はじめての友だち
ホムンクルスの視点になります。
「これ、弾いてみる?」
ピアノを凝視している年長の少年の背中を、倫太郎が明るく、押した。
昨日の吹雪は、朝には、輝く白銀の世界を残して、去っていた。
昨夜の、現実とは到底思えない光景を、大人も子供も、頭の中で整理して、翌日を迎えていた。
少年は、ロジャーのものらしい大きめのセーターとジーンズ姿で、食卓に現れた。
昨夜の弱りきっていたようすは、嘘のようで、ごく自然に歩いている。
テーブルについた少年は、ホムンクルス――ひとならざるものだと聞いていても、どこにも不自然なところはない。
ただの、十六、七ほどの少年にしか見えない。
「………」
倫太郎とピアノとを見比べて、少年が、はじめて口を開いた。
「チェンバロ?」
「ピアノだよ」
倫太郎のことばに、
「ピアノもチェンバロも似たようなものだと思いますよ。これが、Cで、DEFGAB――わかりますか?」
貴之の指が鍵盤の上を一オクターブだけ駆け抜ける。
所在無げで不安そうに怯えている少年に、倫太郎と貴之とが手を差し伸べる。
そんな彼らを、和泉一生が、離れたところから見ている。
(多分、彼は、ホムンクルスを見張ってるのだと思うんですけどね)
貴之が、そっと、肩を竦めた。
少年の心許なさげなようすは、倫太郎でなくても、憐れに思ってしまう。
ロジャーとダニエル、それに、若槻は、別の部屋にいる。若槻が、ダニエルの診断をしているはずである。
ロジャーの願いは、ダニエルの、治癒以外にない。
複雑繊細な神経系に関することなだけに、若槻も、慎重にならざるをえないのだろう。
本当は、貴之も、術を施すところをみてみたい気があるのだ。が、外科医療と錬金術的措置の違いが昨夜のようなものであるのなら、外科医への志が音をたてて崩れそうで、やめたほうがいいと警鐘が鳴っているのだった。
食事を終えた後も手持ち無沙汰そうで戸惑っている風情の少年を、ふたりは居間に案内した。
少年の表情が、ピアノを見た途端、少しほころんだような気がして、それで、倫太郎は、促してみたのだった。
ポンと、キィが、音をたてる。
つづけざまに少年がキィを叩く。
主旋律だけのそれに、オヤ? ―――と、倫太郎と貴之とが、顔を見交わした。
「それ、夜に香る星々の宴だね」
昨夜、若槻が弾いてた曲である。
「題はつけなかった。オレが作った曲だ」
ふたりの目が、見開かれる。
「作曲できるんだ。凄いね。ぼく、音楽って、駄目なんだよな」
「音譜見ただけで、す~ぐ眠っちゃうんですよね、倫太郎くんは」
「どうせっ! ぼくはどうせ一条みたく器用じゃないもん」
「外科医の卵が不器用ではちょっと問題ありますからね」
これでも努力はしているんですよ――と、倫太郎の膨らませた頬を、一条の人差し指が、つつく。
「作曲できたのはこれだけ。オレにできるのは、所詮楽器を弾くくらいだ。そんなことなら、オートマタ(自動人形)にもできる。どうせ、オレなんか、オルゴールの小鳥と変わらないんだ」
「そんなことないよっ」
「そうですよ」
寂しげで投げやりな少年のつぶやきに、ふたりはおもむろに、反論していた。
「あなたは、本当に、生きているじゃないですか」
「そうだよ。ちゃんと、生きてる。自分で考えてるし、一曲だけだって言ったって、あんな綺麗な曲を作ったんだよ。何で、そんな淋しいこと言うんだよ」
「だって、オレは、人間じゃない。あいつが気まぐれで創った、ホムンクルスなんだ」
少年の下瞼にたまった涙が、耐え切れずに、転がり落ちる。
「どこも、ぼくらと変わらない」
「死なないし、成長しないのに?」
「そんなこと。羨ましがる人間が掃いて捨てるくらいいますよ」
「不老不死って、憧れちゃうもんね」
「おや、倫太郎くんにそんな願いがあったんですか? 知りませんでしたよ」
「ちがうって! 時々かあさんが、鏡見て溜め息ついてるからさ。皺が増えたとか、張りがなくなったとか、白髪ができたーとかさ」
おどける倫太郎に、貴之が笑う。
「そんなこと、個性だって思えばいいんだ」
個性?
少年が、思いもよらぬことばを聞いたと、目を見開いた。
「でも………物珍しそうに、ずっと見られてた。神の手で創られたものじゃないって理由で、変な目で見られてたんだ」
「だって、ぼくは気になんないもん。一条もだろ?」
「ええ。まぁ、気にはなりませんね」
「なんで………」
あっけらかんと言い切るふたりに、少年が呆然となる。
「なんでって、ふつうと違うって言うんなら、ぼくと一条だって、違うって言われてきたからさ」
「そうですね。僕には、倫太郎くんが現われてくれましたから、あまり気にならなくなりましたけど」
「うん。ぼくも。一条とともだちになってから、まわりが気にならなくなったよ」
「ともだち?」
「いなかった?」
しばしの沈黙の後に、少年が、首を縦に振った。
「ひとりもですか?」
「いなかった」
館から、出ることはなかった。せいぜい、来客を出迎えるくらいだったのだ。珍しそうに近づいてきた者はいた。けれど、しょせん、それは、学術的な見地からとか、見世物を見るような興味本位の視線ばかりでしかなかった。
そんな視線と目を合わせることが辛くて、少年は、いつだって、ただ、うつむくばかりだったのだ。
少年がポツリともらしたかつての姿は、倫太郎と貴之とにも重なるものだった。
「ぼくたちが友達になったげるよ」
「そうですね」
だから、それは、ふたりの本心からのものだったのだ。
「でも………」
「きらい?」
「いやですか?」
思いもよらない展開だった。
視線は、自然、若槻の秘書だという男に向かう。
ふたりが口にした“友だち”――ということばは、とてもあったかい気分になれて、嬉しかった。なれたら、どんなにいいだろう。そう、思う。
しかし、―――勝手なことをして、告げ口をされたら。
そんな不安があった。
男を窺う視線の先に、男の細い目がある。
こちらを見てにやりと笑うその表情に、背筋が、凍りつくかの錯覚があった。
それでも、倫太郎という名前らしい年下の男の子の期待に満ちた瞳を見て、拒絶するのは、難しい。
貴之という少年の、おそらくは同情だろう視線に、なぜか、不快は感じなかった。
だから、
「オレなんかでも、いいのかな?」
そう、口走っていたのだ。
それからの時間は楽しかった。
ふたりと、いろんなゲームをして遊んだ。
少年は、生まれて初めて、笑ったような気がした。
視界の隅にいる男は気になった。しかし、初めて得た友だちという存在が、くすぐったくて、あたたかくて、手放したくなかったのだ。
「ほら、そんなところに置いたら、すぐに倫太郎くんにチェックメイトされちゃいますよ」
そう貴之に指摘されて、少年は、首を傾げる。
眉間に皺を寄せるものの、わからない。
「だから、苦手だって」
「じゃあ、代わりましょうか?」
「たのむ」
「あ、せこい!」
そんなこと言われても……。
つい、へらりと笑ってしまう。
ふたりのゲームを見ていて、頭が混乱する。
何手も先のことなんか、読めない。
目先のコマの動きで、精一杯なのだ。たいてい、多分向こうはこう打つだろうなぁと思っている通りに、打たれる。予測していても、避ける算段を思いつけないのだ。
冷め切っている紅茶を飲みながら、ふたりを眺める。
パチパチと火が燃えている暖炉が、嬉しい。
あたたかい………。
昨日までの苦痛が嘘のようだった。
眠い。
いつの間にか、少年は、舟をこいでいたらしい。
ざわざわと、耳をくすぐるようなざわめきに、我に返った。
数名の男が、居間に入ってくるところだった。
背中が、引き攣れるかのような錯覚に、顔が、強張る。
和やかな雰囲気を漂わせているのは、あれは―――――
目の隅で影になっていた男が、ソファから立ち上がり、支配者に、近づいてゆく。
なにか耳打ちされ、支配者の視線が、こちらを向いた。
黒い、闇のような目が、凝然と、据えられる。
全身が、大きく、震えた。
自分は、ホムンクルスなのだと、異質なのだと、痛いくらいに、視線ひとつで思い知らされる気がする。
見たものを石にするという伝説の元女神の一瞥を受けたかのように、少年は動くことすら忘れていた。
と、
「あっ、ラクランさん」
倫太郎の声がきっかけとなって、貴之も立ち上がる。ふたりは、彼らのところへと歩いてゆく。
行こう――と、促されたものの、少年は、動けなかった。
車椅子に乗っているものの、青年の表情は明るい。おそらくは、成功したのだろう。照れたように、笑っている。隣の、青年の恋人だという男も、晴れやかだ。憂いが取り払われた後の、羨ましいくらい清々しい表情をしている。
今は若槻と名乗っている支配者が、なにかを、彼らに話した。そうして、すっと、彼らの輪から離れた。
若槻が、近づいてくる。
少年の手が、ラグの長い毛足を、掻き毟るように握りしめた。
目の前にしゃがみこんだ若槻に、少年は、戸惑いを隠せない。
伸ばされた掌に、思わず、目を閉じ肩を竦めた。
頬で爆ぜると、そう思った熱は、襲ってこなかった。代わりに、ひんやりと冷たい感触が、頬に触れた。
ゆっくりと開いた目の前で、若槻が、うっすらと笑んでいる。
いつか、生まれ出る前のまどろみの中で見たことがあるような、穏やかなものだった。
「友だちができたそうだな」
かすかに、うなづく。
「そうか。しばらく、遊んでもらっているといい」
思いもよらなかったことばにあっけに取られている少年を見下ろし、
「疲れたから、しばらく、眠る」
そう言って立ち上がった若槻は、居間から出て行った。
―――――記憶にある若槻は、あんなに穏やかなところなど、なかった。
かつて、自分の唯一の創造主だと、力任せに自分を支配しようとしていた男の変化に、少年は戸惑わずにいられない。
泣き叫ぼうと、嫌がろうと、苦痛を訴えても、なにをしても聞き入れてはくれなかった。
だから、告発した。
館に宿泊していた、異端審問官に。
密告したといってもいい。
それは、裏切りだったのかもしれない。
けれど、囲い込まれて逃げ場のない自分には、そうするより術がなかったのだ。
人間ではない自分が、自分の創造主を魔女だと、密告する。それは、皮肉以外ではなかったろう。
数日後の、阿鼻叫喚を、少年は、覚えている。
しかし、若槻は、逃げたのか。
逃げ切ったのか。
少年の表情が、なんともいえない色を刷いた。
「どうしたの?」
倫太郎の声に、少年は、我に返った。
「飲む?」
差し出されたコップの中、あたたかそうな褐色の液体に、白いクリームのようなものが螺旋を描いている。
「あ、ありがとう」
鼻をくすぐるのは、香ばしい匂いだった。
とろりと甘苦く濃厚な味が、口の中に広がった。
「ココアだよ」
美味しいだろ。
そういうのに、
「ああ」
少年は、呻くように答えていた。




