第百二話「chain・6」
すぐにでもやってくる黒い両目が俺の頭を埋め尽くす。
感染者は走ることができない。映画なんかじゃ走るゾンビなんてものもいたけど俺の見た限りすべての感染者は走ることができなかったはずだ。無個性の海。感染者の群れを表すならこの言葉がちょうどいい。
奴は、走っていただろうか。
奴の姿を見たのはたった数秒。妙に動きが機敏だという事しか俺の記憶にはない。飛び込むようにして階段を降りてきてからは前しか見ていなかった。次に奴を目にしたとき、奴が走って来ていたならとっさに対応するのは難しいことだろう。照準を合わせている間に噛みつかれるのがオチだ。
正面から視線を外して秋津さんを見る。正確には、腰に下がっている刀を。
秋津さんはその視線に気づいたのか一度頷くと刀を抜いた。やはり秋津さんだ。話が早い。
だが、待っていても奴はやってこなかった。時間にして三分ほど。とにかく長かった。暗闇がねっとりと粘つき、自分の体にまとわりつく感覚を覚えていた。
「様子がおかしいな」
秋津さんが呟く。感染者を待ちわびる日が来ようとは。確かに奴が来ないことには俺たちは進むことも退くこともできない。
その時、微かな足音が耳に入る。細い弦がキリキリと張り詰めるように体が膠着し始める。銃を構え、それが階段から通路にやってくると、明かりが彼らをぼんやりと照らした。暗闇の奥からやってきたのは感染者ではなく紛れもなく成塚さん達だった。
「無事だったようだな」
一息つくことはできたものの、安心には至らなかった。言葉を返せなかったのがその根拠だ。
「下に降りてこられそうだったからな。あれはお前たちが?」
「ああ。かなり手を焼いたがなんとかな」
「……日野君も感染者たちを?」
「それぐらいやってもらわなくちゃかなわん」
さすがだな。と成塚さんが言う。何が流石なのか俺にはさっぱり分からなかったけど非常に光栄だ。血の汗すら噴き出しそうな緊迫した状況だった。そしてその状況は今も続いている。
「お前らがここにやってきた時には数体くらい片付けたんだろ?」
「片手で数えるほどだったからな。態勢でも整えていたか?すまんな、私たちで片付けさせてもらった」
悦に浸っていそうな成塚さんと対照的な声で秋津さんが呟く。
「その中に目の無い奴はいたか?」
「目?」
「あーっと、目がないのは片方で、もう一つの目は血で浸食されて真っ黒だったんです」
「……覚えがないがそいつがどうしたというのだ?」
「やけに動きが早かったんだよ。態勢を整えるためじゃねぇ。そいつに態勢を崩されたからここにいるんだ。要するに要注意の連中は今のところ野放しってことだ」
ふむ。と成塚さんが顎に手を置く。
「なんにせよ、上るなら今がチャンスだろう。感染者とて階段は上れはしない。この人数で警戒を固めればその感染者の来訪に気づくのも早いはずだ」
「そうするしかねぇだろうな」
秋津さんたちは早々に歩き始める。もう障害がないことを祈るばかりだ。そうして踏み出した足が怪我の痛みとともに床を踏みしめた時。そう遠くないところから銃撃音が聞こえた。
誰もがその足を止める。その胸中にどんな感情を抱いていたのかは知る由もないが、少なくとも俺は歓喜に溢れていた。
「白狼だ」
やはり彼女は銀色の輝きを放つ希望の光なのだ。
状況は考えていたよりもずっと悪かった。誰もが息を飲んだ。暗闇に動きひしめく感染者の群れに。
タワーマンション一階フロア。近くに行っただけでその中のすべてを察した。おそらくはエレベーターを内側から叩く音。それに反応した感染者がうめき声の合唱をしながら集まっている。
「少尉……」
誰かの不安めいた声があたしの名前を呼んだ。
「これだけの数がいるんだ。感染者たちも、あたしたちも。突破できる。後方にいる者は外からの感染者に対応して!残りの者は感染者の掃討にあたって!狙って撃って殺す!いいな!」
「もちろんだ白狼!」
そう。もう前に進むしかない。あたしたちは前に進むべきで、あたしたちは前に進むことができる。これまでのことがそれを確固たる自信へと導いてくれる。
過去とは振り返り、郷愁に浸るべきものではない。ましてやいつまでもその場に座っているだけの言い訳にするものでもない。過去は未来へと進む自分を後押ししてくれるものだ。
ライトを向けられた感染者たちの背中が映る。数はそこまで多いものじゃない。もしあたしたちが非武装だったなら多いとも言えたかもしれない。あの花火を打ち上げた生存者はまさにそれだったのだろう。
頭に照準を合わせたあたしのライフルが火を噴いたのを皮切りに小隊の銃がけたたましい銃声を放つ。エレベーターを叩く音よりも当然大きい。振り返りこちらに向かおうとする感染者の頭を銃弾が弾き飛ばした。
狙って撃って殺す。この言葉が身に染みた彼らの放つ弾丸の命中率は以前に比べて格段に上がっている。感染者が地に落ち、安らかな眠りへと導かれている。
その行為がどうあれ、誰が何と言おうとこれは人道だ。自己を正当化するためだと言うのならそう言わせておけばいい。
彼女がそう思った。あたしもそう思った。だから彼女が望んだ道を辿る。
「前に進めそうか!?」
「そろそろいけそうですよ!」
「分かった。前進しよう。まだ動く感染者がいたらとどめをさしてあげて!他でもない感染者のために!」
「了解!」
そうして小隊は前に進む。
あんたは誇っていい。あたしが誇らせてあげる。あんたがいた……いや、あんたがいるこの小隊は誰に対しても胸を張って最良の小隊と言える小隊になったんだ。きっと最初からそうだったのかもしれない。振り返ったままのあたしがようやく前を向いたからみんなが誇れる小隊になったのかもしれない。
今は前に進む。助かるはずの無い状況で助けを乞った人たちのもとへと急ぐ。
「この音って……」
「白狼だ!!救助隊がここに来てくれたんですよ!!」
石井君に被せながら俺は半ば興奮気味に伝える。
「マジか……!なら、救助隊に合流しよう!動くのはそれからでいい!」
「……本当なら同意したいが」成塚さんはそんな歓喜の外にいた「私は同意しかねるな。下に行くにしろ、上に行くにしろ私たちは動き続ける必要がある」
「だろうな。数を減らしてくれているのはありがたいがおかげさまで連中が殺気立ってるだろうよ。止まってりゃそのうち見つかる。動いてりゃそのうち見つかる。動いてなかったここにいる連中が全員動きだしたと思えばいい。どうする?俺はこれ以上状況が悪くなる前に手を借りずに上へと向かうべきだと思うがね。いずれアメ公どもは屋上へとたどり着くんだ」
確かにそうなのかもしれない。この二人の言う事には説得力がある。まして反発しあう二人の意見が一致したのならなおさらだ。経験の中で犬猿の仲が徐々に解消されていったのだろう。
「沈黙は同意と見るぜ。先に行くぞ。陸たちはもうすぐそこにいるんだ」
「なら後ろは私に任せろ。……秋津」
「なんだ」
「食われるなよ」
秋津さんは面食らっていた。成塚さんから出た言葉だと思えないのは俺でもなんとなく分かった。
「すべてが終わったら私が逮捕しなくてはならないのだからな」
「めっきり聞かなくなったと思ったらここでまた言うのかよ。せめて罪状を言えよ。罪状を」
……今のは。いや、たぶん考えすぎかもしれない。成塚さんならもう少し言葉を選ぶはずだ。
唇がわなわなと動くのを感じながら上へと向かう。その時の俺の頭の中、黒い両目の感染者の事は頭の隅に追いやられていた。




