第六十話「終末世界の渋滞事情」
忙しなく人が歩く都会の喧騒を離れ、車が狭い道を行く住宅街を抜け、たまに軽トラックがそばを横切る田舎道に佇んでいるとしよう。
冬の風はからっきしの畑や田んぼの上を通り、自分をまるで障害などとは思わないかのようにその地に吹き曝し続ける。悠久の時とまでは言わないが時間は頭上の青空をわずかに進む雲のように静かにゆっくりと流れ続ける。
背の低い草がかすれあい、土のにおいをまきあげる。
小さな蝶が目の前を横切り、小さな花が足元に遠慮がちに咲いていてそれらが春の訪れを告げているのだと知る。
陽の光は平等に土地を照らし、冷たい空気をぬくぬくと温めていく。
緊張とも焦燥とも無縁などうしようもないほど、のどかな土地のはずだ。
春の風の音が時折うめき声にすら聞こえる。もしかしたら無数のうめき声が本当に運ばれてきているのかもしれない。草を揺らすその音が食屍鬼の足が地面を擦る音にも聞こえる。
生ぬるさを含んだ腐臭が風に乗ってやってきているようにも思う。陽に照らされた雨上がりの土の匂いにしては嫌に鼻の奥を刺激する。
まだ遠くに片手で数えられるほどしか視認はできないが、陸橋を越えた先には確かに無数の食屍鬼がいるのだ。
向かい風にも足を取られていたが、向けられてもいない殺意無き殺意に何度も足が止まりそうになる。
中島さんは踏みとどまれているだろうか。
さすがにモールには着いていないだろうと自分に言い聞かせて、前を歩く彼女の姿を追いかけて歩き続ける。
彼女にはどうしても伝えたいことがあった。
狭い県道はやがて国道へと突き当たる。
高速道路と高速道路をつなぐこの国道は、世界がこうなる以前から交通量が多く渋滞を多く引き起こす道として周辺住民には知れ渡っていた。俺も家族で旅行だなんだというたびにこの道を通っていたのだが、そのたびに数キロの渋滞に巻き込まれていた。
その渋滞の列の先が見えないくらいに、今現在でも渋滞は目の前で続いている。エンジンを止めたままこの先も動くことない渋滞の列。都市部を逃れ、ここよりももっと安全な場所へと走らせた車や中に乗っていた人たちはここでその計画を断念したのだろう。
「……うわぁ……なんていうか、車が延々と並んでるだけなんスけど、おぞましいっスね」
そんな光景を見て藤宮が呟いた。
「そうね。この車に乗っていた人がどうなったかなんて考えたくもないわ」
おそらく車の列はショッピングモールを越えて、その先の高速道路まで続いているのだろう。目の前のを覆いつくすようなゾンビの数では取るに足らないが、道中数体のゾンビをやりすごすのならちょうどいい遮蔽物にはなりそうだ。
「……前にこわいひとがいるみたいだよ」
詩音ちゃんが俺の服の裾を掴んでバンを指す。バンの向こうは視界が悪くて見えなかったが、耳を凝らせば確かに食屍鬼の気配があった。
俺は振り返り人差し指を唇の前に当てて、音を立てないように促す。
詩音ちゃんは俺の真似をして同じポーズをとった。
前準備もなく手に持っているのは、石井さんからもらった「バールのようなもの」だけだ。まさか石井さんたちも俺たちが外に出るとは思ってもいなかっただろう。あの軍勢を再び相手にバールのようなものだけで立ち向かうなんてなおさらだ。
もっとも戦わなくて済むのなら一体とも交えずに中島さんを連れ戻したい。
食屍鬼はかすかにうめきながら地面を擦り、車の間を歩いていく。俺たちは身を屈めて車の陰に隠れながらゆっくりと進む。それこそ、足音の一つも立てずに。
バールを握る手は必要以上に震えている。今更食屍鬼の一体や二体、倒せない相手ではない。そこにいる以上、危険ならば倒してしまいたい。
だが多くの遮蔽物は俺たちにとって利であり、不利だ。むこうがこちらがどこにいるか理解できないかわりに、こちらもどこに潜んでいるのかを正しく認識できない。下手に攻撃をしかけるわけにはいかなかった。
少しずつ前に進んでいくと、渋滞が途中で途切れているのが分かった。といっても十メートル先にはまた渋滞が続いている。
交差点だろうかと可能な限りで周囲を見回したが横に反れた道はなく、雨水を孕んだ畑が続いているだけだった。
食屍鬼は渋滞の開けた場所へとゆっくり歩いていく。あれがうまいこと先に進まない限りは車の陰で身を屈める以外にない。こちらは一分が惜しいともいうのに。
「……そこ、事故があったみたいね」
一番後ろの最上が中腰で開けた道路をみやる。食屍鬼は依然としてショッピングモールの方向をむいたままなので俺も中腰で車の窓越しに道路へと視線を向けた。
「……どういうことだ?」
思わず口にしてしまうほど、事故現場は違和感というもので埋め尽くされていた。
一台の車が歩道に乗り上げて白いフェンスを突き破り、車体半分が宙に浮いている。その車の隣、右車線で事故に巻き込まれたらしき車はハンドルを急に切ったのか前の車のトランクをぐしゃぐしゃに押しつぶして止まっていた。
車がぶつかっているのにも関わらずアクセルを踏み続けたようだ。タイヤ痕がアスファルトに残っている。
それらが異常とも呼べる最大の理由は、この場所でハンドルを切るような事態が到底思い浮かばないということだ。まっすぐな道を渋滞は何キロにもわたって続いている。決して速度を出すようなこともなかっただろう。ましてや交差点もない。
一体、何があってこの車は他の車を押しのけてフェンスへと突っ込んだ?何があって隣の車は前の車を押しつぶすまでにアクセルを踏み続けた?
詳細は分からない。だが、きっとそこに食屍鬼の姿があったはずだ。
前の食屍鬼はゆっくりと確実に再び続く渋滞の先へと向かっている。
「……中島さんは……本当にこの先に行ったんですかね」
声を潜めて有沢が質問を投げかける。
「絶対とは言い切れないけどな。ただ……そこにいる食屍鬼は確実にモールの方へ向かっている。人の姿が見えなくなっても、延々と獲物の向かった方へ歩き続けるのが食屍鬼の習性だ。生きている人が近くを通らない限りはただそのあたりを彷徨っているだけになっていただろう」
「さすが食屍鬼ハンター雨宮先パイッス」
「いつからそんな怪しい肩書がついたんだよ……」
「ほら、雨宮。前の食屍鬼が向こうに行ったわよ」
「ああ、うん分かった。行くぞ」
最上に促され、車の陰から出て事故現場へと歩み入る。
もともと事故現場なんて見たこともない俺には、アスファルトに散らばった窓ガラスの破片や、削れて黒く変色したバンパーでさえ心臓の鼓動を早めるには十分だった。
事故現場特有かどうかは知らないが、鉄の匂いが微かに香っている。雨が上がって巻きあがるのは腐臭だけではないようだ。
水たまりには油が張って不快な虹色を滲ませている。ぐるぐると形状をもたない油の膜が風で揺れるたびに言いようのない不安が襲う。
けれども、一歩歩まねばと事故現場から離れて、再び遮蔽物である車の陰へと隠れた。
だんだんと低くなる太陽の日が車によってさえぎられて、少しばかりの暖かさが周囲から失われる。気温も正午よりだんだんと低くなっていくのが分かっていた。
車の陰に隠れてから変わったのは気温だけではなかった。
「……なんかこの匂い、事故現場からしてるわけじゃないみたいですね」
「ああ、この先からみたいだな」
強く香る鉄の匂い。それも、そんなに遠くからではない。危険を察知した体がその歩みをさらに遅くしていく。早く進みたい本心と、進むのを拒む本能が衝突しあっていた。
できるだけ身を屈め、車体に体をつけていくと、再び車のボディが真一文字に剥げて黒く変色している箇所を目の先で見つけた。その割に車の損傷は全くなく、きちんと車線上で止まっている。
じりじりと進むその足が、変色した箇所の数歩だけ前で止まる。
「……ああ、」
そうか。これはボディが剥げたわけじゃないのか。
黒くなっているのは削れたわけじゃない。
真一文字に伸びるその先で、くっきりと手形が残されている。
「塗り付けられたんだ」
「わぁっ!!!ちょっ!!離すッスよ!!!!!」
「結衣ちゃん!!!」
叫び声がして振り返ると、車の後部座席の窓から藤宮の髪の毛を掴む手が伸びていた。
「藤宮!!」
駆け寄って藤宮の髪を掴む手を強引に引き剥がそうと試みる。
「いだっ!!痛いっスよ!!」
腕はだらんと垂れ下がっているが、髪の毛を掴む手の握力はすさまじく、痛がる藤宮を見てすぐさま後部座席の本体の頭を貫くために窓に向き直った。
窓は半分以下のところまで開いてはいたが、完全に開け放たれているわけではなくそこから伸びた腕のおかげで頭は狙いづらかった。
「くそっ……」
腕を切り落とせれば一番だが、バールで腕を叩き折るには時間がかかるうえ藤宮の負担も大きい。
「先パイ!!」
だらりと伸びた腕が急激に硬直して藤宮の頭を強引に車内へ引きずり込もうとする。車体に顔をぶつけた藤宮が鈍い悲鳴をあげた。
「待ってろ!!」
バールを振り上げて後部座席の窓ガラスを割る。家のガラスとは違って独特の固さをもったそれは一撃では割れずに、なんども殴打するのを覚悟した。
この状況下でそれより避けたいこともない。自分の視界に入らない食屍鬼に居場所を教えているようなものだった。
だとしても藤宮の命には代えられない。
五度バールを振り下ろすと窓ガラスは綺麗にすべて割れて、藤宮の頭をひっつかむ老婆と対面した。
「これでも食らってろ!」
腕を引き戻して藤宮の頭に食らいつこうと大きく開けた口へとバールを突き刺す。生前にそんな咬筋力はなかったであろう、がっしりと咥えて離さない老婆の口の中を俺はバールで乱暴にかき回した。
びちゃびちゃと閉じた口から黒い血や歯のかけらが溢れて、ようやく老婆は藤宮の髪の毛を手放す。
強引にバールを引き抜くと、先端に赤黒い何かが引っかかっていた。それがなんなのかは想像もしたくない。
再び俺たちに食らいつこうと後部座席から出た頭を叩き割り、車のボディが黒く汚れると老婆はピクリとも動かなくなった。
「大丈夫だったか?」
「髪の毛が何本か抜けたっスよ……」
「それで済んだんだから感謝するんだな」
「雨宮……!」
最上が俺たちの周囲を包む音に気付いて一息つく俺を呼ぶ。
「分かってるさ。遮蔽物だと思ってた車も利点にはならないってことだな」
多くの車が内側からガラスをバンバンと叩かれギシギシと揺れている。中にはドアを開け放った車の中にシートベルトをしたままで息絶えていた食屍鬼もいた。もっとも絶えたのは息であって脳は動いたままらしい。があがあとうめきながら俺たちを睨みつけていた。
南から吹いた強風にのってやってきたのは鉄の匂いなんかじゃなく、紛れもなく血の匂いだった。




