心にはてなく
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そのとき僕は本棚のわきに立ち、化粧台に向かってヘア・ブラシで後ろ髪を整える恵子夫人の姿をじっと見つめていた。その姿はよく母と会話をするときに目にした光景だったから、なんとなく今でも印象に残っているのだろう。彼女の侮蔑を含んだ青い瞳は夫であり、僕の友人でもある吉永弘樹に向けられている。僕の方が深い物思いに沈んでいたせいで、二人がなにについて長いこと論じ合っているのかはわからないが、少なくとも良い雰囲気ではなさそうだ。僕がはっとして状況を飲み込もうと顔を上げたところで、ちょうど弘樹が僕に鋭く目を向けた。手には口の開いた黒いスポーツバッグを持っていた。
彼は拍子をとるように、とんとんと小刻みに僕を指差した。「じゃあ祐二はどうするんだよ。水着なんて持って来てないんだぞ」
「あなたのを貸してあげればいいじゃない」
「一枚しかない。おまえも知ってるだろうが」
「いいえ、見たことある。どこだか忘れちゃったけど、たしかあれは──」
溜めた息を一度に吐き出すような笑い声が部屋に響き渡った。
「あれは水泳用のパンツだぞ!」
「それじゃ嫌?」と苦し紛れに恵子夫人は鏡越しにこちらを見た。僕が答えるまでもなく、夫がそれを制した。
「冗談じゃない。いい大人があんなパツパツの水着を履いて海なんか行けるかよ。なあ?」
僕は優柔不断な笑みをもらした。弘樹は有無を言わさぬ調子で僕の方に顎を向け、ほら見てみろと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「わかった。諦める」つとめて冷ややかに、恵子夫人は言った。「そうすればいいんでしょう?」
「なに? おまえ──」彼は怒りに我を忘れる一歩手前で、かたわらに知人の目が控えることを思い出した。彼は自分の気を落ち着かせようと深く息をして、用のなくなったバッグを放った。「……クソ、まったく。どうしてそんな風にしか口を利けないんだろうな」
この日、僕らは共に野球を観戦することになっていた。会社がとっている新聞の販売店に直接支払いを収めに足を運んだとき、期限間近のがあまっているからお暇があればと譲り受けた三枚の野球の券で、僕が二人を誘ったのだ。夫婦にはときたま夕食をごちそうになってもいたし、いつかなにかのかたちでお返しせねばと思っていたところだったので、電話帳を探るまでもなく僕は彼らに電話をかけた。その日だったら空いているという答えと、試合がナイターだったのとで、どうせなら昼間からみんなで羽根を伸ばそうじゃないかと二人の家に僕が招かれたのだ。
恵子夫人は海に行きたいといい、夫の方はそれに気乗りしないようだった。海なんかで遊んだら一日分の労力を使い果たしてしまうと考えたのだろう。僕には二人の口争いを取りまとめるような技量も根気も持ち合わせていなかったから、同意を求められたときに困窮しない程度の判断力を残して、あとはなるに任せておいた。
争いにひと段落がつくと、弘樹は二階に上がり、なにやら落ち着かない物音を立て始めた。夫人はそちらに顔を向けて「なにをやってるの?」ときつい声で独り言をいい、また鏡に向かって手をあれこれと動かし始めた。それからほとんど間を置かず、夫が階段を下り、「おい、いつまで化粧している気なんだよ」と急かした。それに対して夫人はむすっとした表情を作り、なにも答えなかった。
弘樹は妻に睨みをきかせたあとで僕に歩み寄った。居心地の悪い思いをしながら、僕は組んでいた腕を解いて彼に振り返った。
「ああ祐二、悪いけど車のエンジンをかけておいてくれないかな。鍵を渡しとく」
言われたとおり鍵を受け取り、外に出た。中から怒声とか悲鳴でも聞こえやしないかとひやひやしながら車の中で待っていたのだが、ほどなくして家を出た二人の様子はまるで何事もなかったかのような親密さを取り戻していた。僕は不思議に思いながら運転席を出て、後部座席に移動した。弘樹は車のドアを勢いよく閉めると、妻に向かって意味ありげに、そして優しげな微笑を投げかけた。もし二人のことをまるで知らない人物が今の彼らを見たら、それこそ理想の夫婦に見えたことだろう。あるいはこのあとにでもなにか貴重な二人だけの時間が提供されるというような。
「仲直りしてくれてよかったよ」とほっとして僕は言った。
「別に喧嘩なんかしてないよ。ただちょっと意見の食い違いがあっただけで」と弘樹はなんでもなさそうにこちらに振り向き、それから夫人を見た。「さ、行こう。ぐずぐずしてると予定が狂う」
「私がわがままだったの。反省してる」と彼女はこちらを見て言った。
「もういいよ。ちゃんとシートベルトを締めて。祐二は煙草吸いたくなったら、悪いけど窓を開けて吸ってくれな」
「煙草は吸わない。やめたんだ」
「そうか」
道中も二人の親密さは損なわれることなく維持された。我々の目的は海の見えるレストランで食事をとるということで大体合意し、一路東京湾近辺を目指すことになった。黒光りする新都心を傍らに、止むことなく眩い太陽に無数の車体が煌いた。午前のあいだ熱されたアスファルトからは陽炎が立ち昇り、弘樹はそれをまるで遠い記憶に見たもののように、目を細めて車を進めた。会話は弾むことすらなかったにせよ、よその人間がそこいるような気まずさは生まれなかった。おかげで僕も仕事のこととか、とおりいっぺんの近況を一言も述べずに済んだ。二人が黙ってしまうと、今度は僕が話題を持ち出した。
「この前聞いた話だと、そう遠くない未来に北極の氷は解けてしまうらしいね」と僕は言った。「いや、それとも南極だったか」
「そうらしいな」と道路表を眺めて弘樹は同意した。「……この暑さじゃそれもしょうがない」
「それじゃ、もし氷が解けちゃったとしたらだけど、北極旅行はなくなっちゃうの?」と恵子夫人は言った。
僕と弘樹はミラーで目を合わせて笑った。
「北極旅行なんてそもそも行きたいかい?」と弘樹は助手席に顔を向けた。
「でも行く人もいるんでしょう」
「さあ。どうだったか……でも夢はあるな」
「果てしないものが好きなんだと思う。底知れないものっていうか」
「底知れないものって?」
「宇宙とか、心とか」
それを聞いて弘樹が笑い出した。「宇宙に果てはないかもしれないけど、心にはあるぜ」
「ないと思う。私、ときどきそう感じるもの」
「おもしろい意見が出た。祐二どう思う?」
「茶化さないでよ」
「別に茶化してない」と弘樹は真面目に言った。それから僕とミラーで目を合わした。「なあ、心に果てはないんだってさ」
「まあ、そういう考え方もできなくはないというか」と僕は少し迷ってから言った。
「あなただって私の全部を知ってるわけじゃないでしょう?」
「なるほど」と弘樹は含み笑いしながら言った。「たしかにそうだ。心に果てはない」
弘樹は道の端に車を停め、カーナビゲーションから条件に合ったレストランを探した。そのあいだ三人はその小さな画面に顔を寄せ合って、ああでもないこうでもないという意見を交わしながら、あちこちに今からの予約は可能かどうかと電話を掛けた。僕の方は昼飯くらいという気で安上がりに済ましても良かったのだけれど、ホテルのレストランでなければ口に合うはずがないという恵子夫人の断固とした意見もあり、我々は船橋にあるホテルでランチの予約をとった。
「うちの親父が死んだときも親戚一同ここで食事をとった」車から降りて本館へ移動するさなか、弘樹の目が感傷に染まった。彼は実直な表情を保ちながらも、どこか周囲に気取られたいと考えている風に見えた。「甥っ子のやつはうちの親父の顔すらおぼえてなくてね。会ったのが一度だけだから、それも仕方ないと言えば仕方ないが」
「背の大きくて、立派なお父さん」と夫人が口を添えた。「死ぬまで一日と欠かさずに髭を剃っていたって」
「親父はいわゆる田舎紳士だったからな。そういうことにうるさくて──」
「お父さんはいつ?」と僕が尋ねた。
「ああ、二年と少し前だったよ。おれが物心ついたときから肝臓が悪かった。煙草も女もやらない人だったけれど、傍らにはいつもブランディーがあった」
僕は彼の父を、その言葉を頼りにイメージを模索した。でも面識のない人物を思い描くたびにそうなるように、彼の父の顔はさる有名人の顔にそっくりになってしまった。
「祐二はきっと気に入られただろうな」と彼は僕の顔を眺めて言った。「会わせる機会を持つべきだった」
「そうね」
お昼どきということもあり、レストランは人で賑わっていた。湾が一望できる窓寄りの席に我々は案内され、ぱりっとしたベージュ色のメニューを捲りながら、あの場所はかつて海だったんだというような弘樹の解説を肯きながら耳に入れた。料理が運ばれてくるまでに、恵子夫人は煙草を一本吸った。僕は一度だけ席を外してトイレに行き、仕事の電話がないか確認をとった。
「ずいぶんと忙しいみたいね」と夫人は言った。いないあいだ僕の仕事について話し合っていたらしい。
「毎日がハイキングみたいなものだよ」
「そりゃいいな」と弘樹が請け負った。「次回はハイキングにしよう」
蟹の盛りつけられた色目の良いトマトソースのパスタが、僕の前に置かれた。二人はそろってピザを食べた。こちらもやはり魚介類の盛りつけられたピザで、バジルがふんだんに振りかけてある。受け売りの知識だったためだろう、弘樹の湾についての解説が尻切れとんぼになったところで、その続きを待つように沈黙が流れた。エアコンの風がちょうど真上から降りてきていたので、僕は身震いした。
「上着を貸そうか?」と弘樹は言った。彼は赤いチェックのシャツを羽織って来ていたのだ。
僕は首を振って、それなら肩を出している夫人にすすめてやってはどうかと身振りで伝えた。
「おまえ寒いか?」
「いいえ」突然距離を図るようなぴしゃりとした物言いで、夫人は夫をきつく見つめた。「ねえ、それより私言ったよね?」
「ああ、わかったよ。悪かった」それから弁解するように僕に顔を向けた。「このごろおれがうちのを──彼女のことをおまえって呼ぶことに耐えられないみたいなんだ」
「へえ」
「別にこの人より上に立ちたいっていうわけじゃないの。ただ対等に扱われたいだけなの」
「どうだか。この女は抜け目ないぜ」と言ってから、弘樹は顔の前に両手を上げた。「──失礼。このご婦人だった」
僕は笑ったけれど、恵子夫人はくすりともしなかった。
「おいおい。冗談だろう?」
「そういうのが耐えられないって言ってるの」
「ああ、わかったよ。もう──」
「帰りたくなってきた」
弘樹はため息をついてから、情けない表情で僕を見た。なにか言うべきなのかどうかと悩みながら、結局自分に言えることはないと、僕は黙ってしまった。
「悪かったよ。ごめん」と弘樹は謝った。「ジョークだよ。ただ場を和やかにしようと思っただけだろう」
「ちっとも和やかになんかなってない」
「悪かったよ」
「別にもういい。怒ってないから」
彼女はそう言ったあとで、夫の方へピザの皿をどけた。
二人はその後レストランを出るまで一言も口を利かなかったから、僕としてはずいぶん居心地の悪い思いをすることになった。カー・オーディオさえもが沈黙を助長し、我々は一路東京ドームシティーへと向かいながら、休暇がほぼ台無しになったことを悟りつつも、見たくもない野球の試合を観戦することになっていた。しかしいちばん安いチケットで入れるのは外野の立見席だけだということがあとでわかり、もう試合を見るのはよそうかという雰囲気になった。でも最後の望みに賭けていた弘樹は、それを認めようとはしなかった。
「あといくらか出せば三塁側のチケットがとれるよ」電光掲示板を指差して、彼は訴えるように言った。「別にどこの球団が好きってわけじゃないんだろう。そもそも野球なんて知らないだろうが」
彼は恵子夫人に言っていたのだ。彼女はしらけた感じで肯いて、バッグから財布を取り出した。
「嫌なら帰ってもいいけど」と聞き取れないような声で弘樹は言った。
「ほら、どこに払えばいいの? そこのおじさんに払えばいいの?」
弘樹は肯いて、夫人を列に並ばせた。それから少し気まずそうにこちらを見て、口を半ば開きかけた。でもうまく話が見つからないようだった。
「野球は子供のころ、よくやった」とやっとのことで彼はそれだけ言った。そのせいで僕の方までがしどろもどろになってしまった。
「でも弘樹はサッカー部だったろう」
「違う。もっと昔だよ。ああ、なんて言ったらいいか──」
そこで彼は唐突に後ろを振り返り、そのまま夫人の下へ歩み寄った。彼女の耳元でなにか囁き、それから僕の方に戻って来てなにか飲みたいものはあるかと訊いた。
「ああ、コーヒーがいいな。ありがとう」
「ビールじゃなくていいの?」
僕は肯いて、自分だけ酒を飲むわけにはいかないからと答え、人ごみに紛れていく彼の背中をしばらく眺めていた。チケットを買い終えた恵子夫人は、僕の方に寄り、一枚差し出した。
「ごめんなさいね」と彼女は言った。「本当はもっと楽しくしたかったんだけど」
でも彼女がその言葉を本心から言っていないことは、付き合いの浅い僕にでもよくわかった。というのも、その声にはひととおりの謝罪の念しかこもっていないのだ。道を譲り合うときにもまったく同じ言葉を同じ意味合いとして彼女は用いるはずだろうと、僕は胸の中で思った。
「二人はいつもそんな感じなの?」と僕は尋ねてみた。
「最近は大体こんな感じ」と彼女は言って、独り言のように付け加えた。「……あの人、よそで女作ってるみたいだし」
「まさか」
「いいえ、あの人なら十分にありえる話だから」
他人の僕がそれに対して口を挟むべきかどうか迷った。かといって、友人として無視できる問題でもなかった。
「どうしてそう思うの?」
「わからない……でもそう思うの」
二人が黙してしまってからすぐに、弘樹がゲートから手を振っているのが見えたので、僕と夫人は声もなくそろそろと歩き出した。弘樹は陣頭指揮をとって、チケットをひらつかせながら、係員に三塁側はどっちかと訊いた。我々は教えられたとおりの方角に歩きながら、無理に会話を盛り上げようと、ぎこちないやりとりを続けた。なにかグッズを買っていこうかと弘樹が提案したが、夫人と僕はどっちつかずの表情を浮かべた。
「欲しくないんならいいさ。行こう」
「別に欲しくないわけじゃないけど……」
弘樹はなにかにつっかえたように足を止めた。
「じゃあどっちだよ。あと、その別にっていうのやめてくれないか」
「いったいなにをかりかりしてるの。今日はずっとそう」
彼はとんでもない侮辱を受けたというような驚きの顔で妻を見た。
「どっちが始めたと思ってるんだ? おれは今日半日中、家を出てからひとことだって文句を言わなかった。全部君の言うとおりにしてる」
「なるべくならもう喧嘩はみたくないな」
そう言ってしまったあとでひどく後悔しながらも、僕のその言葉はひとときの鎮静剤代わりにはなったらしい。二人はぎょっとして僕を見つめたあと、声をそろえて悪かったというようなことを口にし、改めて三塁側席に歩き出した。ちょうど球場に足を踏み入れたそのとき、鬨のような歓声がびりびりと全身を震わせた。
「いいところを見逃しちゃったみたいだ」階段を下りながら、弘樹はこちらに振り返った。「席をいっしょに探してくれないかな。二人で」
席を見つけるのにもずいぶんと時間がかかった。一塁側と比べて、三塁側の観客はまばらだった。僕は左手に夫妻、右手にバッターボックスという感じでシートに腰を下ろした。今はちょうど回が終わったところで、守備位置についた選手たちがボールを投げ交わしている。後ろの人が突然グラウンドに向かって声を張り上げたので、我々三人はそろって後ろを振り返ってしまった。
「野球を観るなんて何年ぶりだろう」と感慨じみた面持ちで弘樹は言い、そのまま夫人に顔を向けた。「君ともすごく昔に、大学野球を観にいったよな。覚えてる?」
「もちろん」と恵子夫人は肯いた。
「あのころはまだ本当に子供だった」彼はそこで少し現実に立ち返って僕を見た。「おれの友達が投げていてね。昔、甲子園で三回戦まで行った。拓殖大のやつなんだけど」
「その人なら知ってるかもしれない」と僕は言った。
「本当に? でも高校時代じゃないぜ。うちは甲子園には行ってないからな。中学校の同級生だよ」
「小泉っていう名字じゃなかった?」
「そうだ。なんで知ってる?」
説明を試みようとしたところで、恵子夫人が甲高い声と共にスコア・ボードの横にあるスクリーンを指差した。なんでも選手の顔に見覚えがあるらしい。
「あの人、私知ってる」彼女の声には妙な確信の響きがあった。「あの人、昔に私の友達にサインしてたの──あれは焼肉屋だったか、料亭だったか」
「どれ、どの人?」
たどたどしく選手の名が読み上げられた。僕らはどっちもよく知らない選手だった。
「そのころは二軍だったんだって」と夫人が解説を付け加えた。
「じゃあ努力が実ったんだな」そう言った弘樹の声には、なんとも言えない歯切れの悪さがあった。「それで、いつ誰がサインをもらったんだ?」
「だから私の友達だってば」
「いつのことだよ?」
「……さあ。忘れちゃった」
二人はそれきり沈黙した。騒がしい外野の声援を耳にしながら、裁判でいうところの傍聴席よろしく、三塁側席は第三者的に孤立していた。おそらくは外野席からもれてしまったのだろう、ホークスのユニフォームを着た男が、ひとりだけ場に合わず熱心な応援を手振りつきで行っていた。夫人は夫の隣でハンカチをバッグから取り出し、なにごとかをつぶやきながら、額に少し押し当てた。熱気のこもった球場では汗を掻いていない人はひとりもいなかった。
「うちの電話料金は三月から四倍に跳ね上がってる」と弘樹はうつろな声でつぶやいた。「発信元を辿ることだって、できないわけじゃなかった──でもしなかった」
それは僕からすれば真意不明ではあったにせよ、二人にとってはなにかのタブーであるらしいことが、そばにいてすぐにわかった。
恵子夫人は急に立ち上がって顔色を変え、冷たい瞳を僕と夫に向けた。そのままの状態が十秒は続いたろう、次に発せられた彼女の声には、おぞましいほどの侮蔑が込められていた。
「今日のことで、私本当によくわかった。あなたにはついていけないってことが」
弘樹は顔色を変えずに球場の一点を見つめていた。彼の筋肉が強張るのが、Tシャツ越しにわかった。
夫人はバッグを手に持って、体の向きを球場の出口に向けた。ひどく機械的な動きだった。
「今日は私、そっちには帰りませんから」
「好きにすればいい。勝手にしろ」
「さようなら」
それから僕とは一度も視線を合わさぬまま、彼女は球場の外に立ち去ってしまった。僕の方はなにかしら弁解じみたものがあるだろうと待っていたのだが、弘樹は舌打ちのようなものを繰り返すばかりで一向に話を始めようとはしなかった。それで、おそるおそるではあるにせよ、なるべく穏便に、僕の方から話を引き出すしかなかった。
「ねえ」と僕は声をひそめて言った。「いったいなにがどうしたの?」
「……ああ、わかってるよ。悪いな」と要を得ぬ言葉を告げ、弘樹はふたたび黙りこくった。おそらくは動揺で考えがまとまらなかったのだろう、彼はそのあとで少し迷ってから、僕に顔を向けた。そのとき見た弘樹の顔は、暗い怒りによって過去に例を見ぬグロテスクな陰影を作り出していた。
「別に祐二が気にすることじゃない。始めからこうなることはわかっていたようなものなんだ」
それ以上になにを言えばいいというのだろう? 僕は了承しかねたものの、仕方なく黙って肯いた。
「あいつは君になにか言ったはずだ」とはっきり彼は言った。
僕は迷いながらも、先ほど恵子夫人が言っていたことを、そのまま復唱した。
「君には愛人がいると」
彼は目をつぶって、それから大きく見開いた。
「なぜそう言ったと思う?」弘樹はもったいつけるように意味深な間を置き、無理に皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。「そう言った自分自身が浮気しているからだよ」
「まさか」
「本当だよ。おれにはよくわかるんだ……よくわかるね。谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだとき、それが確信に変わったよ」
彼は明らかに長いあいだ胸に溜めていた疑惑を打ち明けたがっていたし、この状況からして、僕がそれを聞き取ってやるしかなかった──まず第一に、彼は妻の目に常日頃からわずかな怯えがあることを感じ取っていた。帰宅して交わす最初の彼女の言葉が、喉の奥にひっかかるような感じなのだ。次々と不実の証拠が挙がるにつれ、考えもしなかった世界が今現実に起こっているのだという深い驚きのあと、彼は生涯体験したことのない悔しさに見舞われた。
「おれがどれだけそのことで苦しんだことか」彼の目は世にある全ての不幸を宿し、全身全霊で妻の不貞に立ち向かおうとする怒りに満ちていた。「そうさ、本当は結婚なんかするべきじゃなかった。あのとき、あいつと親父を引き合わせたとき、親父は一も二もなく反対した。なんだあの子はまだ全然子供じゃないかってな……でもおれはまだ若すぎて、親父が言ってることの意味もうまく呑み込めなかった。若すぎて色んなものが見えてなかったんだよ」
彼の目が同意を求めるように、若かりし人に過ちはつきものだろうと訴えかけるようにこちらに向けられたので、僕は深く肯いた。
「あれは、あいつは結局のところ、売女の性分を生まれ持ってきた女なんだよ。おれにはそれがよくわかる」弘樹は病んだ笑みを浮かべて、よくわからないことをもぞもぞとつぶやいた。「……わかりすぎて嫌になる、か……ちっとも笑えないよ」
「いつごろわかったの?」
「さあ、いつだったか……」それから彼は僕の問いかけを聞き流し、ふたたび目に怒りを宿した。「おれたちはいずれ離婚する。近いうちに」
「そうか」と僕は暗い気持ちで言った。
「俺たちも帰るとしよう。試合なんてもう見たくもない」
僕らは席を立って、ドームの外に向かって無言のまま歩き出した。彼は家まで僕を送るといったが、正直なところこの夫婦にはうんざりな気持ちにもなっていたし、電車を使って帰るからかまわないと断った。もし気を悪くさせてしまったのなら謝りたいと弘樹は言った。僕はそうじゃないんだと嘘をついて、納得させるために彼と握手をした。
「ところで、なんで小泉を知ってた? あの、甲子園に行ったおれの友達のこと」
「地元の野球クラブでいっしょだったんだよ。小学校までだけど」
「今はなにしてるって?」
「さあ」と僕は首をひねった。
そんなことより帰ってからのことを心配しなくていいものなのかと訝りながら、僕は彼の顔色を見た。先ほどよりはいくらかましな目つきで、物腰もいつもの傲慢さを取り戻しかけていた。あるいはこのとき気づいていればとのちになって僕は思ったが、そのときは戯曲的な二人のやりとりに僕自身すっかりまいってしまっていたのである。弘樹は別れる直前に、僕の肩を叩いて、「じゃあまたな!」と手を挙げた。僕も手を挙げた。
「心にはてなく!」と彼は叫んだ。どうやら僕の気を和ませようと放った言葉らしいが、こちらとしては最後まで真意のわからぬ発言である。
その夜彼らから掛かってきた電話に、僕は出なかった。今度はどんな厄介を押しつけられるのだろうと考えると、とても電話をとる気にはなれなかったのだ。しかし縁とは一度結ぶと離れがたいもので、九月半ばに、僕はふたたび夫妻のあいだでジレンマを抱えることになる。その日僕は仕事を終え、目黒にある自宅に帰るさなかで彼らの姿を目に認めた。落ち着きない彼らの態度から、二人が僕を待ち伏せしていたのだと瞬時にわかった。
「やあ。実は祐二を待っていたんだ」彼はいくぶん後ろめたそうにそわそわしながら、背後にいる夫人に一瞥を送り、咳払いして続けた。「この前言ったことについて、きちんと訂正したいと思って」
僕にはなんのことを言っているのかまったくわからなかった。後ろから圧力をかけるように、腕組みして夫人が夫の様子をきつい目で見ていた。
「おれはこう言っただろう、彼女は浮気していて、離婚するって」彼の言葉は、ぎこちなさのあまり白痴な文を読み上げるような調子になった。
「確かにそう聞いたけど」
「恵子とはあれから真剣に話をしたんだ。それで、おれがした行為というか、発言についても打ち明けたし、彼女も打ち明けてくれた」
恵子夫人は僕の方に寄って、小さく会釈のようなものをした。
「ごめんなさい」高飛車な余韻を残しつつ、彼女は言った。カラーコンタクトを外した彼女の瞳は先日とはうってかわり、頑とした漆黒を宿していた。「私が余計な混乱を招いちゃったの。その、なんていうか──」
弘樹は支えるように夫人の肩に手を置き、どう言えばいいんだろうという風に手を握ったりひらいたりした。
「まあとにかくね、おれたちはうまくやってるんだ。だからこの前言ったことを真剣に受け止めないで欲しい。周りにもそういう風に思われたくないしな。あのことは誰かに言った?」
僕は首を振って、誰かに言って得をするという話ではないから、と言った。
「もちろん疑っていたとか、そういうことじゃないんだけど」
「この人はただ、ほら、なんていうの──」夫人はあちこちに頭を振りながら表現を模索した。「そう、友達としてあなたに理解してもらいたかっただけなの。私たち夫婦のことを」
「誤解させてしまったからね」と弘樹も口を添えた。
「だから今後とも、ね……」
二人はそこで押し黙った。どうやら僕が電話に出なかったことを気にしているらしい。
「最近ちょっと仕事が忙しいんだ」と僕は言いわけした。
「そりゃそうだろう! オーケイ、時間が作れるようになったら、またうちに御飯を食べに来てくれよ」
弘樹は少し沈黙して、ゆっくりと片手を挙げた。しばらくそのままの姿勢で、絞りだすように「また電話する」と言った。でも誰もその場を動かなかった。
「そんなに気にしてないよ」と僕は言った。二人をがっかりさせたくなかったから。
それが功を奏したのか、二人は安堵したように笑みを浮かべた。それから二三言交わして、暗い街路樹の中に彼らは消えていった。まだ夏の暑さが残る夜だったので、僕はスーツ姿のまま駐車場のブロック塀に腰を下ろし、時間をかけて煙草を吸った。そうしたのは単に物をきちんと考えたかったからというものあるし、家に彼らから電話が掛かってきても出ないで済むからという考えもあった。やはりせっかく寄ったのだからいっしょに御飯でも、というようなことを平気でいい兼ねん人たちなのだ。僕は東京中を歩き回って棒のようになった足で、自宅の階段を上った。そして胸の中で思ったことを、ほとんど口にださんばかりになっていた。「愛し合いながらも、混乱せずにいられない人たちがいる。そういう人たちは往々にして、自分たちの周囲までその空騒ぎに巻き込みたがるものだ」。
その夜、僕は奇妙な物思いにとらわれながら、浅い眠りと居心地の悪い覚醒を繰り返した。幾度となく寝返りを打ったせいで紐のようになったシーツを直す気力すら起きずに、永遠に近い夜半を過ごした。そのうちに、はっきりと物を言うべきではないかという気になってきた。でも彼らに助言するにはあまりにも礼儀を逸した時間になっていたし、電話が長引くことを考えると億劫だった。ベッドの上では無数の考えが浮かび、星屑のように消えていった。結局のところ彼らの大仰な愛に比べれば、どれもこれも、そして僕自身さえもが取るに足らない代物と化してしまうのではなかろうかと、不安な気持ちになりながら。