第三十一話「守りたいもの、守りたかったもの」
最初に食屍鬼と対峙した時は靄のかかった寒い朝だった。壁を挟んだ後ろに大量の食屍鬼が頼りない木製のドアを激しく叩き、引っ掻くなか、唯一の出口である裏口から抜け出した先に彼らはいた。
首の一部を欠損し、乾いた黒い血液で肌を染めた彼らは俺と同じ制服を着て、俺と同じこの場所で学び、俺と同じように仲間がいた同じ学校の生徒だった。
開いた瞳孔がこちらを視認したかと思うと、すぐさま歯を向いて飛びかかって来た。
ポールを握る手は汗にまみれ、満足に掴むこともできず彼らをどうにか押しのけるので精いっぱいだった。
今までまともに人を殴ったことも無い。それでも襲い掛かってくるのなら、仲間に手をかけるというのなら、慈悲をかき消してでもそれを食い止めなければならなかった。
鈍い音が鼓膜を引っ掻くたびに、彼らが少し前まで生きていたということが頭をよぎる。わずか数分の間で自分の中の倫理観や道徳というものを何回殺しただろうか。
結局彼らの頭を破壊せずにどうにかその場を脱することができた。一瞬の解放感がすべてを拭い去って今までにないほど笑えてしょうがなかったのを覚えている。
食屍鬼からも、昨日まで彼らが人間であったと責め立てる自分からも逃げ出したかったのだ。
それから街に出て何回も食屍鬼と出くわし、何回もその頭を殴りつけた。
自分の正気を疑った。でも疑うのは自分が正気だからだ。仲間を守るため。それが食屍鬼を殺してもいい理由なんだと何回も自分に言い聞かせた。
そうやって一週間も経てばすでに道徳的観念は失われていた。そうしなければ生きていけないから、そうしなければ仲間を守れないから、それがこの世界の歩き方だから。
ただ、血にまみれることが怖くなっていた。どんどん自分が人ではない何かに、血を求め彷徨う食屍鬼のようになっていくのがひたすら怖かった。
田舎のとある邸宅から脱出するとき、その恐怖と真っ向から対峙した。
少しだけ開かれた門からゆっくりと一体ずつ出てくる食屍鬼を確実に殺していく。囲まれる心配も無く、取り逃がしたものは仲間が殺してくれたので身の安全はほとんど保証されたようなものだった。
目の前で破壊される頭蓋に、潰される眼球に、欠けてパラパラと落ちる奥歯に、脳の奥が支配されたような気がした。頭には恐怖も無く歓喜も無く、目の前の敵を殲滅することだけに脳を使っていた。
仲間の声が聞こえた気がしたが、踏みとどまることは無かった。
溢れる食屍鬼の中にずぶずぶと入っていくことに躊躇はしなかった。
俺は、本当に人間なのだろうか。
今、目の前で同じような光景が広がっている。曇り空に響く低音の唸り声、頭蓋を叩き割る鈍いスコップの音、飛び散る脳漿、アスファルトにたたきつけられた脳髄。俺は再び血を求めて地面を踏みしめ、血に濡れた食屍鬼を一人一人確実に殺していた。
腐臭と血にまみれ、心を奪われたかのように無感情に人の形をした食屍鬼の頭を破壊していく。
なんのために戦っているのかなんてどうでも良くなっていた。
大事なのはとにかく目の前の敵を叩き割ることだけだった。
『武器を取れ、奴らを殺せ、愛する人を守れ』
石井さんが戦闘前に言っていたことを思い出す。
俺は知っている。これがなんのための戦いなのかを。
愛する人を守るためなんてただの言い訳に過ぎない。ただ殺したいのだ。自分が生きているという証明のために。お前らとは違うと証明するために、ただ殺すための戦いなのだ。
駐車場の向こうにも続く死者の列に死者を殺しながら一歩一歩近づく。
こんな世界だから、死ぬことさえ厭わなかった。
「……長!……部長……!!!」
ふと、聞き慣れた人の聞き慣れない声が聞こえた。
視界が急に開いたような気がして振り返るとテラスに何人も並んで俺たちに向かって叫んでいるのが見えた。
その中でもひと際大きな声を出していたのはうちの部員たちだった。うめき声をかき消す彼女たちの声は演劇部らしくよく通る綺麗な声だった。
食屍鬼たちから一歩退いて、もう一度踏み込み目の前の敵を殴りつける。
ここに立って初めてちゃんと前が見えたような気がした。自分が何のために戦っているのかが確信できた。
そして気づく目の前の絶望的な光景。同じ光景なのにようやく俺はその光景に身震いする。
前線に立つ石井さんたちは退く気配さえ見せずに食屍鬼の頭に手斧を振り下ろす。きっと俺と同じ光景が見えているのだろう。自分たちがどんな状況にいるのかより目の前の敵しか見えていない、そんな視界で戦っているに違いない。
時折秋津さんと目が合う。
敵を木刀で薙ぎ払いつつも、眉間にしわを寄せてこの絶望的な状況を把握しきっている様だった。この人もまた大量の食屍鬼から逃げてきたという話を聞いた。きっとこの絶望は初めてではないのだろう。
刻一刻と過ぎる時間、増える食屍鬼、近づく死。
そんな状況においても石井さんは退くことをしなかった。誰に口を挟まれようとも決して引くことをしない姿勢は勇気ではなく無謀でしかなかった。
終わらせたのは一人の断末魔だった。
「屋上まで走れ!!」
石井さんに肩を貸す三人の後ろで秋津さんが叫ぶのが聞こえた。
食屍鬼に背を向けて走る俺たちは、食屍鬼をモールまで誘導しているのと何も変わらない。背後に広がる死者の列とこれからの状況を考えただけで目が眩みそうだった。
屋上階へ転がり込む。歩く死者たちの姿は見えないがいずれここにやってくるだろう。
「屋上のバリケードはどうする!?」
「とりあえずワゴン動かして塞ぐしかねぇだろ!鍵取ってくるからちょっと待ってろ!!」
斉藤さんが駆けだして階段を降りていく。
「……あんた達も早く戻れ。ここは任せてくれていい」
秋津さんが宗太さんを始めとした非戦闘員に声をかける。
「陸、お前もだ。待ってんだろ?」
無言でうなずき、石井さんの方を見た。うなだれたまま嗚咽を漏らしている。その姿は数十分前の彼と同一人物だとは思えないほどだった。
「雨宮!」
他の人たちが階段から帰ってくるのを見てか、最上たちは階段を降りたすぐ先にいた。
「無茶しすぎッスよ!何やってんスかもう……!!」
「……悪かった」
「この前の時も様子がおかしかったし……本当に大丈夫?馬鹿なこと考えないでよね」
「分かってるよ。……でももう大丈夫だから。心配いらないから」
駆け寄った最上たちから少し離れたところに立つ彼女が目に入る。
「有沢」
その名前を呼ぶと小さく「はい」と返事をしてようやく駆け寄ってくる。
「……今日はちゃんと遠くまで聞こえてたぞ。その調子でな」
有沢は一瞬だけ面食らって、それから久しぶりに自然な笑顔を見せた。
きっと死の淵にいた俺を彼女たちが救ってくれた。ずっと守っていた存在に俺は守られた。今までだってずっとそうだったのにいつまでも気づけなかった。
気づかせてくれたのは声の小さかった彼女の、よく通る大きな有沢の声だった。
「……状況はあまりよくない」
数時間後、フードコートに全員が集まり中央に立って話をする花田さんの方を向いていた。
そこに石井さんの姿は無かった。
「屋上はどうにかワゴン車のバリケードが間に合った。侵入はしばらく無いとは思う。……同時に俺らが出られる唯一の出口は無くなった。まぁ、出られたとしてもこんな状況だ」
花田さんは周囲を見回してそれからしばらく言葉を選んでいる様だった。
見渡す先には小さな子供だっているのだ。当然と言えば当然だった。
「……とりあえず俺からはそれだけだ。まずはみんなで話し合って今後の事を決めよう。何か案があったら俺に声をかけてくれ」
右手で頭をくしゃくしゃと撫でると、仲間を連れてそのままフロアの奥の方へ向かっていった。
「……先パイ」
不安そうに顔を見つめる藤宮。心配いらないとも今回は言えずに黙っていまするべきことを考えていた。
「……俺たちにはやらなきゃいけないことがあるから、まずそれから始めよう」
立ち上がって部員たちの顔を一瞥した後で付いて来るように手で示した。
まだ昼過ぎにもかかわらず、ワゴンで自動ドアを塞いだせいで屋上階は薄暗かった。
外からワゴンをゴンゴンと叩く音が聞こえている。長くこんなところに居たら発狂してしまうであろうそんな場所で石井さんはうずくまっていた。
周りを囲む三人がこちらを向く。
「……雨宮」
山崎さんが俺の名前を呟くと、目を真っ赤に腫らした石井さんがこちらを向いた。
「……今こんなこと言うのもおかしいんですけど、今言わなきゃダメだって思って全員連れてきました」
真っ赤な目を手で拭って何を言うでもなく黙ってこちらを見る。
「……助けてくれてありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたッス」
「……ありがとうございました」
全員で深々と頭を下げた。頭を直すとまんまるい涙目が俺たちを見つめていた。
「あなたが俺たちに連絡をくれなかったら、俺たちあそこで終わってたんです。……なのに、俺、なんか酷い態度とっちゃって……」
「……いいんだよ」
涙声で石井さんがようやく喋りだした。
「……分かってる。……っていうかさっき分かった。雨宮がどんな思いで最上さんたちと一緒にいるのか。それが今まで全然分かってなくってさ……こっちこそ申し訳なく思ってる」
大きく息を飲んで、それからまたゆっくりと続けた。
「……江藤は、高校ん時からの友達でさ。こいつらの中でも、たぶん一番長い仲間だったんだよ。……これからもずっと一緒なんだと思ってた。歳食っても馬鹿みたいに昔話してるもんだって思ってた。こんな世界になっても、ずっとそんな気持ちでいた。実際、今日までそうだったわけだしさ」
「……でも、一瞬で……一瞬で食われちまった。絶対あり得ないって思ってたことがこうも簡単に目の前で起こるなんて。……ありえないって思ってたから絶対に退かないなんて言えたんだよな。……俺はそんな考えでリーダー面してた。俺のせいで江藤は死んだ。リーダーになるべきじゃなかった」
「……そんなことねぇよ」
山崎さんが肩を叩く。
「いや、確かにお前はリーダーに向いてねぇよ」
全員が声の方を向いた。声の主は花田さんだった。腕を組んで石井さんを見下ろしている。
「……花田、お前まだそんなこと……!」
「山崎。……いいんだよ。事実だ」
「あぁ、お前はリーダーに向いてない。こんな状況で正しい判断も出来ねぇ、夢みたいなこと言ってみんなを巻き込んでく奴だよ」
「……いい加減にしろよ!」
山崎さんがとうとう花田さんの胸倉に掴みかかる。花田さんは目もくれずに石井さんの方を向いていた。
「……でもな、お前はこんな世界で常に正しいことを言ってきたと思う。行動はともかく、お前は俺と違って常に人として正しいことをしようって馬鹿みたいに突っ走ってく奴だよ。雨宮たちも、お前のおかげでここにいる。それだけは間違いない」
「……花田」
「お前が今まで吐いてきた夢みたいなセリフも、お前が本気でそれを思ってるって俺には分かってる。リーダーには向いてないが馬鹿みたいに誠実な奴だよ。だからこいつらも……江藤も俺じゃなくてお前を選んで付いてきた。……汚れ役は俺が全部引き受ける。何か判断に迷ったときはいつでも俺に言ってくれ」
花田さんが手を差し伸べる。
「それで初めてお前は一人前のリーダーになれると俺は信じてる。また俺らのリーダーになってくれるか?」
差し出された右手を左手で掴んでゆっくりと立ち上がった。
「……まだリーダーやめた覚えはねぇよ」
「さっき向いてないって言ったじゃねぇか」
「向いてないって言っただけだ!」
四人は静かに笑って、階段へと向かう。
「……江藤のことは俺たち全員で背負っていこう。そうしないと消えちゃうような世界だから」
石井さんが呟くと三人が頷いて下に降りて行った。
「うちの部長は私たちがいるから大丈夫ッスよね」
「……まぁ、そうかもしんないな」
相変わらず後方は食屍鬼が溢れているようだが、絶望的とは思えなかった。
生きてる人がまだ傍にいるうちは、きっとそれ自体が希望なのだから。




