第三十八話「美しい名前」
最愛の人を失った日、最愛の人がこの世に生まれ落ちた。
小さな体をこの手で抱え上げた時、僕は喜んでいいのか悲しんでいいのか分からず、目の前で泣き叫ぶ声がやけに遠く感じて、その子が自分と最愛の人との子供とは思えなかった。
「この子は一緒に面倒を見てあげるからしばらくは仕事を休みなさい」
母親はそう言ってくれたが僕は相も変わらず仕事に出向いていた。自分に子供の面倒なんて見れない。でも父親として何かしらの形で責任は持ちたくて、せめて子供が不自由しないようにとお金だけは残そうと仕事に励んだ。
二人で住んでいた部屋に帰ると、最愛の人の写真の前で毎晩泣いた。彼女のいない事には子供をどうしていいか分からなかった。彼女がいなければ子供を愛することさえできないような気がしていた。
彼女の母親も時折子供の面倒を見てくれた。同じくらい彼女を愛していたお義母さんは、きっと僕の気持ちに一番近いような気がして、面倒を見てもらうたびになんだか申し訳ない気持ちになった。
でもお義母さんは子供を抱きかかえると顔を崩して笑って名前を呼んでいた。その目に涙が浮かんでいたのを僕はしっかりと見ていた。
「あんた笑った時の目元がお母さんに似てるわね」
抱きかかえながら目元を親指でなぞる。その声はなんだか震えて聞こえた。
手足を動かして嬉しそうに笑う子供の目元は確かに彼女が笑った時とそっくりで、気が付けば僕は嗚咽をもらして泣いていた。
「……ほら」
お義母さんに子供を差し出される。最初は抱くことを拒んだけど、腕の中の彼女の目が僕をじっと見ていたのでその手に収めた。
「……鼻の形は宗太君譲りかしら。きっとかわいい女の子になるわよ」
僕の顔に手を伸ばす小さな手にそっと額を寄せる。柔らかな匂いが鼻を掠める。あふれ出した涙を止められないから、僕はせめてもと笑ってみせた。
再び子供は彼女みたいに笑った。
時が人の心を癒してくれるなんてよく言うけど、僕にはそれがよく分からなかった。亡くなって三年経っても彼女がいなくなってしまったことには変わりない。
僕は彼女に線香をあげたあと、ベランダに出て月を見ていた。
子供が生まれるからと言って止めた煙草を久しぶりに口にくわえて、ただじっと夜空を見上げては涙を流した。
窓を叩く音がして振り返ると、母親と隣でぐずついている娘がいた。
「夜遅いからって言い聞かせたんだけど、どうしてもパパと一緒がいいんだって」
「……あぁ、分かった。おいで」
娘を抱え上げてベランダに座り込む。冷たい風が薄いTシャツの下の肌を撫でた。よほど泣いていたのか目の下を真っ赤に腫らし、未だに嗚咽も漏らしている。
「……悲しかったか?」
パパがいなくて、とは言えなかった。僕はきっとまだこの子の父親になり切れていない。
「僕も……すごく悲しいんだ」
本当に愛しい存在だった。心から大切な存在だった。彼女の全てがこの世から消えた今、僕は何者にもなりきれずただ抜け殻のように毎日を生きている。
「パパ。あのね。おばあちゃんがね。悲しい人がいたら一緒に泣いてあげようって。パパ毎日悲しそうだったから詩音も一緒に泣いてあげようって」
腕の中の娘が僕の顔を見て涙声で話した。
「だからね。パパのとこまで来たの。詩音も一緒に泣いてあげるから、もう大丈夫だからね」
娘の声に胸がいっぱいになって、僕は声を必死で抑えながら泣いた。
「……優しいな。ママと、いっしょだ」
娘も声をあげて僕の腕の中で泣く。彼女はきっと何が悲しいのかも分かっていないのだろう。それでも彼女は僕のためにと、僕がこれ以上泣かないようにと精いっぱい声をあげて泣いた。
どれくらい泣いていたのかは分からなかったけれど、いつの間にか娘は僕の腕の中で泣き疲れて眠っていた。
月は僕らの真上にあって、その光が僕らを照らす。まるでこの世界が僕らのために回っているような、それくらい明るい光だった。
娘の頭を撫でて、その名前を呼んだ。
「詩音」
その名前は僕らの真上に広がる夜空みたいに美しい響きだった。
最愛の人が付けた美しい名前だった。
何度も何度も詩音の名前を呼んでは、最愛の人と一緒にいた時のように笑った。
「宗太!!!!」
土砂降りに打ち付けられる宗太の下から赤い血がじわじわと流れ出す。宗太を仰向けにして体を揺り起こす。銃弾は肺に当たっているようだった。
「パパ!!」
詩音が宗太の元へと駆け寄ると宗太は目を覚まして俺の方を向いた。
「……秋津さん……詩音は」
「大丈夫だ!成塚が助け出した!今は喋らなくていい!!」
「……そうですか……良かった」
「パパ……大丈夫……?」
声をかけられ詩音の方を向く。出血が酷く周りがあまり見えていないようだ。
「……詩音……。怖くなかったか……?ごめんなぁ……パパなんもできなくて」
「ううん。こわくなかった。それにちゃんと詩音のこと守ってくれたの見てた」
流れ出す血を何とか止めようと、上着を脱いで宗太の胸に縛り付ける。
「石井!!こっちにきてくれ!!屋根の下まで運ぶぞ!!」
「はい!!」
「秋津……さん……。僕は……大丈夫ですから」
「大丈夫なわけねぇだろ!腕貸せ!向こうまで連れてくから!」
「……いいんです。僕はもう……ダメみたいだから」
「……何言ってんだよ!!詩音が見えねぇのか!?それでもまだダメなんて言えるのかよ!?」
宗太の息はだいぶ荒くなっていた。
「……秋津さん……。詩音のこと……お願いしてもいいですか……?あなたならきっと詩音の事ちゃんと見てあげられる」
「ダメだ……!何言ってんだよ!俺の話聞いてなかったのか!?俺はどうしようもない父親だった!父親にすらなれなかった!!そんな男に娘を任せようなんて言うんじゃねぇよ!!!お前しかいないんだよ!詩音の父親は!!」
かぶりをふって宗太は小さな声で返す。
「……いいえ、秋津さんは……僕が目指そうとした父親だから……正しい道を示せる人だから……あなたしかいないんです」
肩を貸す宗太の力がだんだんと弱くなっていくのを残酷なくらいこの身で感じていた。隣にいる成塚は目を伏せたまま「降ろしてやれ」とだけ呟いた。
「……すいません……もう立ってるの疲れちゃって」
俺の目も見ずに小さく笑ってみせる。
「……詩音。こっちおいで」
詩音を抱き寄せてから静かにその頭を撫でる。詩音は宗太の肩にしがみついてわんわんと泣いていた。
「悲しいよなぁ詩音……。パパもすごく悲しいよ。昔こうやって詩音が一緒に泣いてくれたこと……覚えてるか……?」
抱かれた腕の中で強く頷く詩音。
「……パパはもう大丈夫だから。詩音が……詩音がこうやって一緒に泣いてくれてるから……もう大丈夫だ」
「パパ……ママのところ行っちゃうの……?」
「……ごめん。そうみたいなんだ。……でもパパ、詩音の事が嫌いになったわけじゃないからさ」
「……分かってる」
「これからは……ママと一緒にお空からずっと詩音の事見てるから。寂しくなったら空を見上げればパパたちがいるから。パパもそうやって……お空にいるママの事……ずっと見てたから」
「うん」
宗太が詩音を強く抱きしめる。
「……詩音……本当に……綺麗な……」
強い雨はまるで二人のために降り注いでいるかのようだった。
きっとこの瞬間、世界は本当に二人のためだけに回っていたのだと、そう強く思った。
すっかり夜が明け、土砂降りの雨の中俺たちは立ち尽くす。
この世界でこれからどうやって歩いていけばいいのか、道しるべを失ってしまった雨曝しの俺たちはまた一つ、光を失った。
今はただその消え失せた光のために涙を流し続けるしかなかった。




