第三十二話「雨曇りの午後」
「おじいちゃん見て見て!きりん描いたの!」
「ほぉ……うまいじゃないか。将来は画家にでもなるのか?」
「詩音はお姫様になるの!」
「お姫様かぁ……それにはうんと頑張らなきゃなぁ」
俺たちのテーブルを囲む人数が一人増えた。いわずもがな爺さんだ。今日の夕飯に誘ったら詩音に気に入られたらしくずっと捕まっている。
「すいません、詩音が懐いちゃったみたいで……」
「はは……。いいんだ。丁度孫が同じくらいの歳でな。詩音ちゃんは来年で小学生かい?」
「うん!来年から小学校行くの!」
「そうか、たくさん勉強しないとなぁ」
灰色のクレヨンを握ってキリンの隣に象らしきものを描き始めた。そういえばそんなCMが昔あったなぁと少し昔を思い出す。
一見すれば平和な団らんだが外は穏やかではない。
結局連中は一階を取り囲み、屋上の窓もガンガンと叩いている。そこからしか出入りしなかったあたり、唯一の出口も閉ざされたというところだろうか。
こうしている間にもそんな感じで話半分にこれからどうすべきかを考えていた。
仲間一人を失った石井たちはようやく花田との仲を取り戻したようだ。石井と陸の間にあった不安要素も取り払われたと陸本人が言っていた。何があったかは知らないが一応は一件落着というところか。
こんな状況になってまで仲間割れを続けられたのではたまったもんじゃない。
「しかし……なんでまたヤクザの兄ちゃんと普通の父親が一緒に行動するようになったんだい?」
「……確かに私も気にはなっていたな。解答次第では秋津を逮捕することになりそうだが」
「最近聞かなくなったと思ったのにまだ言うか」
「あはは……。秋津さんは一人で外に出ていった詩音を連れて帰ってきてくれて、僕の代わりに食料調達に来てくれたんです。最初は僕も怖くて家には上げてあげられなかったんですけど、でもなんていうか……」
宗太は詩音の頭をそっと撫でて恥ずかしそうに目を伏せて続けた。
「こんな怖そうな人が正しいことをしているのに、一人の娘の父親として自分は正しいことができないなんて、なんだか恥ずかしくて。だから、この人みたいにきちんと尊敬できる人にならなくちゃって思ったんです」
「秋津のような人間より私を尊敬するべきだと思うのだが」
「誰が悪徳警官を尊敬するんだよ。そこまで見る目ない奴じゃねぇぞ宗太は」
「あー。ヤスヒロとおねーさんまた喧嘩してるね。悪い人だ」
詩音は俺たちを叱りながらも象の形を描き終えて足元に黄緑色で草を茂らせている。
「パパ!象さん描けた!」
「うん。上手い上手い。秋田さんにも見せてあげて」
「ほら!」
「おぉ、迫力あるなぁ」
まるで本物の親子三世代を見ているようで、自分の口元が緩んでいるのに気づく。
「……でも、まぁ確かに俺みたいなのを尊敬するべきじゃねぇな。それによ、もっと自信持てよ宗太。俺はお前のことを尊敬したから助けてやったも同然なんだぜ」
「……秋津さんが……僕を……?」
面白いくらい目を丸くしている。随分疑っているようだが、今の発言に嘘は全くない。自分のような人間は宗太みたいにはなれない。現に、なれなかったのだ。
「……俺にも昔ガキがいた。二十歳の時に付き合ってた女とできた子だ。ちょうどこの道に入った時だった。当時は女とガキを養う金も、そんな気も持てなかった。女は女で俺以外ともたくさん関係を持っていたような奴だったから、必死で『俺のガキじゃない』って否定しまくったよ。女はそのたびに泣いて喚き散らして『あんたの子だ』って」
久々に思い出して、胸が詰まりそうだった。この際全部吐いて楽になりたいのかもしれない。次々と言葉だけが零れていく。
「……責任が持てなかった。その女にじゃない。自分の人生にだ。ムショ暮らしをたびたび続けたのも、たぶんそれが原因なんだと今じゃ思う。とにかく自分のためには生きられなかった。結局女もガキも自分の人生の一部にはならないままどこかへ消えていった。一度もガキをこの手に抱くことがなかった。……だから、お前がうらやましくてしょうがねぇ。父親一人で娘を育ててきたお前を尊敬してる。お前はもっと自分を誇っていい」
宗太は少し力を抜いたように肩で息をすると画用紙を押さえる詩音の左手の上に自分の手をそっと置いた。
「……はい。……頑張ります」
きっと俺はこれからも宗太のようにはなれない。
今までのように誰かのために命を張れるだけでいい。
照明のない重たい曇り空の夕方。モールの中はすでに真っ暗も同然で何人かは既にろうそくに火を灯している。
今まで騒いでいた面々もさすがに黙りこくって、一人二人と不安に駆られているのか時折フロアをうろうろしていた。
遠くの方から物音が聞こえている。当然ながら連中の出す音だった。
「今日はもう寝てろ。今は何も考えない方がいい。寝れなかったら横になるだけでいい。とにかく今は休め」
宗太や陸たちに告げた後、俺自身もどうしていいかわからずただ煙草を消費し続けていた。
「……兄ちゃん。ちょっといいか?」
しゃがれ声に気づいて振り向くと爺さんがいた。暗がりで顔はよく見えないが手にはあの模造刀を握っている。
「……どうした爺さん」
「あんたにこれを預けようと思ってな」
「……俺にはこいつがあるから別にいい。護身のためなんだろ?持ってろよ」
脇に置いてあった木刀を手にもって答える。
「……あんたには守るべきモンがあるだろう?老いぼれにゃあ、自分を守るんで精いっぱいなんだよ。どのみち切れやしない代物さ。どうせなら少しでも壊れにくいもんをもらってくれ」
「……違いねぇな」
爺さんは小さく笑うと模造刀を俺に手渡し、代わりに木刀を握って軽く素振りを始めた。
「……ほぉ。こりゃ随分と軽いなぁ。昔は軽く剣道を嗜んでてな。型は知ってるか?木刀を持ってやるのさ」
靴を脱いで素足のままフロアをすり足で移動し、木刀を振り下ろす。型という演武なだけに爺さんの動作一つ一つが綺麗だった。
「……こんなもん何の役にも立たなかった」
型を中断してその場に立ち尽くす。
「……俺もそうさ。喧嘩もたくさんやってきたが、今となっちゃ何の意味も持たねぇ。爺さんだけじゃねぇさ」
「……そんなもんか。まぁ、そんなもんだよなぁ。……これからどうする?」
「さぁな、どちらにせよ逃げるか死ぬかだ。なら意地でも逃げるさ。そのためによく考えてるつもりだ」
考えてはいるが一向にいい案は浮かばない。今夜もう一度男たちで集まって相談するしかない。どのみち残された時間は少ない。
「……兄ちゃんを信じてる。あんたなら必ず守ってやれるさ」
数時間後、俺が声をかける前に花田から声をかけられた。
やはり全員が動くべきだと考えていたらしい。
フードコートの中央、酒や料理で散乱していたテーブルは片付けられ、ろうそく数本とフロアマップが広げられている。
「バリケードはどこに張ったんだい?」
「一階は全部張ってあります。中に残っていた人で補強もしてくれたんで侵入は無いと考えていいと思います」
石井はすっかり調子を取り戻していたようだった。といっても元に戻ったわけではなく、今までよりも言葉の一つ一つにしっかりとした意志が感じられた。
「……確かに籠城する分には問題はないだろう。だが状況が状況だ。数で来られたらバリケードなど数日で破壊されてしまうかもしれん」
男たちの中に混じった紅一点は成塚だ。女に数えていいかは知らないが。
「……俺の時はだいたい数百人が壁際に押し寄せてきました。体育館ごと揺れてたので数が集まればバリケードは簡単に突破されると思います。これからも食屍鬼の出す音につられて無限に湧いて出てくる。一刻でも早くここから出ることが先決かと」
「……兄ちゃんの言う通りだな。ここから出るしかねぇ。問題はどこから、どうやって、だな。人数も人数だ。これだけの人数を安全に避難させて、食料も持って逃げられるコースを見つけなきゃいけねぇな」
千葉も相変わらず不快な笑みを浮かべているが、言葉は真剣そのものだ。やっぱりこいつがよく分からない。
「車は完全に使えないのか?」
千葉の仲間が尋ねる。
「あぁ。そうだな島谷。秋津さん……おっと失敬。そこのおまわりさんのパトカーも石井たちのワゴン車も生憎ゾンビ共の手の内だ。俺たちのバイクもな。……他に駐車場に車は見かけなかったが……あとのやつらは?」
「僕は歩きでここまで」
「……同じく」
飯田と爺さんが手を挙げる。
「そこの兄ちゃんも秋津さんたちと来たんだもんなぁ。っていうか免許も持ってねぇか。……お父さん、あんた車は?見かけたことは無かったがな」
フロアマップに手を置いて疑いの目で前島さんを見つめる千葉に、前島さんはしばらく黙ってうつむいていたが何かを思い出したように話し始めた。
「……あの……、言いづらいんですけど……自分たちがここに来たとき石井君たちがちょうど駐車場にいて、警戒したわけじゃないんですけど、近くにあったファーストフード店に停めてしまったんです」
「……そうかい。カギはあるか?」
「えぇ、ここに」
ポケットからカギを取り出して見せた。
「……いざとなったらファーストフード店まで逃げることも考えるしかないですね。いずれにしろまずはここからの脱出経路を探しましょう」
「フロアマップを見る限りはもう出入り口なんて全部ないも同然だがね。……まぁ何か見つかったら教えてくれや。俺たちはもう戻る」
「あっ、ちょっと千葉さん!」
「……大丈夫だ。その時が来たらなるようになる。……必ずな」
千葉は俺たちを一瞥すると、再び闇の中へと消えていった。
「……確かにもうどうにもならないと言えばならないんですけど」
「……そんなことはない。必ず見つかるさ」
再びフロアマップを凝視する仲間たちを横目に俺は千葉の後を目で追いかけていた。
あいつが何かを話すたび、頬にしわを作るたび、妙な胸騒ぎがしていた。
「秋津」
成塚が小さく俺の名前を呼んだのでそちらを向く。
俺の目をじっと見て小さく頷く。
妙な胸騒ぎがしているのは成塚も同じだったらしい。
俺が警戒しろと言ったからか。俺が警戒しているからか。他の奴らは全く警戒していないので、もしかしたら俺たちの気のせいかもしれないが「心配いらない」と自分に言い聞かせることはできなかった。
星の見えない深く暗い夜がさらに更けていく。




