第四十二話「子猫と哀れな魂」
「誰かいる……?」
その家の中はとても静かで、廊下の奥のリビングからテレビの音が聞こえているくらいだった。
住人の顔はよく知っていたし、何度か家にお邪魔したこともある。玄関や廊下に飾られた絵画や花などは暖色系で揃えられ、その家の暖かさを主張しているようにも思えた。
一つ一つのドアをゆっくりと開けて住人の安否を確認していく。こわばる右手で握る拳銃がカチャカチャと音を立てている。
「トニー……?」
廊下を歩くブーツの音がいやに響く。彼の名前をそっと呼びかけながら静かにテレビのついているリビングのドアを開けた。
「……トニー……大丈夫……?」
ソファに座り、テレビを凝視する少年の後ろ姿が見えた。ゆっくりとリビングに足を踏み入れると、バケツに入ったペンキをひっくり返したみたいに真っ黒な血がカーペットに広がっているのが見えた。
私は思わずあげそうになった悲鳴を押し殺してさらに奥へと進む。薄いピンク色のカーペットには割れた花瓶と、その大きな破片を額に突き刺されているこの家の奥さんの姿があった。
「……酷い」
目を覆いたくなるような光景に催す吐き気をグッと抑えるとその反対方向から物音が聞こえた。
急いで拳銃を構えて振り返ると、食卓で首を吊ったまま転化した旦那さんが足をばたつかせてテーブルに掠らせていた。
……私はきっと悪い夢を見ているのだ。だって、こんなことって。
それでも現実から逃げている場合じゃないと眩みかけた目で前を向いた。助けるべき小さな命が目の前にあるのだから。
「トニー……!おいで……!ケイトだよ!」
私の存在に気づかないのかテレビを見つめたままのトニーに声をかける。彼は数十秒の間そこから動かなかったが、私が再び歩み寄るとゆっくりと立ち上がってこちらを振り返った。
「……トニー……?」
振り返って目に入った彼の頬は誰かに食いちぎられ無くなっていた。剥きだしの顎から真っ黒な血液がだらだらと零れている。
「……ああ……」
震える手で拳銃を構えなおし彼の額へと銃口を向ける。真っ白で大きな目が私をまっすぐに見つめていた。
「……ごめんね」
あの時の銃声と硝煙の匂いは、今でも引き金を引くたびに思い出す。
草むらから立ち上がる銃創だらけの遺体たちの眉間を慎重に撃ち抜いていく。
「……ごめんなさい」
引き金を引くたび、彼や彼女の脳漿が飛び散るたび、私は謝罪の言葉を彼らに告げた。そうするのが正しいと、そう思っていた。
他の小隊は、ライフルを持った小隊長たちがとうとう出向いて私と同じように慎重に頭を狙っている。それでも銃は耳を掠め、肩を弾き、一向に頭に当たらない。
「……クソ!なんで当たらないんだ!!」
標的は離れていくわけじゃない。むしろどんどん近づいてきている。なら外すわけがない。それがきっと普通なのだろうけど、目の前に居る相手は普通の相手じゃない。
撃てば相手の動きは止まる。弾が当たれば痛みに悶絶し、屈強な男たちですらその場で声をあげることだろう。弾が当たらなかったとしても相手は怯み、膠着状態に陥るだろう。
いずれにせよそうやって発砲によって敵の動きは止められる。
そうやって教わって来た。今までの相手もみんなそうだった。
銃弾はそこら中に被弾し、口径の大きくないライフルであるにもかかわらず足や手の欠損、内臓の破壊に至るまで撃ち込んだ相手が怯まず、臆せず立ち向かってくる。
その精神的負担は物理的な距離が近づくほどに重くのしかかり、情緒的な距離が遠くなっていく。
弾が当たらないのもおかしいことじゃなかった。
私だってそれは例外じゃない。頭で理解はしていても本能的な恐怖には抗えない。他の小隊の人のように私の放つ銃弾も肩や首へと当たるようになってきた。
次々と控えていた小隊長が前に出る中でマディソン少尉はその場から全く動かなかった。
「少尉、バーキン伍長だけじゃどうにもなりませんよ!」
「本当にそう思ったら私は前に出る」
少尉の言葉をしっかりと聞き入れる。少尉は私を頼りにしてくれていて、私にもそれくらいの余裕ならあるのだと再認識して照準を再び合わせて立ちはだかる彼や彼女に向かって引き金を引く。
「……ごめんなさい」
きっと謝る義理もないけど、
「……ごめんなさい」
好きでこうなったわけじゃないって分かってるから、
「ごめんなさい」
だからせめて、私がこうやって手を下すことを許してください。
テントから遠く離れた場所まで遺体は運ばれ、火をつけられてから一時間もしないうちにあっという間に灰になった。
「・・ったく、この作業もあるなら最初に言っておいてくれよ。バラバラの遺体を運ぶことになるなんて思いもしなかったぜ」
燃えるのは本当にあっというまだったけど、ここまで運ぶのに何時間もかかった。軍曹の言った通り、バラバラになった遺体を全身がゴムでできたような厚手のスーツで日の当たる中を運ぶという作業に中隊の四割が嘔吐する羽目になった。
ここまでの地獄はなかなか見たことが無かった。
「ニューヨークじゃこれの何百何千倍だ。これくらいでへばってるようじゃ未だにゾンビが大量にいる日本じゃ何もできないぞ軍曹」
「……俺たちは生存者を救いに行くんですよね?」
「まぁそうだけど」
「……次はバラバラにしねぇ。次はバラバラにしねぇ」
オーウェン准尉は数十分前に胃の中にあるものをすべて吐き尽くした後で、今は草むらに座り込んでノイローゼみたいになっている。
「……それにしたって、子猫ちゃんはすげぇな。結局少尉の出る場もないままゾンビ共に銃弾食らわせてさぁ。ひょっとしてどっかのエージェントだったりするのか?」
「……いえ、そんなことないですけど」
「……元気ないな?どうした?」
軍曹が私を気遣って水を渡してくれた。
「……いえ、大丈夫です。気分が悪いとかそういうんじゃないので」
「子猫ちゃん」
少尉が私の手を掴む。
「もう今日はゆっくり休みなさい。食事はあたしがあとで持ってくるから。とりあえずテントまで連れてってあげる」
「あーあー、伍長が今夜の少尉のおかずにされちまうぞ」
「戻ってきたらお前に蹴り入れてやる」
私たちの頭上には星がポツポツと点在して瞬く黄昏時、草の匂いを纏った涼しい風が私の髪を通り抜けていった。
「思い出したくなかったらごめんなさいなんだけど、今回の訓練お疲れさま」
「あ、ありがとうございます」
「……他の人たちはあんたのこときっと褒めたたえるんだろうけど、あたしはそうじゃないから安心して」
私は少尉が言っていることの意味がわからなかったけど、少尉はそのまま続けた。
「……聞こえてたの。あんたが引き金を引くたびに『ごめんなさい』って言うのが」
「あぁ……」
「……きっと目の前の相手が他の人と違うように見えてるんだろうって思ってた。あたしたちとは違ってあんたは一人一人の人間として捉えてるんだろうって。そんな相手を的みたいに扱うなんて酷なことさせちゃったわね」
「いえ、でも、だからって撃たないなんてことは許されないですから」
少尉は少しだけうつむいて小さく笑って、それから遠い目で私を見た。
「そう。そうなの。彼らはもう人間じゃない。どんなに大事な人だろうと、感染してしまえばただの化け物でしかない。それがあたしたちの方針だから」
「それはよく分かってます。分かってるつもりなんですけど、どこかで受け入れきれてなくて……」
うん、と小さく頷いてから少尉は再び私の前を歩き始めた。
「でも……なら、どうしてあんたはためらいなく撃つことができたの?」
少尉の声は今まで聞いたことないくらい弱弱しい声をしていた。呆気に取られてしばらく黙り込んでしまう。
少尉はそれ以上何も言わずにテントの中へと入り柔らかいクッションを私に差し出した。少尉には寝てていいと言われたけど、少尉と寝ながら話すだなんて不躾な真似が私には出来そうにもなかったのでせめて足を伸ばして座る。
少尉は未だに何も言わないままでどこか遠くを見ていた。
さっきの質問は何か理由があって私に尋ねたものだろうと思い、どうにか言葉を紡ぐ。
「……感染者が出始めたころ、私は実家のあるピッツバーグにいました。隔離地域からそれほど遠くなかったから、こちらへ逃げてくる人もたくさんいて、その中にたまたま感染した人がいて、一時的にパニック状態になりました。被害はすぐに食い止めることができたんですけど数百人が犠牲になりました。その中に私の弟、いや、本当の弟じゃないんですけど、赤ちゃんの頃からかわいがってる子がいて」
「そうなの……その子の名前は?」
「トニーっていうんです。赤茶色の綺麗な髪の毛をしてて、緑色の瞳がとても綺麗な子でした。私が帰ってくると、私の両親よりも先に家から飛び出してくる……そんな子でした。すごく可愛かった。……避難命令が解除されて、私も任務を終えて一時帰宅した時、彼はいつもみたいに家から飛び出してくることは無かった。両親に聞いたら避難先で見ることも無かったって。不安になって彼の家へと赴きました。……彼や彼の両親は変わり果てた姿でそこにいました」
「……それであんたは引き金を引いた?」
「……はい。その時トニーはソファに座ってテレビを見ていました。テレビには夕方にやってるカートゥーンアニメが映ってて……きっと、音に反応していただけなのかもしれないけど、その後ろ姿はいつもの彼と何一つ変わらなかった。振り返るまで私はまだちゃんと生きてるんだって、信じて疑いませんでした。だから彼が振り返って転化していることに気づいたとき、私はすごくショックを受けました。でも、それと同時に……」
銃声と硝煙の匂いが再び思い返される。
「この子は、この子の魂はまだここにいるって、なんでか分からないけど思ったんです。彼がいつもと同じようにテレビを観ていたからかもしれません。私が引き金を引くまで、この子の魂はこの体に宿り続けるんだって、笑うことも泣くこともできないまま、永遠に一人ぼっちのままだって思ったんです。だから引き金を引いた。一人ぼっちにはさせたくなかった。それから首を吊ったまま転化した彼の父親も撃ちました。……おかしいですよね?自分でもなんとなく分かってるんです」
「……そんなことない。あんたは正しい」
「いえ、きっと何が正しいなんて答えは無いんだと思います。人の命だとか、尊厳だとか、そういうものが関わってくると誰にも正しい答えは出せないって私は思ってます。それはたぶん神様ですら答えなんて出せない。私の言い分だって、誰かに言わせれば自分が助かりたいだけの言い訳でしかない。それもよく分かってるんです。だから私は彼らに謝っているのかもしれない」
「……それでも、あんたは逃げなかった。だから間違いじゃないって言いきれる。あたしが思ってたよりずっと強い女の子なのかもね。……あたしよりもずっと」
少尉はそのまま黙り込んでテントの外へと向かった。
「……酷いこと思い出させてごめんね。食事の時間になったら持ってくるから横になってていいわよ」
振り返って再び歩き出すその背中はいつもより小さく見えた。
なんとなく、酷いことを思い出したのは私じゃなくて少尉だったのでは、なんて考えが頭をよぎる。
彼女の残り香が私を少しだけ不安にさせるなんて思ってもみなかった。




