魔物のいない迷宮
温泉なので、目を開けて潜ると、とても目に染みる。いくら体を鍛え上げてもこういう部分の痛みというのは無くなることはない。痛みというのは身体の危険信号であり、無くなってはいけないものだとわかってはいるのだが。
それに、氷で表面を冷やしていたが、ここまで溶けた氷が届いていないのか、段々と熱くなってきた気がした。
ずっと垂直に潜って行くと、横穴のようなものが見えてくる。ここまでざっと40秒。このままならあと1分は潜っていられそうなため、とりあえず横穴を覗くことにした。
――光が漏れている?
淡い光。どうやら、猿たちはそこから来たらしい。
目を凝らすと、僅かにだが水の流れが見て取れる。
索敵スキルを使ったところ魔物はいないようだ。
段々と熱くなってきた。
俺は意を決して、横穴に入っていく。
そして、横穴の上の部分に穴が開いていて、そこが地下の空洞に通じていた。
「……驚いた……地下にこんな見事な場所があるとは」
そこに広がっていたのは、果樹園だった。バナナやパパイヤがたわわに実った樹があった。
壁や天井が薄っすらと淡い光を放っているので、それを元に光合成しているのだろう。
そして、樹の周りにパイプのようなものがある。おそらく、お湯をこれで運び、室温を調整しているのか。
南国とはいえ、バナナが自生できるほど暑い場所じゃない。
猿たちはここに住んでいたのだろうか?
「プチウインド――」
風魔法でヤシの実を落とし、熊切包丁で穴を開けて、少し飲んでみる。
ヤシの実ジュースだ。
「プチアイス」
氷魔法を使い表面をちょっとだけ凍らせて飲んでみると、冷たくてとても美味しい。
それにしても、ここは一体なんなんだ?
鉄パイプとか明らかに人工物なのだが、壁や天井はどう見ても迷宮なんだよな。
でも迷宮にしては魔物の気配を感じない。
謎は残るが、これならキャロを呼んでも大丈夫だろう。
俺はびしょびしょの服を脱ぎ、アイテムバッグの中に入れると、新しい服を取り出して着替えてから「マイワールド」と魔法を唱えた。
※※※
「凄いですね、このバナナという果物はとても食べやすいです」
キャロが太くて長い物を口の中に入れて、咀嚼している。
映像作品になったらこのシーンだけ繰り返されるのかもしれないと思うと、誰にも見せられないな。
なんてバカなことを思いながらも、俺はマンゴーを食べた。
俺は果物を一通り食べて、とりあえずその種は全てピオニアに預けた。
ここのビニールハウスのようなシステムを説明すると、ピオニアは「それならここでもできそうですね」なんて言って張り切っていた。なんだろう、ピオニアって実は発明や工作が好きなんじゃないだろうか?
「このお湯はどこから流れてきているんですか?」
「触るなよ、火傷じゃ済まないこともない熱さだからな」
「火傷で済む熱さって、普通に熱いってことですね」
とバカな問答をしながらも、
「もしかしたら、温泉を循環させているのかもしれない。ということは、ボイラーがどこかにあるのかも」
天然温泉かと思ったら、人工温泉か。
迷宮も元は、瘴気を集めて浄化するための装置だというし、ここは迷宮の可能性が高くなった。
だが、魔物の気配がないのはやはりおかしいな。
「キャロはどう思う?」
「少なくとも十年近くは人が入った気配はありません。本来ならこういう島にある迷宮は教会の迷宮騎士が定期的に浄化作業を行いに来るのですが、もしかしたら、この迷宮の魔物はあのお猿さんたちが退治しているのかもしれませんね」
キャロは言った。魔物が迷宮から溢れるのは、迷宮の中の瘴気が溢れ押し出された場合で、ここに魔物がいない以上、あの猿たちは迷宮の魔物ではないという推測が成り立つと。
「もしかしたら、猿たちは閉じ込められていたのかもしれないな。とてもではないが、氷で冷やす前の温泉だと泳いで地上に戻るのは無理だろうし……」
「そうですね。魔物たちの食べ残しや排泄物もありませんから、きっと迷宮に吸収されたのでしょう」
あぁ、そういう意味では便利だな、迷宮って。果樹が光合成をしているから酸欠になることもないし。俺のマイワールドほどじゃないけれど、引きこもりをするには最適なのかもしれない。
「あの猿たちはあまり強そうじゃなかったし、猿でも倒せる魔物だっていうのなら心配はないか。一応奥まで調査に行くつもりだけど、キャロはどうする?」
ボイラーがあるとしたら、ぜひとも持ち帰りたい。
そうしたら、マイワールドの中にも温泉が作れるからな。
「キャロもお供します」
「そうか、よし、じゃあ行くか」
「イチノ様がここに強制転移させられた理由を探りませんとね」
……あぁ、そういえばそんな調査のためにここに来たんだったな。
温泉でテンション上がりすぎて、すっかり忘れていた。
※※※
迷宮の中にやはり魔物はいない。
それに、今までの迷宮が階層構造になっているのに対し、この迷宮は平面に広がっている。
「……何もありませんね」
「そうだな。この長い通路で最後か」
キャロが迷宮の地図を描いてくれた。
まるで昔のダンジョンゲームの方眼紙マッピング作業みたいだ。
実はこの作業、地図のない迷宮だといまでも普通に行われるらしいのだが。
「いままではハルさんの嗅覚に頼りっぱなしでしたからね」
そうなんだよな。ハルの鼻があれば、一度通った場所かどうか、多くの人が通ったかどうかなどすぐにわかってしまうから、これまでマッピングする必要なんてなかった。
「こうして地図を見ると、どうもこの場所に不自然な空間があるんですよね」
「隠し扉みたいなものがあるのかもしれないな」
キャロは知らないことだが、以前、ノルンさんを助けに行った時も隠し扉があった。見た目はただの壁にしか見えないんだが、まるで立体映像みたいに触れると何もないのだ。
もしかしたら、ここにも似たようなものがあるのかもしれない。
ここまで、ボスの間も無いとなると、この不自然な空間に階段かボスの間があるのかもしれない。
そう思い、とりあえずはこの長い通路から調べようと踏み込んだ時だった。
――ガタン!
大きな音と一緒に、通路の奥に壁が現れた。奥だけではない。振り返ると、俺達が入ってきた方も壁があった。
「閉じ込められたっ!?」
そう思った時、壁が迫り寄ってきた。
しかも、かなりの速度。
「イチノ様、これは――」
「くそっ、壁を壊すぞ!」
俺はアイテムバッグから鋼鉄の剣を抜き、
「スラッシュ!」
と剣戟を放った。
だが――
「嘘っ、傷一つ付いてない。岩でも砕ける自信があったのに」
「イチノ様、迷宮の壁は壊すことができません!」
「そうだった、忘れてた!」
俺は咄嗟に剣を横に置く。
つっかえ棒代わりに。
他にもアイテムバッグから長い物を出していく。
五十センチくらいにまで迫って、壁が止まった。いや、まだじわじわ動いているが、鋼鉄の剣がつっかえ棒になっていた。
「くそっ、狭い――キャロ、大丈夫か」
「……大丈夫です……つっかえるものがありませんから」
キャロが自分の胸を触り、何故か少し残念そうに言った。
「いや、胸の大きさはこの際どうでもいいから……それより、壁! そろそろ諦めてくれ! エレベータや電車の扉みたいに、異物が挟まったら自動で開くシステムはないのか!」
そう叫んだとき、鋼鉄の剣が壁からの圧力に耐えかねて――折れた。
「「………………っ!」」
※※※
次の瞬間、壁は僅かな隙間を残して、ほとんどくっついた。
そして、壁が元の位置に戻ったとき、その通路で動くものは誰もいなかった。