第五十九話「ALIVE」
静寂に包まれた階段を駆けのぼる。自分の足音が、上着のこすれあう音が、切れる息が静寂を破壊していく。
もしかしたら彼女の中で受け入れきれなかったことが事態の一時的な沈静によって受け入れることが出来てしまったのかもしれない。大きな喪失に気づけばきっと彼女は行動に出てしまうだろう。
何故そう思ったのかは分からない。一度だって彼女が行動に踏み込んだことは無かった。
ただ、もし自分が同じ立場だったら。いつしか藤宮に言った言葉を思い出す。あいつらがいなければきっと生きてはいけない。誰か一人欠けたのならきっと生きてはいけない。
唯一の心の拠り所だった彼を目の前で失った彼女ならなおさらだろう。
でも違うんだ。
たとえみんないなくなってしまったとしても、俺は生きていかなくちゃいけない。
どうか間違ったことだけはしないでほしかった。
「……これは」
階段を登った先にあった屋上への扉は固く閉ざされていた。黄ばんだ白い扉の前にはカラーコーンが置かれており、動かされた形跡もない。うっすらと被った白い埃がそれを物語っていた。
ドアノブに手を掛けると、やはり手のひらに埃が付着する。
ここじゃない。
だからといって胸を撫で下ろせるわけでも無かったので、再びバタバタと階段を降り始める。駆け上っている最中は全く気付かなかったが、四階の一室のドアが激しく内側から叩かれていた。このマンションも蓋を開ければなんとやらだ。周りが静かだったことが唯一の救いだった。
「雨宮……!」
息を切らしながらパタパタと階段を登って来た最上と対面する。
「中島さんは……?」
「……上にはいなかった。いつ出ていったか分かるか?」
「詩音ちゃんはみんなが出て行ってすぐって。私たちについていったと思ったみたい」
……みんなが出て行ってすぐ。だとしたらそれなりに時間は経っている。
「靴はあったか?」
「……そういえば無かったかもしれない」
「……なら外だ」
まだ探せる範囲内にはいるはずだろう。そう思った時には早足で階段を駆け下りていた。
「待って!」
そんな俺を上から最上が呼び止める。
「……一人で探しに行く気?それはさせないわよ」
「そんなこと言ったってここでじっとしてるわけにはいかないだろ。……それに詩音ちゃんがいる。今回ばかりは全員で出ていくことはできない。お前だけが頼りなんだ」
「私たちも雨宮だけが頼りなの!雨宮がいなくなったらどうすることもできないの!それくらい分かっているでしょう……?」
「分かってるさ。だから必ず戻ってくる」
「保証はできないでしょ?」
その言葉に何も言い返せなかった。
「だから私たちも一緒に探す。詩音ちゃんの事は確かに心配かもしれないけど、全員が一緒にいないのはもっと心配なの。現にここにだって食屍鬼はいた。外ならいくらでも逃げようがあるけど、もしまたあんなことがあったら私たちだけじゃ対処できない。お願い、ちゃんと考えてよ」
最上の言う事はいつも正しい。世界がこうなってしまう前からいつだってそうだった。
「・・分かったよ。分かった。すぐ出るから全員に伝えてくれ」
できれば秋津さんたちが帰ってくる前に戻れたらいい。そんなことを考えながらマンションを一時後にした。
マンションからでも巻き起こる砂嵐を確認できたが、百聞は一見に如かずでうなりをあげながら文字通り空を裂く向かい風は歩くのさえ困難に思えるほどだった。翻る上着が風を受けて足止めになるほどの強風に詩音ちゃんは最上の手を握って耐えていた。その手を離したら本当に飛ばされてしまいそうだった。
「……確かにまだ遠くには行ってないと思うんですけど……あてがないというか……どちらにむかえばいいのかも分からないですね」
マンションから出て十分ほどできるだけ見通しの良いところへと歩けば、遮るものすら何もない田んぼの真ん中のような道に出た。
まったくもって有沢の言う通りでこの道を北に向かえばいいのか南に向かえばいいのかさえ分からなかった。できれば追い風になる北に向かいたいものだが、時間は無駄にできない。
「あれは……食屍鬼ッスね……この辺にも出てくるようになったんスね。あのマンションにいるのもそろそろ潮時じゃないッスか」
藤宮の指さす方向、この道の何百メートルか先でよろよろと歩く食屍鬼がいた。影が小さく、歩き方だけで判断したが間違いはないだろう。
「今までだってそうだったろ。結局安息の地なんてものはどこにもないんだ」
「でも実際少し田舎の方に行ってみたら数は少なくなったわけじゃないッスか。ちょっと期待はしてたんスけどね」
「それで、どっちを探すの?二手にはなるべく別れたくないけど」
「そんなことはしない。だったら最初から俺一人で来た方がマシだからな」
なんにせよ、もう迷う時間もない。見渡す景色はだんだんと日が低くなってきた田園風景で食屍鬼はいれど人の影はない。田んぼを分断する狭いアスファルトの道には枯草や乾いた泥が落ちている。まさに寂れた田舎町と言ったところか。
「……ん?誰かこの泥踏んだッスか?」
藤宮が目の前の泥を指さす。泥の端っこは乾いてちぎれていたが、中心部分は黒く湿り気を帯び、靴の裏の跡を残していた。
「……いや、踏んだかどうかは。っていうか靴の裏確認すれば分かるんじゃないか?」
「私と由利ちゃんはおそろなんで違うッスね」
「詩音のじゃないよ」
「じゃあ、私?」
片足をあげて靴裏が一致していないかを確認する最上。俺は自分の片足をあげる前にアスファルトに塗り付けられた泥の先が目に入った。かすれて乾いてはいるが南側へと数歩だけ足跡が残っている。そして俺たち全員はまだこの泥の先に足を踏み入れていない。自分の靴の裏を確認するまでもなかった。
「……足跡ですよね」
俺の視線の向かう先が気になっていたのか、覗き込むようにして有沢が呟く。
「中島さんのものかどうかは分からないけどな」
「……でも、ちゃんと歩いてる人の足跡ですよ」
有沢の言う通り、アスファルトにくっきり浮かんだ足跡は足を引きずって歩く食屍鬼のものではない。つい最近ここを歩いたであろう生存者の足跡だ。
そしてその生存者の向かう先には、
「……ショッピングモールか」
死者の群れが集まった俺たちのかつての安息の地。
彼女はきっとそこに向かっている。きっとそこに彼がいるから。
彼女が向かったと思われる場所を口にすると、部員は不安を露わにした。
「……ショッピングモールって……。まさか、行くとか言わないッスよね」
「雨宮……」
自分の頭の中でさえ「行くな」という意見が大半を占めている。ここには守るべき部員たちがいて、秋津さんから託された彼女がいる。大事なものを両手に抱えている。なのに死にに行くのも同然のことをする必要が果たしてあるのだろうか。
「大事なことなんだ」
そんな疑問を打ち消すように俺は仲間へと告げる。
「中島さんはまだ生きてる。見捨てるわけにはいかない」
理由はただそれだけだった。仲間の命を懸けるのに十分な理由にはならないのだろう。
それでも、この世界で人が生きているということは何よりも大事なことだった。
藤宮は俺の目を見て頷く。
「……そうっスよね。さっきようやく友達になれた人ッスから」
吹き荒れる向かい風が少しだけ長くなった前髪をまきあげる。
たった一人の命のために、何千、何万もの死者がいる死地へと俺たちは歩き始めた。




