつだな」
「……一応悪いニュースの方から聞こうかしら」
「……目の前を大量の食屍鬼たちが歩いている」
俺は眉間にしわを寄せたまま、ありのまま今起こっていることを話す。頭がどうにかなりそうだ。
食屍鬼の数は見えてるだけで数十体。遮蔽物というよりはただの障害と化した車たちの陰やその向こうに何体いるのかは分からない。いずれにしろ先へ行けば行くほど数は増すだろう。
「……そんな状況でいいニュースなんてあり得るんスか」
「いいニュースとは言い切れないがな」
もう一度注意深く食屍鬼たちの動きを見る。・・おそらく俺の考えていることは当たっているだろう。
「さっきも言ったが食屍鬼があてもなくさまよってるんじゃなくて、ひたすら一方向だけを目指して進んでいるならその先に獲物が見つかったって合図だ。・・見ろよ。前の数十体はみんなショッピングモールの方面に向かってる」
「……それはいいニュースなんスかね」
「少なくとも中島さんはここまでたどり着いて、さらにこの先を行っている。って意味で言えばだな」
藤宮の苦い顔は「いいニュースの方」を聞いた後も変わることは無かった。気持ちは分かる。
「それともうひとつ。彼女はもうすぐ見つかる」
「……近いものね」
最上が遠くを見つめて呟いた。
「その通りだ。進める限界が近い」
改めて言葉にするといてもたってもいられなくなって、ガードレールから離れ、再び歩き出すよう指示を出してから続ける。
「陸橋のおかげで建物は見えないがもうショッピングモールまで二キロもないだろう。たった数日前の事が思い出せるだろ。その先には行けない。そろそろ彼女が見つかる」
そしてその結末も。
たった二キロ先には死者の波が押し寄せている。彼女や俺たちの命の限界はもうすぐそこだった。
「詩音ちゃん」
最上の手を掴んだまま片足をプラプラさせてバランスゲームをしている詩音ちゃんに声をかける。
「む。なにりくにー」
「目の前にいっぱいこわいひとがいるの、見えるよね」
「うん。だから静かにしてるの。パパとよく約束したの」
「……そうだね。あともうちょっとだけ我慢しててね」
この状況で幼い詩音ちゃんがおとなしいことはありがたいことだと思う。ただ、それ以上にこの歳の女の子がここまでおとなしいことに疑問を抱いてしまう。
まだ小学校にも挙がっていない女の子にとってこの世界はあまりにも残酷すぎる。自己防衛のために喜びや悲しみ、そして恐怖といった感情にまでも蓋をしてしまっているのではないかと思ってしまうほどだ。
「急ぐぞ」
遮蔽物の一切ない畑のど真ん中を息を切らして走る。踏み込んだ足が泥を飛ばして首筋や腕に付いたのが分かった。ぬかるんだ泥が靴の中に入り込んで足元の不快さをより一層際立てていたが、そんなことに注意を向けてはいられなかった。
逃げも隠れもしない、とまでは言わないが少なくとも隠密行動をやめた俺たちを食屍鬼が発見するのは容易いことだった。ガードレールを沿って歩く食屍鬼の何体かがこちらに気づいて畑に降りようとしていた。
だが、食屍鬼の前にはガードレールがあり、追いかけようともすれば力なくもたれかかるだけで畑に背中から落ちた時には、俺たちはその数十メートル先を走っている。
仮に難なく畑側に降りられたとしても亀のように遅い食屍鬼に追いつかれることは無い。俺たちが木陰で居眠りをすれば追いつかれても文句は言えないが、童話のウサギのような余裕は持ち合わせていない。
早まる鼓動と募る焦燥が足を前へと動かす。二つのリズムに合わせるかのようにただひたすらに闇の中へと走った。
「ああ……」
県道から国道に入って初めての大きな交差点だった。
パニック当初は信号が動いていたとは思うが、それが意味を成していなかったのかあまりにもショッキングな事故現場がその姿を現していた。
大きなトラックに潰された車は、食屍鬼に襲われた人間が肉塊と成り果てるように鉄の塊として隅っこでひしゃげている。トラックに突っ込んで燃え上がったのか真っ黒にすすけた車からは未だに鼻が曲がるような悪臭がしている。
窓からは真っ黒に焦げた一本の腕が力なく伸びていた。
トラックはその他数台を巻き込んで交差点の中央で横転していた。
ダメ押しに現場は食屍鬼が溢れかえっている。
「ああ……クソ……」
いずれも目に焼き付いて離れないほどの光景だった。
しかし今はそれすら気に留められなくなるほどの事態が目の前で起こっている。
個人経営の小さな自動車整備工場。閉まり切ったシャッターに群がる黒い血染めの腕。
紛れもなく食屍鬼達の終着点。
全員が言葉を失っていた。何が起こったのか理解したからだろう。
シャッターは軋みながらおしあいへしあう食屍鬼の群れにだんだんと曲がっていく。あと五分もしないうちに食屍鬼は中へとなだれ込む。
「……おねえちゃんがいる」
詩音ちゃんが上の方を指さす。整備工場のシャッターの上には小さなベランダがあって、群がる食屍鬼たちを見下ろす人影があった。
たまらず駆けだして名前を呼ぼうとする俺の腕を最上はギュッと掴んでかぶりをふった。
「……もう助からない。もう助けられない」
中島さんはパニックに陥っているようには見えなかった。ゆっくりとベランダから身を乗り出して闇にうごめく食屍鬼を眺めていた。
きっとそこは彼女にとっての崖の上であり、ビルの屋上であり、駅のホームなのだろう。
「……でも」
振りほどこうとする俺の腕をさらに強く掴む。
「……もう分かってるんでしょう。あれが彼女の望みなの。中島さんの隣にいた大切な人はもういない。彼女にはもう何もないの。何もかも失ったままこれから生きていくのと、ここで死ぬこと、どっちが楽かってことくらいもう雨宮にも分かってるでしょう」
「……最上先輩」
空の群青が失せて辺りは夜の闇に包まれた。互いの顔も分からない中、最上の眼差しはしっかりと目に映っていた。感情を押し殺して最上は俺と向き合っている。最上はきっと選んだのだろう。そして俺に尋ねている。選び、決断を下せと。
「もう一度言うわ。ちゃんと考えて。残酷なことかもしれないけどあなたのエゴで選ばないで。彼女の事を考えてあげて」
ベランダに立つ中島さんはもう間もなくシャッターを押し破る食屍鬼を見据えたまま動かずにいた。
「……どっちが楽かって……同じこと、隣にいる詩音ちゃんにも言えるのか」
最上に言った言葉は自分の決断を下すための自問自答にも近かった。
「……いいえ。言えないわ。彼女と詩音ちゃんは違うもの。どちらの傷もきっと計り知れない。でもそれは私たちだって同じでしょ?失ったのが目の前かそうじゃないかってだけ。そういう現実も受け止めて私たちは辛いけど生きていこうって結論に至った。私たちも選んでるの。彼女も選んだ。選んでこれを望んだ。……それに」
掴んだ腕の力が少しだけ弱くなる。
「雨宮が、みんながいなくなったら、私もきっと同じ道を選ぶ。だから行かないで。この先に行けば絶対に助からない」
最上は俺の腕から手を離すと、それ以上は何も言わなかった。
「……俺も、前はそう考えてた。お前と全く同じことを。誰か一人でもここから欠けたら俺はきっと生きてはいけない。……でもそうじゃないんだ。ショッピングモールでいろんな人に会って分かった。いろんな人を失って分かったんだ。みんなに会わなきゃきっと分からなかった」
シャッターは歪み、建物は揺れている。
「だから、もし俺が死んだとしてもこれからを生きてくれないか。俺の言葉にエゴがあるとするならきっとこれだけだ。俺が生きてたってちゃんと証明してほしいから、お前たちには生きていてほしい」
俺は自分の出した結論が間違っていないかを確かめるために、バールを握って交差点へと赴く。
「雨宮!!」
「……生憎死ぬ気はない。お前らは中島さんの事を頼んだぞ」
「頼むって……何するつもりなんスか……!!」
「何って……こうすんだよ!!」
勢いよくガードレールを飛び越えて、車のフロントガラスを思い切り叩き割る。
「さぁ、こっちだ食屍鬼共!!!もっと手軽に食える餌がここにいるぞ!!」
シャッターに群がる食屍鬼と道を歩く食屍鬼が一斉にこちらを向いたのが暗闇の中でも分かった。




