第百一話「chain・5」
決して広くはない国道で小隊の到着を待つ。あたしたちがここに来た時にはすでに辺りは闇の中だった。フロントガラスの右上には木々や目の前の家に隠れてタワーマンションの上階の影がぼんやりと見えている。それ以外には何も見えなかった。この世界が本当に闇に引きずりこまれたのだと思ってしまうくらいに一面の漆黒が視界を覆う。
時々感染者の影を確認するために開け放った窓から准尉がライトで辺りを照らす。その左手には拳銃が握られ、カチャカチャと准尉の不安を表すかのように鳴いていた。
街はもう死んでいる。耳鳴りさえうるさく思えるほど静まった中で、遠くにエンジンの音を聞いた。准尉は胸を撫で下ろしたように拳銃をあたしに預ける。
「ようやくお出ましらしい」
瞬間、ライトに照らされたフロントガラスには雨音さえ聞こえないほどの小さな雨の粒が浮かび上がって見えた。やはり降って来たか。構わない、どうせあたしたちはあのマンションに用があるのだから。
数分経って、近くでジープが数台停車する。無音の世界にドアの閉まる音、装備で身を固めた兵士の音、ブーツの音、消音機のついた銃がうなりをあげる音が生まれる。
あたしはハザードランプをつけて自分の位置を知らせる。五回も点滅すれば十分だろう。誰もがこの闇の中に光を求めて彷徨う。人も虫も感染者でさえも。
軍曹が窓をノックする。白い歯がやけに輝いて見えた。
「少尉、元気してました?」
「とりあえずはな軍曹」
「よぉ軍曹。暗くてそこにいるのが分からなかったぜ」
「悪質なジョークはやめてもらっていいですかね小隊長」
「大尉の耳に入ったら首を切られるだろうな」
「もう切られたようなもんですよ。それはお互い様じゃないっすか」
早々に車から降りる。できればこのまま車であそこへ向かいたいものだけれど、おそらくそれは無理だろう。それよりも、
「ヘリのひとつくらいあたしたちにくれてやっても良かったんじゃないの?」
「そりゃあ無理でしょうね少尉。使えるはずだったヘリはあの基地には残っていなかったし、あったとしてあの大尉が寄越すわけがない」
完全にあたしの小隊の敵が大尉になりつつある。一応は上官なのだし、不用意に中隊長を悪役にしたてあげるのもどうだろうか。擁護しようと色々考えてはみたもののあの顔が頭に浮かんであたしはそれを取りやめる。やはりあいつは嫌われてしかるべきだ。
「整列!」
各個人、首から下げたライトがそれぞれの顔をぼんやりと照らす。あたしの目の前に立った小隊の顔はいきいきとしているように見えた。確かに生きている。体も心も地に足をつけ踏みしめようと立っている。
「話に聞いている通り、生存者はこの先にあるタワーマンションから救難信号を送った。ここからは歩きでタワーマンションへと向かう。不必要な散開と銃撃は避けろ。中隊で決められた致死距離に感染者が踏み込んだ時のみ銃撃を許可する。それまでは迅速かつスマートにポイントまで進め。いいな?」
「了解」
小隊の抑えた声がまた一つ闇夜に生まれる。死んだ世界が死んだ土地とするならあたしたちの動作一つ一つが芽吹いた植物のようだ。声をあげる。動き出す。それすらも尊い。それがこの世界。
「強行突破って本気で言ってるんですか!?」
秋津さんは刀の柄で俺の胸を突く。
「でけぇ声出すんじゃねぇよ」
「いや、でも、だって」
「じゃあまたこの階からどこまでも落ちていくか?」
「う……」
それは確かにその通りなのだけど、それじゃどっちみち死ぬのと変わりない。二度目はない。心からそれを思う。今まで何回死にかけてきたのだろう。それを忘れたわけじゃない。死の恐怖はいくつもあって、いつでもそれを思い出せる。
「俺の刀だけじゃどうにもならない。もちろん手前にもきっちりやることはやってもらうぞ」
「はい」
だとして、一体何人あそこにいただろうか。十体や二十体。おそらくはそのくらいだろう。感染者が相手だから簡単なようにも思えるけど、それはゲームとかの話であって大の大人十数人を一度に相手して全員殺せるかと言えばそれは無理な気しかしない。
動きは機敏じゃない。武器も使わない。その分タフネスすぎるのだ。そんな終末世界にとっての当たり前が異常に状況を苦しめる。
「覚悟は決まったか」
気がついたら部屋の外に出ていて目の前には階段が見えていた。脚が再び疼きだす。上階からは臭いと体と体とがこすれあう音が聞こえてきている。苦虫を噛んだような表情になっているのが自分でもよくわかる。奥歯の奥からは確かに苦い味がした。
「……はい」
「はっきり言えよ。やれんのか?」
「はい」
秋津さんはこちらを見ない。当てにしてくれているのかそうではないのか。もういい考えなくて。やるしかないんだ。
覚悟は決まったか?だって?
もうとっくに決まってる。この短期間に出会った人たちがそれを確実なものにしてくれた。いい加減踏み出すべきだ。枯草のようにうな垂れた姿勢で立つ俺だとしてもいい加減動き出すべきなのだ。踏みとどまったらそれはもう人間じゃない。
「弾はどれくらいある?」
「三十発撃っても余るくらいには」
「よし……それじゃあまず俺がライトで連中を照らす。時間かけずに十発狙って撃て。出来るだけそれで殺せ。十発十中は求めてねぇ。でもせめて七体くらいは始末しろ」
無茶を言う。あの小隊でさえそれが出来たら優秀な兵士と言えるだろう。俺には経験も何もない。あるのは覚悟だけだ。精神論でどうにかなるとも思っちゃいない。けれどそれを口に出せるほど自分は馬鹿じゃない。秋津さんから殴られるのもそうだし、これ以上自分にできないと言い聞かせることもしたくはなかった。せめてやってから言おう。
「当たるかどうかはともかく十発撃ちます。それで、秋津さんは前に出るんですか?」
「撫で切りにする」
「もし手に負えなくなったらどうしますか?」
「後退しろ。連中も無限に出現するわけじゃねぇ。終わりはきちんと見えてんだ。最後の一体を始末するまでにいろいろ考えられんだろ」
そうだといいんだけど。とにかく作戦会議は終わった。歩くたびに痛みに上げかけている悲鳴を押し殺しながらゆっくりと漂う腐臭の先へと向かう。
階段を上った先、避けて通りたかったあの光景が再び目に焼き付けられる。暗闇で良く見えていないけど、体がへし折れる音と鼻の曲がる腐臭がその光景を脳内で作り上げている。もう逃げられない。
「ライトを当てるぞ」
秋津さんは手に持った懐中電灯を上に上げる。その惨憺たる光景は想像を軽く上回った。潰れた顔、表皮のめくれがった腕、損失した指。子供も大人も老人も誰もが重傷を負いながら、腐り、目的もなく上へ上へと向かっている。誰かに踏みつけられるたびに傷はその数を増す。
化け物とはいえ、人間のそれでないとはいえ、俺は彼らに哀れみさえ感じていた。
殺さなきゃいけない。殺さなきゃ殺されるから。そうじゃない。全部終わりにしてあげなきゃいけないんだ。あの時口から漏れた言葉の真意が掴めた。
だから引き金の感触は軽かった。大勢の化け物を目の前にして指は簡単に動いた。誰に言われたわけでも無い、自分で決めた使命。
まだ狙われてはいない。だからこそ当てられる。距離も十分だ。近すぎると言ってもいい。銃弾が額を撃ち抜いていく。狙いやすい位置にいる感染者から手あたり次第に撃ち抜く。銃弾をその身に受けた感染者は感染者の波の中へと消えていく。揉まれながら、その背中を踏みつけられながら歩くことをやめていく。
もうそれ以上歩くことは無いんだ。安らかに眠らせてあげるべきだ。墓標がなくとも誰が誰とも分からなくとも不死者としてではなく人として再び眠りにつくべきなんだ。
せめて尊厳のある死に方を。
自分の母にも似た中年女性の喉を穿ち、よろめき手すりにうな垂れた頭頂部に穴が空く。ドロドロと流れる黒い血さえその目に焼き付ける。
せめて永遠に続く眠りを。
六発目、ふいに動いたせいで肩に孔の空いた学生。どうにか狙いをつけて九発目で側頭部を撃ち抜く。焦ってはいない。それでもこれは致し方ない。九発撃って何人殺せただろう。たぶん片手で数えられる程度だ。
せめてこの無間地獄からの救済を。
十発目、ふいに目があったフロア付近の女の子にむけて引き金が引かれる。見事に額を撃ち抜かれて後ろへ倒れた彼女。未だ平和な国にいる人は俺を見て何と思うだろう。何と思ってくれても構わない。
十一発目。
「もういい。下がれ」
秋津さんが肩を叩く。何体かがもう自分の存在に気付いているようで波をかき分けながら下へと降りてきている。
「ったく。もう少し片付けてくれりゃ良かったんだが」
後方に下がり緊張の糸が切れて踊り場の壁に背中を合わせる俺は「無茶言うな」と強気な姿勢だった。もちろん口には出せない。
「お前、名前は何て言ったっけか」
秋津さんが刀を抜きながら前に出て行く。
「陽平です……日野、陽平」やっぱり忘れてたのか。いい加減覚えていてほしかった。
「引きこもりの割にはよくやったんじゃねぇか」
「そりゃあ」脂汗を拭って笑う。というよりは頬が引きつっている「引きこもりですから」
「それじゃ陽平。限界まで俺がなんとかする。お前も狙えそうならそこから数減らしてくれ。俺に当てたらたたっ斬るからな」
「そりゃあもう」承知の上ですよ。と言いかけて息が切れる。とてつもない疲労だ。撃つという簡単な動作の割にその疲労はまるで何キロも走った後のようだ。恐怖心との戦い?異常なほど要求される集中力?なんだっていい。疲れてるってことはまだ生きてるし生きれるってことだ。
見た感じで言えば……いや、数は数えられる。階段の下で下敷きになったまま動いている感染者を除けば二十体もいない。マガジンの中には残り七発。階段を上っている途中の感染者を狙えば秋津さんの背中を撃つこともあるまい。
なんだ、切り抜けられるじゃないか。切り抜けられなかったのは、いや、切り抜けようとしなかったのは俺が俺を信じなかったからだ。みんなにもそれが伝わった。俺ができないと思い込んでいたのがみんなにも伝わった。なるべくして俺は無能になってしまったのだ。
ライトで照らされた前方、秋津さんが感染者の首を撥ねていく。間合いに入り込んだ感染者から順番に斬り捨て、徐々にその間合いを広げていく。本来詰められるはずの距離を秋津さんは徐々に詰めていっている。さすがとしか言いようがない。
十八、十七、十六、十五。
ゼロに近づく感染者の数のカウントダウン。懐中電灯を握る手に汗を浮かべながら逸る気持ちを抑える。
カウントダウンが飛び散る血とともに十に近づく頃、固い音が上階から響いてきた。どうやら別の感染者が上から転がり落ちてきたらしい。頃合いを見て秋津さんも下がる。すべての感染者がこちらに気づいている様だった。
「あとは下がりながらでいい。やれるか陽平」
返り血を浴びたおっかないヤクザに向けて俺は大きく頷く。
「やるしかないですから」
即答だったのは凄まれたからじゃない。懐中電灯を手渡して感染者へと向き直る。四つん這いで踊り場にいる自分たちの下へ降りてくる感染者の額に狙いを定めた時、異様なうめき声が鼓膜と心臓を叩いた。
うめき声はすぐそこ、自分が目の前にしている数体の感染者の列の奥から聞こえてきた。
そしてそれはそれらの列をかき分けて、飛び込むかのように階段の前に姿を現した。
失われぽっかりと暗い穴を残す右目と、黒い血液が充血して真っ黒に染まった左目。大きく開かれた口を開けながら迷うことなく俺たちの方へと倒れてきた。当然バランスを崩して階段に叩きつけられたのだが突然の来訪にビビっていた俺の銃弾が当たるはずもなく再び下のフロアへと走り出す。
秋津さんも何も言わずに階段を飛び降りるようにして後退していた。
「……何だったんだ今のは」
感染者を散々目の当たりにしてきた秋津さんでさえこの有様だ。俺が答えられるはずもない。
動きが妙に機敏だった。そう見えただけなのかもしれない。いずれにしろさっきの感染者とは十分な距離を保てているはずだ。迎え撃てる。
ライトで照らされた闇の向こう。黒い両目の襲撃を息を殺しながら待った。
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