第十八話「非日常でも日常パート」
「おかえりなさい、遅かったわね」
一階の和室の一番手前の部屋で横になる有沢の額から濡れたタオルを取り、水につけて絞りながら最上が話しかける。
「あぁ、すまん。回り道に続く回り道でな。帰りは帰りで」
「あー大変だったッスね。なんかもうすごい大変だったッスね」
藤宮が横入りしながら俺の腕をつねる。
「痛ってぇな。なにやってんのお前」
「次言ったら爪立てるッスよ」
「二人とも」
最上が人差し指を顔の前において、もう片方の指で有沢の方を指した。
「……申し訳ないッス」
「……すまん。有沢の具合は?」
「まだ熱っぽいわね。薬は持ってこれた?」
「はい、しっかり持ってきたッスよ」
リュックに詰めた薬の箱を取り出して並べる。いくら何が効くのか分からないとはいえなんでこんなに持ってきてしまったのだろう。
「あら、いっぱいねぇ」
「あと栄養剤ッス。あとで由利ちゃんに飲ませてあげてくださいッス」
「ありがとう結衣ちゃん」
「……ところで飯はどうする?食材あるなら俺がなんか作るか?」
そろそろ腹の虫が鳴りそうな気がしてならない。普段食事は最上に任せていたが、有沢の看病で手が埋まっているようなので俺自ら腕を振るうことを提案する。
「大丈夫よ。雨宮も薬の調達で大変だったんだから料理は私に任せて。代わりに由利ちゃんをみててくれる?」
「そうっスよ。雨宮先パイが夕飯作ったらどうなるか分からないッスもん。ここは最上先輩に任せるッス」
「ああ……そうだな。藤宮の一言が余計だが」
「じゃあ美味しいもの作ってくるわね」
その場を立ってキッチンへ向かう最上。
「雨宮」
去り際に小さく名前を呼ばれて振り返る。
「……心配したんだから」
小さな、しかしはっきりした声でそう言うと静かに奥へ歩いて行った。なんだか少しだけばつが悪くなって、その背中を見つめたまま俺は何も返すことが出来なかった。
キッチンから聞こえる包丁の音、壁にかかる大きな時計の針の音、有沢と藤宮の小さな寝息。すべてが慎ましい空間で長い一秒を過ごしていた。
藤宮はよほど疲れていたのか、気づいたら有沢の隣で横になって寝ていた。夕飯になるまではそっとしておいてやろう。
今どき滅多に見ない縁側の向こうからは小さな虫の声まで聞こえてきている。春はもうすぐそこまでと言ったところか。
有沢のタオルを交換して再び額に乗せる。
「……大丈夫か?あんまり無理すんなよ」
「…………ありがと……パパ」
目をつむったまま蚊の鳴くような声で呟く有沢。俺の声を父親の声だと思ったらしい。それがなんだかありがたくて、少し恥ずかしいような気がして、痛かった。
「……ごめんな」
謝ることはきっと無いのだろうけど、謝らずにはいられなかった。……自分が無力だから。彼女たちが今この時点で身寄りのない子供だということにそれが起因しているわけではないのだがそう思わずにもいられなくて、詰まった胸から大きく息をつく。
「これからどうしたらいいんだろうな」
再び静かに寝息を立て始めた有沢を見ながら色々なことが頭を巡った。
「あーんするッス」
「……あーん」
藤宮がレンゲにすくった雑炊を有沢はレンゲごと咥えて綺麗に摂取した後、もぐもぐと咀嚼する。
「……美味しいです」
「ありがと。しっかり食べて元気付けてね」
俺を含めた有沢以外の三人も雑炊を食べ終えて有沢の周りに座り、食の遅い有沢の食事風景を見学する会が出来ていた。
「……恥ずかしいですね……なんか」
「ですって雨宮先パイ。さっきからずっとやらしい目で由利ちゃん見るのやめてもらっていいッスか。セクハラッスよそれ」
「なんでそうなる」
まぁ、確かに食べてるところを見られるのは気のいいものでもない。別に見たくて見てたわけではなく、各々有沢が心配で集まってきただけなんだが。
「まぁとりあえず縁側で休んでくるわ」
「そうっスよ!薄汚い男はさっさと乙女の楽園から出ていくッス!」
「なんだお前さっきから。帰り道におぶっ」
「出ていけッス」
さっき東の空にあった月は南の高い空まで登り、煌々と辺りを照らしていた。三日月でも随分と明るく見えるものなんだなぁと感嘆しつつ空を仰ぐ。
「寒くない?」
最上が後ろから歩み寄って縁側にお茶を置く。
「粗茶ですが」
「うむ」
冷えた指を上下に動かしつつ、湯呑の暖かさの恩恵を受ける。静かにお茶を啜ったつもりなのに、少しだけ舌を火傷した。
「あっつ」
「熱いって言ったじゃない」
「言ってねぇよ」
そうだっけ。と笑いながら最上が隣に腰を下ろす。
「これからどうするの?」
「……全然わからない。出来ればここにずっと居れたらいいんだけど……ゴールがさっぱり見えないんだ。俺たちはまだ十代そこらで、運が良ければ……まぁ運が悪ければかもしれないけどまだ七、八十年は生きていくことになるんだよな。そんな長い人生をどうやってこんな世界で歩んでいけばいいのか全く分からないんだ」
「そうね。普通に生きてたって自分の未来なんて全然分からなかったもの。大学を出て、仕事について、誰かと結婚して、子供が生まれて、家庭を持って……こんなことになってからそんなレールすら無くなって、本当にどうしたらいいか分からなくなっちゃったわね」
お茶を再び口にする。吐いた息が白く立ち上って冬の夜空へと消えていった。
「でも、きっと生きていくんだよな」
きっと光のない真っ暗な夜道を歩くようにこれから生きていく。先も見えない、敵も見えない、そんな夜道を歩いていく。
「そう。命ある限りは生きていかなきゃ」
最上らしい、力強い声だった。
先は見えないかもしれない。けど、隣にいる人たちのことはちゃんと見える。それできっと生きていける。
その姿の見えるうちは、その声の届くうちは、歩くことになんの迷いもないだろう。
冷たい風は吹いていたが、寒いなんて微塵も思わなかった。
「先パイ。いつまで寝てるんスか」
「……え?待って今何時?」
目を覚ますと天井と顔を覗き込む藤宮の姿があった。白い日の光が和室に入り込んでいる。……いつの間に朝になったんだ?
「あら、起きたのお寝坊さん。もうお昼過ぎてるわよ」
「やーいお寝坊さん。最上先輩にお礼くらい言ったらどうッスか?昨日先パイが縁側で寝ちゃったからわざわざ和室まで運んであげたんスよ?」
「重かったわね」
「……マジっすか。本当に申し訳ない」
「まぁよく眠れたならそれでいいわ」
重い体を起こし大きく伸びをして立ち上がる。
「先パイ、ちょっと来てもらっていいッスか?さっき表に出たときなんか納屋の中から声が聞こえたんで様子を見てほしいんスけど」
「……声?」
「・・食屍鬼じゃねぇよな?」
「食屍鬼は喋らないッスよ……でもちょっと怖いっていうか……別に私は怖くないんスけど、なんかあったら嫌じゃないッスか」
スコップを持って表に出る。今日は見事な快晴だった。こういう日に昼まで寝てしまうとすごく損をした気になってしまう。
納屋まで歩き、耳をトタンの壁につける。
「……なんも聞こえねえな。気のせいじゃねぇの?」
「さっきは聞こえたんスよ!何言ってるかは分からなかったッスけど……」
仕方なく、トタンの壁を拳で軽く叩く。
「誰かいるんですかー!」
数十秒待ってみたが反応は無し。少なくとも食屍鬼ではないだろう。
安全は確認できたが一応スコップを構えながらドアを開ける。
埃の舞う薄暗い倉庫には農業用の道具や袋詰めの肥料が積まれている。棚にはいろいろな工具が並べられていた。
「……先パイ、なんかありました?」
ドアに身を隠しながら顔だけのぞかせた藤宮が尋ねる。
「……いや、何もないな」
中央にある大きな棚の周りを一周周ったが人が隠れているというわけでもなさそうだ。というかそんなスペースすらない。
「ひょっとしてお前幽霊の声を聞いたんじゃねぇの?」
「何言ってんスか!そういう冗談はやめてくださいッスよ!!!」
『……るか……!!……か……!!!』
倉庫の中で確かに声がした。心臓がギュッと縮まる。
「……お前、今なんか言ったか……?」
「……言ってないッスよ」
『……れか……!!……しろ……!!』
呆然と立ち尽くす青ざめた表情の藤宮と目を合わせる。その瞬間藤宮はクルっと振り返ると家に全力で逃げ帰った。
「あ!!!おい!!!てめぇ!!!逃げんじゃねぇぞ!!!!」
こちらの言葉が全く耳に入っていないのか、振り返ることなくそのまま家へドタドタと転がり込んでいった。
「……ったく」
幽霊は特に信じていないので、声のした方へと向かう。
「確かこのあたりだったよな……」
工具をしまうためのバッグが横に倒れ、中に入っていたらしきドライバーやらスパナやらが棚の上で散乱している。
工具を詰めてバッグを立てかけると、その下に無線機があった。
「……これか……?」
まさかとは思いつつ、声がするならここからしか他に思いつかず、無線機を手に取って表へ出た後で適当に話しかける。
「あー……あー……誰かいますかー……。応答してください」
『……あんた、生存者か……!?』
無線機から確かに声が聞こえてきた。慌てて返事をする。
「……はい!!偶然これを見つけて……!!」
『そうか、それは良かった……!!こっちは〇〇町のショッピングモールに立てこもってる!全員合わせて二十人いないくらいなんだが……もし立ち往生してるならぜひとも力になりたい……!!こっちには来れそうか……!?」
ショッピングモールの位置はここからそれほど遠くはない。歩けば距離はあるが、行けない距離ではない。
「一応来れるとは思います……!仲間と相談してそっちに向かいます……!!」
『分かった。道中気を付けてくれよ!』
快活そうな男の声だった。体育館の一件以来、他の生存者の声を聞いたことが無かっただけに沸き上がる高揚感に小躍りしそうになるほどだった。
ショッピングモールなら、食料もなにも困ることはないだろう。何よりそこに十数人も生存者がいることが俺にとって嬉しいことだった。
先の見えない未来に少しだけ光が差したような気がした。




