第六十一話「アフターダーク」
強く吹いていた風は穏やかに、けれども夕方の冷気を纏って俺たちを包みこんでいた。
事故現場から数十メートル進めば粘質の血が先日の土砂降りの雨にも流されずにアスファルトに大量にこびりついてむせかえるような臭いを発している。閉じられた車の窓をバンバンと内側から叩く音に反応して、外に出て車の陰に隠れていた食屍鬼がうろうろとその足を少しだけ速めて車にぶつかりながら獲物を探し始めた。
もちろん音を出すのは食屍鬼とはいえ、奴らは同志には目もくれずに生きている俺たちだけを狙ってやってくる。
車の中で動けないままの食屍鬼の数は?反対に俺たちを食い殺しに来れる食屍鬼の数は?それらとの距離は?うごめく食屍鬼達の出す音はそれらすべてを判断の及ばないところまで追いやる。
これ以上ここにいるのは危険だと判断した俺たちは遮蔽物となっていた車の渋滞から抜け出して一メートルほど道路から標高の低くなった畑に降りた。
雨水を含んだ畑の土に靴がずぶずぶと埋もれる。その感触は先の戦いで武器越しに感じていた食屍鬼のはらわたにも似ていた。足裏に残る不快感を枯草でなびって先を急ぐ。
「もうじき暗くなりそうッスけど……」
後ろを歩く藤宮が小さくこぼす。
「……っていうかそろそろ限界じゃないッスか。戻らないと引き返せなくなるッスよ?……夜に移動するのはとても危険だって言ってたじゃないッスか」
「結衣ちゃん……」
「……見捨てるわけにはいかないってのも分かるッスよ。私だってそう思うから付いてきたんス……でも、これ以上先に行ったらみんな生きて戻れるか分からないじゃないッスか」
有沢も最上も、暮れ行く空を見上げてから俺の返答を待っていた。「引き返そう」そのたった一言を。
今戻ればここにいる全員が助かる可能性は高い。そして戻って秋津さんたちに「探したけどこれ以上の捜索は困難だから帰って来た」とだけ言えばそれで済む。誰も俺たちの事は責められない。
みんな事情を知っている。中島さんは恋人を目の前で失って自暴自棄になってしまっていた。誰だってそう考えているはずだ。こうなることも心の隅で分かっていたはずだ。俺だってそうだった。だから彼女のことが気がかりだった。
これ以上は危険だと分かっていた。引き返すべきだと感じてもいる。
その思いとは裏腹に「引き返そう」の一言が言えずにいた。
「最上」
「……どうするの雨宮」
俺は最上のもとに歩いてバールを手渡す。最上はそれを受け取らずに俺の目を見て尋ねた。
「これはどういうこと……?」
「今ならお前たちだけでも引き返してマンションに戻れる。部員と詩音ちゃんの事を頼めるか?」
「ちょっと先パイ……!」
藤宮の目を見て小さくかぶりをふる。
これ以上先に行けば部員を守れはしないだろう。それは俺にもよく分かっていた。進むべきではない。
ただ、それ以上に戻る気にもなれなかった。たとえ誰が何と言おうと、誰に引きずられようと俺は前に進みたかった。
「そんな頼みを私が聞くと思う?」
バールを握る俺の手を掴んで押し戻す。
「もし私たちの身を案じて言っているのなら、私たちだって同じことを考えてるってさっき言ったでしょう?」
「……今回だけだ。今回ばかりは藤宮のいう事が正しい。俺はきっと間違ったことをしてる」
「そんなことないですよ部長……。確かに結衣ちゃんの言う通りに危ないことになるかもしれないですけど……でも、部長は間違ったことしてないです。私は……そう思ってます」
「別に私だって進むって先パイが決めたなら一緒に進むッスよ。前に言ったじゃないッスか。でも……一つだけ、先パイにどうしても聞きたいことがあるッス」
藤宮が俺の顔を真剣なまなざしで見る。
「……そこまで中島さんにこだわる理由ってなんなんスか」
「……それはどういう」
「……深い意味はないっスけど。でも、聞いておきたいだけなんス。中島さんは私より、私たちより大事な人なんスか?」
「……そういうことじゃないよ。俺自身がどうのこうのって理由で彼女を助けたいわけじゃない。彼女のために彼女を助けたいんだ」
「……そうっスか。分かったッスよ。よく分かんないスけど。……さ、無駄骨にならないうちに進むッスよ」
そういうと藤宮は俺の前を横切ってモール方面へと歩き始めた。その足取りはどこか今までよりも軽そうに見えた。
隣を歩く最上の長く伸びた影をなんとなしに見つめながら俺は重要なことに気づく。
「……誰か明りになるものは持ってきたか?」
部員たちは全員首を横に振った。
「陽の出ているうちに戻れるって思ってたから誰も用意してないわ」
「……そうだよな」
幸い日没まではまだ時間がありそうなので一度国道に戻って照明器具を混雑する車の車内から拝借することにした。
道路は相変わらずの渋滞が続き、発生源の分からないうめき声が静かに聞こえている。血の匂い、鉄の匂い、油の匂い、脂の匂い。似たような臭いが混ざり合い、溶け合い、不快さを鼻に募らせていく。
最上にバールを握らせて周囲を警戒してもらい、俺は一台一台車のドアを覗き込み、安全ならドアを開けて照明器具を探した。
どの車を覗いても発煙筒だけはしっかりあって、上着のポケットに六本ほどそれを突っ込んだ。照明器具としては心もとないが何かしらには使えると思った。
頭の中には常に懐中電灯の姿が浮かんではいたが、さすがにこの非常時には誰もが携行したらしく二十台ほどを目まぐるしく探したが一つも出てこなかった。
俺を囲んで周囲を見回す部員たちに振り返りかぶりを振る。
「ダメだ。何もない」
俺は上着の胸ポケットから数本だけ入ったマッチを手のひらの上に乗せた。
「原始的なものだけど、かろうじて照明器具と呼べそうなものはこれくらいしかないな」
「まぁ、使い方によってはきちんとしたものになるから」
フォローを入れた最上だが、落ちてきた夕日をぼんやりと見つめて「無いよりましってとこだけど」と正直な意見を口にした。
「先を急ごう。動けなくなる前に中島さんを見つけたい」
ここからはまさに決死の覚悟を持って臨む道だ。道中を振り返ると、頭上にはいくつもの星が輝いていた。まだ日は沈み切っていないのに現れた白銀の星の数に息を飲む。
それから俺たちはぬかるむ畑へと再び降りて、枯草の匂いを巻き上げながら歩き始めた。




