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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

処女マリアの出産

 予定通り午後から半休をとり、マリアは病院を訪れた。実家の近くにある大学病院はいつでも活気に満ち溢れている。

 手術室の入口で滅菌シャワーを浴び、給食着みたいな完全武装でオペの様子が見通せるガラス窓に近づくと、すでに待機していた夫と両親が、期待に満ちた目をマリアに注いだ。

「もうすぐね」

「ありがとう」

 ガラスの向こうでは、四肢をパイプに括りつけられ、いまにも丸焼きにされそうな格好の雌豚が鼻をヒクヒクとうごめかしていた。無菌室にも匂いがあるのかしら、そうマリアは考えた。


 カツカツとリノリウムの床を叩く音がして、三人の男性が姿を見せた。

「本日の執刀を担当いたします。よろしくお願いいたします」

 壮年の医師が言った。神谷(かみや)という名前で、この病院で一番の執刀医だった。

「よろしくお願いします」

 少し蒼褪めた顔の青年が頭を下げた。金木(かねき)は、大学院時代に関西の大学院で再生医療の権威に学んでいたことがあるのだと聞いている。

「このたびは、おめでとうございます」

 老人がにこりと微笑んだ。マリアは彼とは初対面だった。

去野(さるの)と申します。この研究は私の長年の夢でしてな」

 三人はもう一度会釈をすると、揃って手術室へ入っていった。


 ガラス窓に顔を押しつけんばかりにして様子を眺めているマリアの手を、そっと温かいものが包んだ。彼女は顔をあげ、自分の手を握る夫を見つめた。

 大丈夫だよ、夫の表情は、そうマリアに語りかけてくる。マリアが仕事で行き詰まりいっそ辞めてしまおうかと思ったときも、プロポーズを受けたマリアが幼少時に経験した事故と手術で摘出してしまった臓器のことを打ち明けたときにも、心無い親族がよりによって結婚式の最中に呟いた言葉を耳にしてしまったときにも、彼はいつだってマリアを受け入れてくれた。マリアは頷いて視線を手術室に向ける。

 生命を守るためとはいえ、壊れて使い物にならなくなってしまったとはいえ、マリアはあのときの執刀医を心から憎んでいた。執刀医の説明で両親が泣き崩れ、何が起こったかは理解できなくてもことの重大さは悟ったとき、医師はマリアの頭に手を添えて優しく言った。「科学は日々進歩しているんだ。お譲ちゃんのハンディだって、いつか克服できる日が来る。克服してみせる」

 今日、マリアの細胞から作られた彼女の(・・・)子宮と卵子とをもつ雌豚が、マリアと夫との子供を出産する。この日のために夫には、自身の性機能は正常なのにも関わらず、一人で不妊治療のようなことをさせてしまった。しかし、これでマリアが三十年近く抱えてきたコンプレックスともようやくお別れだ。


 麻酔を打たれておとなしくなった雌豚の腹部にメスが入る。執刀する神谷の汗を、金木が拭いている。少し離れたところで見ている去野も汗を拭き、その拍子に帽子がずれて束ねた白い長髪が目に入った。首の後ろで束ねた、肩まで届く髪。マリアの両耳の間を稲妻が駆け抜けた。あの髪型には見覚えがある。三十年前には白髪なんて一本もなかったけれど。

「ああ、出てきたよ」

 夫の声が震えている。息も絶え絶えの雌豚の腹から、申し訳程度に灰色の髪を纏った小さい嬰児が取り出される。顔を拭かれた息子は苦しそうな表情で矢継ぎ早に三度息を吸ってから、頼りない産声を上げた。マリアの目から、涙がこぼれた。

「おめでとう、マリア」

「あなた、おめでとう」

「マリア、よかったわね」

 いつの間にか背中から両親の体温が伝わってきていた。マリアの心に、温かい感情が広がっていく。


「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」

 手術室から出てきた神谷が言った。金木は保育器に眠る嬰児を一堂に見せた後、新生児室へと連れて行った。

「この後は、一週間ほどこちらで経過を見ます。問題がないようであれば、来週からはご自宅のほうで生活できるでしょう」

「わかりました。会社には来週から育児休暇をとると伝えてあります」

 夫は事務的な話のために神谷についていき、両親は新生児室へと歩いていく。

 手術室の前には、マリアと去野だけが残された。

「この子は、子供を産めずに苦しむ多くの女性の福音になることでしょう」

 去野が穏やかな表情で語りかけてきた。優しい口調は、あの日と変わらない。

 マリアは深々と頭を下げた。科学の進歩と、約束を忘れないでいてくれた、あの日の医師のために。

「先生。わたし、今日まで生きてきて本当に良かったです」

 老医師はハッと目を見開いた。その乾いた頬を涙が伝っていくのを、マリアは静かに見つめていた。


初投稿作品です。

お読みいただきありがとうございました。

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