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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
救助チーム:ケイト・バーキン伍長
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第四十八話「kitty」

 感染者が死亡しているのにどうやって動いているのかは不明だ。そもそも死亡している時点で感染者とは呼べない。リビングデッド、ゾンビ、フリークス……こう言っては何だけれどいずれも私たちの脳では到底理解できないことがこの世界で起こっている。当たり前のように彼らをゾンビや感染者と呼んでいるけど、もはやそれらは化け物同然でウイルスによるアウトブレイクどころの話ではなくなっているのだ。


 いずれその正体が突き止められることには間違いないのだけれど、現段階ではありとあらゆることに説明がつかない。その中で私たちはそれを受け入れたり、受け入れなかったりしながら生きている。


 そんな中で一つだけはっきりしていることがある。彼らは決して不死ではないということだ。彼らは足をもがれようが腕がちぎれようが、もっと言えば脳さえ無事なら彼らは首を飛ばされても生きている。

 けれど脳さえ破壊することが出来れば彼らは死ぬ。……死ぬという表現が正しいのかどうかは分からない。完全に動きを停止するといった方が正しいかも。まるで電池を抜かれたおもちゃのロボットのようにピクリとも動かなくなる。


 彼らに唯一生きているとする部分があれば、前述したとおり脳だけだ。手足や顎が動くのなら神経も生きているのかもしれない。何らかの形でエネルギーも産生しているのかもしれない。

 とにかく脳さえ破壊すれば彼らは動きを停止する。……本当にそうだろうか?


 これは人間にも言えることだけれど、脳を破壊したからと言ってすぐに動きが止まるかと言えばそうではない。

 脳の発する信号が体へと行きわたっているほんの数舜、人は脳がなかったとしても動くことができる。それはあくまで単調な動きだけれど、例えば一歩だけ歩くことや……噛みつくことくらいなら或いは。感染者なら、彼らならまさにそれだ。常に歩くこと、噛みつくことに信号が送られている彼らならば脳を破壊されたとて数秒間は行動が可能だろう。


 私に起こったことはつまりそういう事だ。


 油断。


 数舜の油断が私を感染に導いた。

 痛くて泣きそうだけれど、これはそういう油断の代償だ。


 私は床に手を付いて立ち上がる。負担のかかった足は悲鳴を上げるかのように激痛を伴い、拭ったはずの脂汗をまたしても額に浮かべる。悲鳴を奥歯で噛みしめると鉄の味が口に広がった。


「キティ!!立たないで!今は立っちゃダメ!!」


 少尉が私の肩を持って再び床に下ろそうとするのを私は拒んだ。


「大丈夫です……私はまだ歩けます」


「だって、今歩いたらそれこそ感染の速度が……!」


「……遅かれ早かれ私はもう感染します。たぶん数時間くらいで私は死んで……化け物になる。その前にこの作戦だけは完遂したいんです」


 少尉の目を見つめる。マリンブルーとエメラルドグリーンが相も変わらずキラキラと光り輝いていた。


「ごめんなさい……あたしが……!」


「……いえ、少尉のせいじゃないです。こういうこともあるんだって私が考えてなかっただけなので……自業自得ってやつです。だから下手に気負わないでください」


 准尉たちも沈んだ顔で私たちを囲んでいる。


「子猫ちゃん……お前」


「准尉たちも……私は大丈夫です。まだ猶予はある。最後まで任務は全うできますから」


 ……そう、まだ私はここで死ぬべきじゃない。隊員(みんな)の士気が下がる前にどうにか歩かなければ。


「アルビ……マディソン少尉!!!」


 階段を登り切った軍曹が声を張り上げる。


「ダメだ!!上の階も似たようなもんだ!!しかもこれより上には屋上の階段がない!!屋上への階段はこの廊下の一番奥だ!!」


「……クソッたれ」


 准尉が吐き捨てる。

 隊員たちも弾薬も消耗している。屋上まであと少しというところで状況はかなり絶望的だった。


「……どうします少尉?戻って反対側の階段から屋上まで行くっていう手もありますが……」


 准尉の声に少尉は何も返さなかった。少尉の腕にもたれていた私は見えた。その喉が震えていたのを。


「……少尉?」


「……あたしの所為だ」


 私の腰に回された手が私の服の裾をギュッと掴む。


「また……あたしの部隊で……部下が……」


 うつむいて真っ白な髪を垂らしながら弱弱しい声で呟く。


「少尉、気持ちは分かるが命令を下してくださいよ。このままじゃ伍長だけでなく俺たちもバイターに噛まれる」


 准尉が急かすと、少尉は瞳から輝きを失わせて准尉を睨んだ。


「……随分と軽くものを言うんだなオーウェン准尉。……あんたには伍長が見えてないのか?」


「……それはあんたにも言えることですよ少尉。伍長がちゃんと見えてるのか?」


 抑揚のない声の少尉に対して、准尉の声は苛立ちをはらんでいた。


「……伍長は感染した。これがどういう意味か分からないの……?あたしには分かる。痛いくらいに。同じようにして部下を目の前で失ったことがあるから……!この前ようやく感染者を目の前にしたあんたには……!!」


「分からねぇよ」


 准尉はライフルをその場に置いて、腰に手を当てながら少尉を見据えた。


「あんたの過去に何があったか、部下を失う苦しみだとか、んなこたぁ分からねぇし知ったこっちゃねぇ。だが……事実として伍長が今まで撃ち殺してきた奴のように成り果てるのは理解しているつもりだ。俺はそれで十分だと思っている」


「……十分って……それでも同じ仲間なの……?」


「あぁ、立派なチームの一員だ。伍長だけじゃなく、この場にいる全員……あんた一人を除いて俺は仲間だと思ってる」


「っ……どういう意味だ准尉!!」


 私の腰から手を離すと、少尉は准尉に掴みかかった。


「どの口で仲間だと言っている!!伍長は……ケイトはもう死んだも同然なんだぞ!!ここは戦場じゃない!!!私たちは敵を殺すための部隊じゃない!!負傷した仲間に構わず先に進めって部隊じゃない!!少なくともあたしの率いる部隊はそうだ!!あんたこそそうだ准尉!!仲間を見捨てるつもりなら、あたしは小隊長としてあんたをこの小隊の一員だとは認めない!!!」

 

 胸倉を掴んで吠え立てる少尉を力づくで突き放し、准尉は少尉の胸倉を掴み返した。


「……いい加減しろよてめえ!!!伍長が死ぬことも、俺たちの存在意義も俺はよく分かってる!!あんたよりな!!……伍長が見えてないだと?見えてないのはあんたの方だ白狼!伍長も俺も軍曹も他の下士官もあんたとは違う方向を見ているからな!!前を見てんだよ!!いつまでも後ろを見て前に進まねぇあんたと違ってな!!」


 准尉は少尉の頭を掴んで私へと向ける。うるんだオッドアイが私を見つめた。


「……あんたはこの目を一度でも見たか……!?自分が死ぬってのにこいつはただひたすらに前を見て任務を全うするって宣言した!あんた言ったよな……?こんなくだらねぇことのために部下を死なせるつもりはねぇってな!前に進まねぇってのはこんなくだらねぇことよりももっとくだらねぇ理由で伍長が死ぬってことだろうが!!伍長(こいつ)の命をあんたの感傷の餌にするんじゃねぇよ!!!」


 准尉は少尉の頭から手を離して固いコンクリートの壁を叩いた。

 階段は静寂に包まれ、誰もがその場に立ち尽くしたままだった。私は呼吸を整えながら静寂に波紋を作る。


「……少尉、私は行きますよ。少尉が止めても、私は行きます。行かなくちゃいけない。絶望的だって、もう助からないって誰かが言っても、私は目の前にある小さな命を助けたいんです」

 

 銃弾の少なくなったライフルを肩に下げて、拳銃に弾をこめる。


「……ほんの短い間でしたけど、私の事……いろいろ思ってくれたのはすごく感謝しています。今だって、私の事を思ってくれての言葉だって私にはよく分かります」


 足が痛むけれどしっかりと地面を踏みしめて階段を一歩ずつ降りていく。


「私は……少尉に憧れてました。それは今も変わらない。いつだって自分の信じたことを曲げない生き方に私は憧れてます。……でも、これは私の最期のお願いなんですけど」


 窓から射す光に照らされた白狼へと振り返る。


「今この瞬間だけ、私の事信じてもらえませんか?」


 逆光でよく見えないけど、少尉はきっと頷いた。




 小隊はぞろぞろと階段を降りて、私の後を追いながら反対側の階段へと向かう。


 息が荒くなるのを感じていた。呼吸が苦しくなっていた。体全体が熱を帯び、そこら中に汗をかいて今にも倒れそうだった。

 それでも私の足は歩くことを止めなかった。止まる素振りさえ見せなかった。


「……子猫ちゃん」


 軍曹が震えた声で私を呼ぶ。首だけ振り返ると、軍曹は袖で目元を拭っていた。


「いや……何でもねぇよ……」


 なんとなく失礼な気がするからあえて言わないけど、軍曹は泣いていた。別に私はまだ死んでないのに。なんだかそれがおかしくって少しだけ呼吸が軽くなる。


 先ほど撃ち損じた感染者に狙いを定めて拳銃の引き金を引く。反動が足の傷に響いて、前かがみに倒れかける。駆け寄った少尉に私は支えられて、再び自分の足で立ち上がる。


 少尉は何も言わなかった。遠い目もしていなかった。

 前を見据える私と同じ方向をただじっと見つめていた。


 肩から手を離して、少尉は目の前の感染者を撃つ。迷いもなく、目の前の目標に狙いを定めて静かに引き金を引く。

 ただそれだけの姿が私の胸を強く叩いた。

 白狼は私の前に出て一人一人の感染者を確実に打ち倒していく。

 私はそんな白狼に続いて散らばった遺体を踏み越え、屋上のドアの先に待っている彼の元へ一歩ずつ進んでいく。


 階段を上がった先には軍曹の言っていた通り、何十分か前の二階の光景と同じものが広がっていた。


「屋上はすぐそこだ!!」


 力強く少尉が叫ぶ。

 隊員たちはそれに呼応するかのように、目の前に広がる感染者たちを狙って撃って倒していく。

 当たり前だけど、弾丸の弾道はまっすぐだった。これ以上ないくらいにまっすぐだった。一人一人の強い意志の象徴なのかもしれない。

 力の入らなくなりつつある手で握った銃の弾丸でさえ、酷くまっすぐに飛んで眉間を撃ち抜く。


 激しい銃声の中、私は過去の静寂を聞いていた。

 人気のない新築の家の廊下。暖かな色で飾られた彼の家の廊下。

 ドアの開く音、震える私の右手。

 焦燥を募らせる静寂、小さい音量のカートゥーンアニメの間の抜けたセリフ、BGM。

 微かに香る血の匂い。


「どうか間に合って……」


 彼は待っている。枯れ果てた涙で頬を赤く染めながら。

 隣り合わせの死から目を離して、必死で戦う彼がもう目の前に居る。


「ケイト!先に屋上へ!!」


 少尉が私を見て叫んだ。私は無言で小さく頷いて一歩ずつ、眩みそうになる目をギュッとつむりながら階段を登る。酷く薄暗い中、その先にある光へと一歩ずつ進む。


「ぐぅっ……」


 足に巻いた包帯はほとんど真っ黒に染まっている。焼けるように足が痛い。

 けれど私の足は止まらない。悲鳴を押し殺して私の体は動いてくれている。


「……今度は助けるから」


 銃声がやけに遠く聞こえる。手のひらを壁に当てながら進んでいるけれど、壁の温度も固さも私には伝わらない。苦しいのかさえ私には分からない。そこにはただ噛み傷だけが残っている。


 階段を登り切った先にあったドアに手を掛ける。

 酷く重いそれをゆっくりと開けると、青空が私の頭上に現れた。


 冷たい風が私に吹き付けて、私は私の感覚を取り戻す。


「……トニー……?」


 私が酷く弱弱しい声で呟くと、陰から女性がゆっくりと現れた。教師だと思われる女性はくたくたになった髪を垂らして不安そうな目で私を見ている。


『大丈夫ですか!?』


 私の後ろから少尉の声が聞こえた。目の前の女性はその声を聞いて泣き崩れて後ろに振り返ると、建物の陰から子供たちが数人出てきた。


 子供たちはこけた頬に笑顔を作って、私たちに駆け寄る。


 一人の少女が泣きながら私へと駆け寄って飛びついてきた。私はその小さな体を抱きしめる。

 華奢な腕は確かにぬくもりを帯びていた。


「……生きてくれていてよかった」


 彼女の肩をギュッと抱く腕が私の意志とは関係なくだらりと垂れて、私の視界は一気に霞がかる。


『……お姉ちゃん……?』


 彼女の声がやけに遠く聞こえる。


 

 ああそうか。私は、役目を果たしたのか。

 私の体がついに私が終わることを許してくれたのか。


 彼女から手を離して前のめりに倒れ込む。

 目の前に広がった光景が色素を失い白く光っている中で、ひと際白く輝く姿があった。


 子供を抱えた真っ白な姿。強い光にまみれて光り輝く彼女。

 

 私の憧れ。私の誇り。


 私たちの希望、死地を駆ける白狼。


 メリーランドの白狼、アイラ・マディソン少尉。


 それはまるで一枚の絵画のように美しく尊く希望に満ちた姿だった。








「……気分はどう?」


 私の目の前には白狼がいる。

 一瞬私は自分が何者かでどこにいるか分からなくなっていた。

 頭上には未だ青い空が広がり、ここが先ほどと同じ屋上で時間もそれほど経っていないことに気づく。


「……あはは、体の具合は良いのか悪いのかもよく分からないです。でも、すごく気分はいいですよ」


「……そう」


 私は周囲を見回す。周りはとても静かで、私と少尉以外は誰もいなかった。


「さっき応援が来てね、みんな先に行ったわ。残ってた子供たちと一緒に」


「……良かったです」


「ええ、本当に。全部あんたのおかげねキティ。あんたがいなければきっと助けられなかった」


「そんなことないですよ」


「……謙遜しないで。本当にあんたのおかげなんだから」


 少尉が私の頬に手を当てる。きっと酷く熱を帯びているのだろうけど、私にはその感覚さえない。

 少尉は何も言わず、エメラルドグリーンとマリンブルーの瞳で私を見つめていた。


「……さっきの少尉、すごく素敵でした。子供を抱えたあの姿。きっといい画になったと思いますよ。国の人たちもきっと喜ぶ。あなたをきっと誇りに思う」


「いいえ、きっと国の人が誇るべきはあんたの勇姿よキティ。私は結局何もできなかった」


 少尉は小さく息を飲むと私の手を握った。白くて暖かい手が覆いかぶさる。


「……少尉、これで終わりじゃないですよ。まだまだ救いの手を求める声はこの国にある。だから、お願いです。どんな小さな命でも、どんなに絶望的な状況であっても、見捨てないでください」


「……うん」


「少尉は、私の、みんなの希望です。だから……先に進んでください。私はもう十分です。どうしても成し遂げたかったことを成し遂げることができた。思い残すことは何もない。少尉は先に進まなくちゃいけない。だから、もうみんなの元へ行ってください」


 少尉はかぶりを振って私に向き直る。


「それだけはできない」


 握った手をさらに強く握りしめて少尉が続ける。


「あたしが前に進むために、あんたをここに置いていくなんてことは絶対にできない。最後までここにいる。最後まで、あんたのそばに」


 そういうと少尉は私の体を起こして、私を抱きしめた。


「あんたを一人ぼっちになんてさせない。だって、あんたは」


 少尉の体が震える。いや、震えているのは私の体かもしれない。少尉は少しだけ手を離して私の顔を見ている。


「キティ……?」


 首を伝う熱い温度に私はようやく自分が泣いていることに気づいた。嗚咽をあげているのに、私は自分が泣いていることにさえ気づかなかった。

 その理由すら、私にはわからなかった。

 死ぬことは怖くなかった。思い残すこともなかった。

 なのに、私は涙を止められない。子供みたいに声をあげて私は泣く。


「キティ……!」


 少尉の腕が私を再び包む。私はどうにか力を振り絞って少尉の肩へと腕を回す。


 いろんな感覚が私から抜けていく。立ち上がる力すら私にはもうない。


 ただ、ぼやけた視界に映る白狼と、その髪の香りと、その体温と、それから胸の奥の熱い心臓が私の今の全てだった。


 

 少尉、きっと私はまっすぐにあなたに言ったことは無いと思います。

 ただそれだけが私の心残りになると思うので、最後にこれだけ言わせてください。

 

 私はあなたに憧れていました。

 私はあなたのようになりたかったんです。

 

 私は、あなたの事が大好きでした。











 


『え、えーと、ケイト・バーキン、階級は伍長です』


『バーキン伍長、同じ女性としてマディソン少尉の事はどう思われてますか?』


『……同じ女性として、えーと、少尉はとても優しくて、上官として尊敬出来て、ああと、そんな感じです』


『おおう、子猫ちゃんどんだけ緊張してんだ』


『ひゃあっ』


『あはは……。バーキン伍長は子猫ちゃんって呼ばれてるんですか?』


『あっ、はい。少尉が付けてくれたんです。最初は見た目から付けられたんですけど、ケイトだからやっぱりキティだって。そういうユーモアもあって素敵だと思います』


『……じゃあバーキン伍長、今回の作戦の意気込みのようなものがありましたら聞かせてください』


『……ええと、できるだけ多くの人命を救助します。私の命に代えても……です』


『素晴らしい意気込みですね。ご協力ありがとうございます』


『……このインタビューの数日後に行われた作戦の中で、勇敢なバーキン伍長は子供たちを救うために命の限りを尽くし、殉職しました。彼女の犠牲は私たちアメリカ国民にとって非常に尊いものとなりました。これからも彼女の意志を引き継ぎ、彼らは人々に救いの手を差し伸べるでしょう。そして、彼女の魂が安らかに眠れることを私たちで祈りましょう。……続いて、小隊の指揮をとっていたアイラ・マディソン少尉のインタビューです』


「……それを止めてくれ軍曹」


「……了解」


 深い緑のテントの下、スマートフォンで先日全国放送された番組を見ていた軍曹に動画を止めるよう要求する。

 あたしは自分の声を聞くのが好きじゃなかった。今は、なおさら。

 インタビュアーの声がテントから消えると、強い雨がテントを叩く音で満たされた。

 春を告げる豪雨なのだろうか。早朝から降っている雨に止みそうな気配はない。


 


 彼女の遺体はこの基地の一角に埋められた。本当は国に返してあげたかったけれどそれが出来ないのは承知の上だ。

 大雨の降る早朝、あたしたちは喪服に腕を通し、黒い傘を差しながら中隊全員で彼女に敬意と祈りと別れの言葉を告げた。

 あたしは何も言えなかった。口を真一文字に結んで、彼女に謝ることすらできなかった。涙すら流せなかった。

 あたしの代わりに空が泣いてくれたから、仲間が泣いてくれたから、あたしが泣く必要はなかった。彼女はそんなことよりもあたしが一人でも多くの命を救うことを望んでいる。

 約束は必ず守る。あたしの中にはそんな強い決意が滾っていた。

 


「……傘くらい差してったらどうです?」


「別にいらない」


 手に何も持たずテントの外へと出ていくあたしに軍曹が声をかける。


「風邪ひかないように早く戻ってきてくださいよ」




 感傷に浸りたいわけじゃない。後悔したいわけじゃない。

 ただ、あたしに傘はいらない。それだけだ。

 雨に曝されることに何も感慨はない。


 周りは雨の音以外には何も聞こえない。ぐしょぐしょのブーツがアスファルトを叩く音もしない。

 前は煙みたいに靄がかすんで、遠くはよく見えない。


 基地の一角に着くと、私の他に傘を持たない先客が立っていた。

 

「……風邪ひくぞオーウェン准尉」


 名前を呼ばれて振り返る准尉は火のついてない煙草を咥えながら「お互い様だ」と呟いた。


 あたしは准尉の隣に立って簡易的に作られたお墓とその上を飾る花を見る。若い女の子だからと中隊がそこらじゅうから花を集めてきた。おかげで墓と言うよりは花壇のように見える。


「……弔いの言葉は言ってやりました?」


「……いや、何も。何を言えばいいかあたしには分からなくて」


「俺もそうですよ。伍長に何を言ってやればいいか分からない。ああ、こいつ二階級特進したから伍長じゃねぇのか。まぁ……とにかく、だからここにいる。別れの言葉も辛気くせぇし、感謝の言葉もこっぱずかしい」


 火のついてない煙草をポケットにしまって准尉があたしを見た。


「こいつはいつでも少尉をまじまじと見てた。知ってました?いわゆる羨望の眼差しってやつっすよ。こいつには常に見えていた。メリーランドの白狼。気高く美しい姿の白狼が。あんたが弱音を吐こうが何しようがこいつはあんたを眩しく思っていた」


「……彼女の最期の言葉だ。あたしに憧れていたと。……准尉にはあたしはどう見えている?」


「……そうだな」


 准尉は私を数秒見つめてから彼女の眠る墓に向き直った。


「……真っ白い女だ。色素の薄い真っ白なただの女。少しは日に当たったらどうです?どうみたって健康にはみえないっすよ」


 准尉は振り返ってテントの方へ歩きだす。


「この国にいるうちにこいつへの言葉は考えておきます。少尉も風邪ひかないうちにさっさと戻った方がいいですよ」


 そういうと准尉は靄の中へと消えていった。あたしは大きく息をついて一歩だけ彼女に歩み寄る。


「……残された人を助けると、あたしはあんたと約束した。別れの言葉も必要はないでしょう?」


「……それでも、一つだけ言えなかったことがある。あんたが泣くから言いそびれちゃったじゃない。自分は心残りは無いとか言って、胸の内を全部吐き出したくせにあたしには何も言わせてくれなかった」


 雨の落ちる灰色の空を見上げて息を吐く。白い息が空へと吸い込まれてすぐに消えていった。

 あたしの胸は熱く震えている。こみあげていた言葉と涙を空に向けて静かに放った。




 あたしは彼女に憧れていた。

 彼女のようになりたかった。

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