空泳
急に視界が揺らぎはじめた。
元から貧血の気があり、両親や医師に度々心配されていた。何万人にひとりといないような珍しい血液が流れる彼女は、輸血を受け取ることが出来ないまま育ってきた。幸いにして生涯において大量に出血をするどころか、骨の一本を折った事すらないのでそんなことはすっかり記憶の隅から零れ落ちそうになっていたのだ。
急に視界が揺らぎはじめた。ある朝ふいに目を覚ますと、揺蕩うように目の前の風景がゆっくりと波を打っているような感覚に覚醒した。まるで水の中にいるようで、夢の中にいるのかとも考えたが、鼓膜を打つ強烈なアラームの音に夢ではないということを理解した。
急に視界が揺らぎはじめた。壁に手をつきながらなんとか立ち上がり、背伸びをすることもままならない、目の見えない人のようにしてリビングにたどり着いた。目を閉じて歩くと、地震でも起きているかのように体が揺すぶられるのだ。彼女は目を閉じることをやめ、ゆらゆらと波打つ世界を歩いていた。両親は彼女より彼女の事情を察しているかのように振る舞い、また貧血が起こったのかと朝食の味噌汁を目の前に置いた。立ち上る湯気が本当はどういう形なのか、気になって気になって仕方がなかった。彼女は次第に、目の前の視界がどんどん疑わしくなって、そのものが本当はどんな形をしているのかをひとつひとつ取捨していくようになった。
視界は揺らぐ。彼女は何故か学生であったから、その日も徒歩で二十分と掛からない学校まで歩いて登校しなければならなかった。一歩、一歩、踏みしめるたびに海の砂浜の上を革靴で歩いているような気分になって、彼女はひどく慎重に歩き続けた。途中で石塀の上を歩く猫を見かけた。白と茶色のツー・トン・カラーで、こちらを潤んだ瞳で憐れむように見ていた。石ころを投げつけてやると、すり抜けるようにそれは猫をかすめる。彼女はますます疑わしげに猫をにらんだ。そうやってゆっくりと歩いていたせいで彼女は何度目かの遅刻判定を切られた。
視界は揺らぐ。黒板の文字がぶれて、外国語で授業を受けているような気分になる。彼女の席は前から二番目で、しかも最後の視力検査では余裕のニー点ゼロだと判定されていたのに、文字がどうにも読めないのだ。彼女は目を閉じて、耳だけを頼りにしようと試みたが、激しくゆすぶられる体に耐え切れずに面を伏せた。結局、その日の授業はまともに受けられたものではなかった。
ふと、ノートに書き込んだ自分の文字を見た。辛うじて捉えた最重要単語や、つらい・酔う・といった落書きは皆一様にまっさらで、とたんに彼女はトクイになった、自分の書いた文字をこうも美しいと感じられる日が来るとは思わなかった。誰しも汚い文字を好んで書くわけではない、書道家だって崩して文字を書くわけじゃなく、それがいちばん美しいと思ったから書くのだ、彼女はますますトクイになった。
視界は揺らぎ、揺らいだ。学校での一日を終えるころには、すっかり彼女は視界の海の住人になっていた。打ち寄せる揺らぎには一定の法則があって、それに乗って流木のように進むことでいかにもまっすぐ歩けるようになった。下校途中に見かけたモノのひとつひとつに彼女は気を凝らした。石塀に積み上げられたレンガの数、階段の段の数、夕焼けの色、カラスの鳴き声、猫の視線、瞳、シッポ、毛並み、あらゆるものを観測していくうち、彼女はまるでミチの世界に迷い込んでいるような気がした。自分が観測するあらゆるものが、まるで別世界のように違って見える。自分が何気なく歩いていた普段の光景は、こんなにも奇妙で新鮮で美しいものだったろうか、彼女はだんだん疑わしくなって電信柱にひとつ額を思い切り打ち付けてみた。力の限りと思ったがそれほど痛みを感じない、イヤおかしい、痛くないはずがないのだ。なぜって、そうだろう。して、どうでもよくなって、彼女はまた歩き続けた。
鼻歌でも歌いたい気分だった。
視界が揺らぎ続けて、彼女は揺らぎ続けた。その日は宿題にも手を付けず、家族が用意した夕飯も、本棚の文庫本も、ぜんぶどうでもよくなってそのまま逆立ちして、彼女は落ちていった。何を見ても美しくて退屈だったのだ。文字なんてどうでもいいし、風景なんて、食事なんて、絵、宿題、数式、化学反応、炎、漢字、自分自身、
干上がっていた。
目を覚ますと、次に彼女は泳げなくなっていた。干上がっていた。かっちりと固定された視界で、ふらふらと彼女は揺らいでいた。ふらふら歩き、ふらふら食べ、ふらふら学んでふらふら終えた。なんて自分はふらふらなんだろうと彼女は絶望してしまいたいが、ふらふらしていてまともな思考も出来なかった。猫に石ころを投げても、ノートに不満をつづっても、味噌汁をすすっても駄目だった。もう一度泳ぎたかった、水を得て魚が發辣とするように、油を得て水が退くように彼女は泳いでしまいたかった。飛んでしまいたかったのだ。机に頭を打ち付けて、まっすぐ天を仰いだ彼女は、そのまま宙へと泳ぎ出でた。
瞬間、見えた星空には、ひとつの星がいくつも浮かんでいるように見えた。満天の一番星だった。今日は三日月だったかな、彼女は思い浮かべて月を探そうとした。けれど、不意に体をかつてない力で揺さぶられて、ついにそれが出来なかったのだ。月なんて、月、星、赤。
ふらふらと、彼女は揺れることができなかった。揺れて、揺れて、止まってしまった。
彼女がコト切れた時、世界がほんのちょっぴり、揺らいだ、世界中のだれもが、ほんの、ちょっぴりだけ、揺らいだのだった。彼女というコが消えて、コが一つ減った。コは揺れて揺れて、急に誰かの視界が揺らぐ。
揺蕩うのだ、泳遠に、
誰だって、