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そなたの空

作者: 高沢りえ




別れの御櫛を額髪にたまわったとき、それがわかったのだ。

この世のだれも、おそれおおくも天皇たる父君ですらも、この私を愛しく思ってはくださらないのだと。

御衣から香ってくる懐かしくも慕わしい香り。櫛をさしのべるお手は震えていらした。伊勢にゆけば、きっとこうして父君のそばに侍ることはできまい。そっと伏せた目を上げて、父君をみつめたとき。私のまなざしに気づいた父君の目は、忌まわしいものを見るようにかげり、あっという間に背けられた。

櫛が髪から抜け落ちて、ひざのうえに落ち、儀式の静寂はやぶられた。 

口をつぐんで息すらころしていた人々は、父と娘の別れにふさわしくない不慮のできごとに、ざわめき始めた。

櫛を落とすは不吉なことだ。吉事に吉事をかさねたこの日には、これほどふさわしくないこともないというのに。

(お父様は、私を手放してもすこしも悲しまれないわ)

三年の潔斎のあと、父君にまみえたあの日。

さめた瞳をみつめた瞬間に、わかったことがある。

斎王など、気に入らぬ娘をていよく遠ざけるための口実なのだ。

(なんのために私はここにいるのだろう)

神への祈りも、私が捧げれば汚れたものになるだろう。

父の子として生まれながら、私は両親のどちらにもにていない。母は物静かで病がちな方だったが、六年前に亡くなる間際、私に若かりしころの秘密の恋を打ち明けたのだ。

はたしてそれは、父君の知るところとなった。

どれほど心細い思いをしたのか、自分のことながら、もう思い出せない。父君の醒めた目が、私を通して亡き母を責め続けているのにも気づいていた。責めずには、いられなかったのだろうと、今ならそう思える。

 私も、誰かをなじることができるなら、喜んでその者を憎んだだろうから。

なぜ母は打ち明けたのだろう。

いたずらに此岸に残った私たちを苦しめるとわかっていたはずなのに。

なぜ。思いはいつも、そこへかえって行く。


 伊勢の御座へ行くのは、年に三度ほど。

そのほかは、ほどちかいここ斎宮で、私は都にいたときとなんら変わらぬ日々を過ごす。ただ、ここにあること。それだけが、私に課せられた役目だ。

「役目・・・・・・」

ため息がもれた。

周りの者たちは、斎王として私を敬いあがめる。

けれど、私自身が私を認めきることなど、一度だってできたためしがない。

たとえば、この衣を使い童に着せかけて、扇を持たせたらば。御簾のうちに座らせたなら。誰が私の不在に気づくだろう。

たまらなく息苦しかった。

じっとしていたら、物狂おしく叫びだしそうだった。

重たい衣を脱ぎ落とし、白い小袖と袴一つになる。

髪をくくって顔を上げると、私は御簾の外へしずかにすべり出た。


身が軽い。庭に降りて、思い思いに咲き出した花々を眺めた。

心も軽い。日々の憂いがどこかへ消えていくようだった。

花はみな、美しい。どんな小さな花だとて、咲くことになにひとつ疑いはいだくまい。咲きたいから、ただあるように、花は咲くのだ。

うらやましいと、そう素直に思った。

昼なおうす暗い室の中、ひたすら時を費やすための手慰みに興じるのにはあきあきしていた。

庭に注ぐ小川のほとり、黄色も鮮やかな菖蒲が目についた。斜面に咲くので、手が届かない。

「そこなる」

通りかかった者に声をかけると、衛士が一人駆けてきた。

呼んでおいて、私はたいそうあわてた。

斎王たるもの、なにかものを言うときは、人を通して伝えなければならない。なのに、男との間に私を隠す御簾はないし、扇もない。そのうえ、下々の者のようなはだか姿ときている。

「何か」

はつらつとした声が、肌をぶつようだった。

若い男の声とは、このようなものなのか。

私は袖で顔をかくし、うらがえった声で言った。

「菖蒲を」

男は怪訝そうに唇をちょっとゆがめたが、すぐに一本つんで私の前に差し出した。遠くから見ていたときは、楚々として清げだったが、男が捧げ持つとそのまっすぐな花の茎が剣のようにも見えて、少しおそろしくさえ思われるのがふしぎだった。

「さあ、おとりなさい」

いくらか砕けた物言いを、いやだとも感じなかった。

男は、きっと取りたいものをあんなふうに身軽に掴んでくることができるのだろう。細身でありながら、たくましい腕と脚をしている。こちらに礼をつくしながらも、じっと息をころして目を光らせているような、御しがたい強さがある風貌に、私はひかれたのだ。気づくと、こう口にしていた。

「遠くへ行きたいのです」

「なんとおっしゃいましたか?」

男は、私の顔をのぞきこんだ。はっきりとした濃い眉と、明るい瞳。これほど、遠慮なくまっすぐに誰かに見つめられたことなど、今まで一度とてなかった。

「私を、ここから連れて行くことができますか」

「できるか、できぬかといえば、できます」

 聞いておきながら、私はただ呆然として、男をみつめた。

「おれも同じ事を考えていたところです。斎の御方にお仕えする役目が終わるのが待ち遠しいと。それが、今日ならどんなにいいかと」

男は、私をみつめて笑った。そのとき、胸がひとつ大きく鳴ったのだ。私は息をのみ、うつむいた。

男は、私が斎王だなどとは、夢にも思わないに違いない。

そのことが今はうれしくすらあった。

「どうなさった」

大きな日に焼けた手が、私の腕にそっと触れた。身を引こうとしたが、足に力が入らない。私は地面に尻餅をついてしまった。

「やあ、大変だ」

私はあっという間に抱き上げられた。悲鳴ものどの奥で凍りつくようだ。私の体に見知らぬ男が触れるなど、今までも、これからもあってはならないはずだった。

「どこへお連れすればいいか。お見かけしたところ、御方のおつきの女人かな」

「どうして……そう思うの、ですか」

小さな声で聞き返すと、男は笑った。

「衛士が口をきける侍女といえば、飯炊きか、はしためです。ここには二年はおりますが、あなたのような方は存じ上げない」

「私は、炊飯場の者です」

男は杉の木立のもとで歩みを止めて、じっと私を見下ろした。その瞳のなかに、言いしれぬ、何かおそろしいものを見たような気がして、私は息をのんだ。

「滅多なことはおっしゃらないことだ」

笑みを消して、男は鼻で笑った。

「あそこのの子らは、見知らぬ男に遠くへ連れて行けとねだったりはいたしません。そのう、もの知らぬおとめは、一人もおりませんので」

「ものを知らぬおとめだと、都合が悪いのですか」

男は肩をゆらして笑った。

「はい。たいそう都合が悪いのです」

私を本殿へと続く廊のところに降ろすと、男は帯に挟んでいた菖蒲を私の朱の袴にそっとのせた。浅黒い手が、ひざを撫でたと思ったのは、気のせいだったのか。

ひどく真剣な、でもどこか惑いを刻んだような瞳に見下ろされた一瞬、身がやかれるような思いがしたのは、気のせいなのか。

「じきにどなたか通るでしょう」

人気のたえた廊の片隅で、私は立ち去ろうとする人を必死に呼び止めた。

「そなたの故郷は、どんなところです」

男は振り返りもしなかった。ただ、聞いたことのないふしぎな節回しの歌を、うたいながら垣根の向こうにきえてしまった。


ひたえの ひさこの、南風ふけば北になびき・・・・・・


おかしな歌だった。酒つぼに浮かんだひさこが、風が吹くたびくるくる回る。ひさこは自分の向きたいところを向けないのだ。

(まあ、人というのは、ひさこと同じだわ)

何一つ思い通りにならない。だれかの思惑にしたがって、右へ左へ向かされて、最後には見向きもされないしかばねになる。

私は知らないうちに、ずいぶん楽しい気持ちになっていることに気づいた。こんないい気分は、久方ぶりだ。

楽しくて、それなのにどこか悲しかった。

「遠くへ、どこか、遠くへ」

そう男に願ったのは、思いつきなどではなく、私の本心だった。

かしずかれる暮らしなど、捨ててもかまわない。ゆっくりと、ゆっくりと息を止められるような心地で生きていくくらいならば。

私は、唇をかみしめた。

「見てみたい」

ここではない、どこかの空を。

私はよろけながら、立ち上がった。どこからそんな力がわき出たのか、私は息をきらしながら、つまづきながらも走り出した。

「ひさこのお方、お待ちください」

のんびりと歩いていた男の背中に追いつくと、私は髪を乱したまま、一息に言った。

「そなたの故郷の空は、どんなふうです。人々は、笑っていますか。そなたに、たれか待つ人はありますか」

都とくらべて、この辺りは山深く、緑も濃く目を刺すようだ。

 男はしじまのなかで、ゆっくりと言った。

「待つ人は老いた父母くらいです。おれの故郷のことは、お話しできません。ことわけを上手くできるか自信がないのです。あなたにこんなものか、つまらぬと思われるのもいやですし」

「なら、連れて行きなさい」

私は、生まれて初めて、自分が心から望むことを命じた。

「連れて行って。そなたの故郷の空がみたい。そなたと共に行きたいの」

「いけません。あなたは本当に、ものを知らないおとめだ」

 男はあきれたように肩をすくめた。

「わたしと逃げて、どうなります。そんなことをすれば、厳罰です。生きて故郷へは帰れません。それに、ここより良い暮らしなど、逆立ちしてもできませんよ」

「それでも」

私はもうすでに、はだかだ。重たい装束を脱ぎ捨て、肌着姿をこうしてさらしている。

良い暮らしというものが、決まり事に縛られ、小さな箱に窮屈に押し込められることならば。せめて、死ぬときくらいは広い広い空を見てみたい。

亡くなった母のことが思われた。生まれてから、何ひとつ自分で決めることを許されなかった母は、一度だけ、恋に身を焦がすことでわが身を取り戻そうとしたのではないのか。

広い空を、恋人に抱かれながら夢見たのではないのか。

男は私の頬に手を伸ばした。

「泣くほどお勤めがつらいのですか」

あとからあとから涙がこぼれて、あごを伝い落ちた。

私は正直に言った。

「心からお仕えしたことなど、一度とてありませんでした。いつも、どこかへ帰りたかった。そうでなければ、消えてしまいたかったの」

男はため息をはいた。それから、乱暴に私の肩をつかみ、怖い声でうなるように言った。

「おれが人攫いなら、あなたをだまして売り払うだろう。おれに身を任せるとは、そういうことだ。何をされても文句は言えないのだぞ」

鼻先がもうふれあうほど、息が通い合う近さで、私は男をにらんだ。

「人攫いは、あんなのんきな歌はうたいません」

宮の衛士に身元の不確かな者はいないということもわかっている。男はとほうにくれたように私を見たものの、じきに渋面をくずして歯をみせて笑った。

「負けましたよ」

私は、酷な願いをしたのだ。もしみつかれば、男はただではすむまい。それだのに、男は花見の供でもするかのように、気安く請け負ったのだった。男の広い背におぶわれたとき。


私は、さいごの衣一枚も脱ぎ捨てて、ただの娘になったのだ。

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