第十五話「再始動」
今朝は早くから小雨が降っていたが、午前中には止んだ。俺たちは昨日の晩に、市外から離れた田舎の誰もいない小さな定食屋のテーブルに突っ伏して軽い眠りをとっていた。
もうしばらく布団の上で横になったことがない。
体育館での一件以来、俺たちは点々と空いてる家屋を見つけて軽い休憩を取り、再び人に会うために彷徨い続ける暮らしを繰り返していた。
狭い空間で閉じ込められ、食屍鬼に囲まれることを恐れていたので一つの家に長くとどまり続けることは避けたかった。
……あれから何があったのかは思い出したくもない。今だってなんとか忘れようとしている最中だ。
最上は目が覚めてから「厨房で朝ごはんを作ってくる」と言って奥に向かった。店の奥からはなんだか香ばしい香りと、フライパンで何かを焼いている音が聞こえてくる。
目の前にはまだ目を覚まさない後輩二人が寝息を立てながら机に突っ伏している。お前らくらい横になればいいのにとも思ったのだが、横になって寝られる余裕をこの世界は許してくれない。そんなことは俺自身十分承知だった。
数日でいいから全員が安心してぐっすり寝られる場所が欲しい。そう願わずにはいられなかった。
「お冷お持ちいたしました」
最上が目の前に水を置く。
カチャンとグラスに氷がぶつかると藤宮が飛び起きた。
「……何事ッスか……!」
「あ、ごめんね結衣ちゃん起こしちゃって」」
「……あぁ、何もないなら大丈夫ッス……。もう少し寝てるッスね……」
そう言うと藤宮はまた机に突っ伏して、数分と持たずに寝息を立て始めた。
「……相当疲れてるみたいね」
「コップ置いた音で起きるぐらいだからな……。それだけ神経過敏になってるわけだし、こうやって寝てたって十分な睡眠は取れてないんだろう」
「雨宮もちゃんと寝なきゃ。昨日はどれくらい寝たの?」
「……さぁ。寝たり起きたりでいつ眠ってたのかも分からない。でもしょうがないだろ。俺が起きてなきゃお前らが寝られない」
「……じゃあ今度から私が代わりに外を見ててあげるから」
「大丈夫だって。もともと寝たくても眠れないしな」
水を飲み干してぼやけた頭を覚ます。冷たい水が胃に流れ込む感覚をきつく目を閉じて味わいながら大きくため息をついた。
「おかわりは?」
「水はもういいや。コーヒーを頼む」
「セルフサービスとなっております」
カウンターに置かれたコーヒーメーカーを手で指し示す。
「はいはい了解しました」
暗い曇り空を割いて、少しだけ顔を出す青空を窓越しに見て静かに席を立った。
思い出したくない事っていうのは一日のうちに数回嫌でも思い返してしまうことだ。いつまでも逃げてはいられない。
ぽたぽたと垂れるコーヒーの黒い滴は、食屍鬼からあふれ出る真っ黒な血を連想せずにはいられなかった。
あれから俺たちは街を彷徨い歩き、自分たちの家族の安否を確認するためにそれぞれの家へと向かった。
学校周辺は俺たちの努力の甲斐もあって食屍鬼がほとんどいなかったが、学校から離れれば当然その姿を現す。当然逃げることを選択したがどうしようもないときは重たいポールを振り回して対処もした。
最初は自分のしていることが信じられなかった。相手が襲ってくるとはいえ、もはや人間のそれではないとはいえ、頭を全力で殴りつけ完全に脳を破壊するなんてのは殺人を越えて虐殺なのではないかと今でも思ったりする。
映画やゲームじゃ肌がボロボロで、ものすごく悪い血色で、口から血を垂れ流し、体から内臓をぶら下げて歩いているのが一般的な食屍鬼だったけれど、現実は違う。
個体差もあるが、中には手を噛まれただけで大して損傷の少ない食屍鬼だっている。そういう人達の……食屍鬼の頭を潰すときには自分の行いに吐き気すら催した。
ともかく、そうやって部員たちの家を数日かけて回った。お互いの家はそう離れてもいないが、隠れたり、時には回り道をしたりとで過ぎていく時間と家族の安否に精神をすり減らしながら全員で全員の家を回った。
結果は……そういうことだ。
誰もいない家に大きな声で家族を呼ぶ部員たちの姿には、今でも胸を刺されたように痛まされる。
俺の家に行くのは順番として最後だったが、俺は帰宅を拒んだ。
誰もいないという現実を見るのが怖かった。仮に誰かがいたとして口から血を垂らして、もはや家族と呼べない存在になっていたら、と考え得る限り最悪の状況も頭を掠めてとてもじゃないが帰る気にはなれなかった。
今は家族の安否も分からないままにひたすら歩き続け、安息の地や生きている人の影を探している。
「コーヒー、もう十分じゃない?」
最上が肩を叩く。白いカップにはもうじきで満杯になりそうなほどのコーヒーがゆらゆらと揺れていた。
「ああ、本当だすまん」
このまま持ち運ぶと床に垂らしてしまいそうなので、少しだけコーヒーを啜った。砂糖もミルクもないブラックのコーヒーには慣れていなかったので、コーヒーが胃に収まった瞬間に何かがこみあげてきた。
「やっぱりちゃんと寝た方がいいわね」
チャーハンと思しき焼き飯を人数分皿に盛りつけ、缶に入ったドライパセリを振りかけて席へと持ち運ぶ最上。俺はカップをテーブルの上に置いて他の食器の用意をする。作ってもらった上に、淹れたのは自分なので何一つ文句は言えないがコーヒーにチャーハンの組み合わせはいかがなものだろうか。
「あぁ、ついでに私にも入れて頂戴。砂糖とミルクもお願い」
「こちらセルフサービスと……」
「おだまり」
「最上先輩。すごく美味しかったです」
「私、将来最上先輩と結婚するッス!!」
「なに言ってんだお前」
「えっなんスか雨宮先輩。妬いてんスか」
「なに言ってんだ手前」
朝食兼昼食を摂り終えて、冷凍庫にあった業務用のアイスクリームを食べながら一息つく。時間は昼前。外の曇り空も晴れて風は強そうだが、歩くにはちょうどいい気温だ。
「……今日も歩いて次の場所見つけるんですよね……?」
「ああ、別にここにいて問題がなさそうならいつまでもいるんだが」
「安全とは言いきれないッスよね」
「そうね。今はまだ見つかってないだけだけど、見つかったらすぐに中に入り込まれるわ」
店は外の景色が見えるように大きな窓がいくつかある。床との高さもとてもじゃないが十分とは言えず、奴らに囲まれれば簡単に全方位の窓を割られて奴らの昼飯になってしまうだろう。ここでの生活は藤宮の言う通り安全とはほど遠い環境だ。
「……そろそろちゃんと寝たいッス」
「まぁ、そうだよな」
体育館を出てからというもの、生きている人に出くわした記憶もない。
助けや安息の地を求めるよりも、自分たちで自分たちの住む場所を開拓することをそろそろ求められているような気がする。
「外を歩くのは危険だったがこの辺ならまだ数は少ないだろう。そろそろ数日でも暮らせる場所を探しながら歩こう」
「そうね。そろそろみんなで休まなきゃ」
冷めたコーヒーを口にして店を出ると俺たちは再び歩き始めた。




