7:「エストニア侯爵」の巻
3日ぶりに執務室に出向いたアルを待っていたのは、山のような書類と、執務官ロベルトの渋い顔だった。
時々、皇帝のアルは執務に飽きると、ロベルトの監視を掻い潜り、城外へ忍びに行く。今回も円卓会議に出席した後、執務に戻る道、「5日ほど留守にする」と突然言い放った。慌てて、予定を見ると、重要な会議や謁見などはなく、代役で済ませられるものばかりだった。そこは彼も念頭にあるようだが、いつ何時なにが起こるか分からない。今回はロベルトに口頭で伝えたが、酷いときは、何も言わず出ていくこともある。本人曰く「伝える時間がもったいない」らしいのだが。
護衛も付けず、一人で出掛けるその所業に、もっと自覚を持ってほしいとロベルトはいつも頭を悩ませている。
「予定より、お早いお帰りで、何よりでございます」
軽い厭味を交えた彼の言い草はいつもの事なので、アルは気にせず、軽く頷き席に着いた。
ロベルトは、アルが小さい頃からの付き合いで、まるで本当の兄弟のように育った。それ故、アルはロベルトに頭が上がらない。
たった2歳しか違わない筈なのだが、時々彼が30過ぎに見えてしまう時がある。
アルにとって唯一、ただ一人の頼れる人物なのかもしれない、と考えながら緊急の書類を手に取る。
南西に位置するエストニア領で、不審な死が相次いでいるので、捜査をしてくれというものだった。
2枚目の書類には、担当の割り振りが既に決められていた。ロベルトが決めたであろうそれらを、軽くチェックすると、アルはサインをした。
そしてそれを、棚の前で調べ物をしているロベルトに、直接手渡す。ロベルトは一礼をすると、部屋から出て行った。
次の書類の内容は、堤防が決壊し、川が氾濫した報告だった。橋の補修が早急に必要だとの訴えだ。アルは、その金額と橋の規模を鑑みて、さらさらとサインをした。問題は見当たらなかった。
ふと、脇にある書類を見る。報告書だ。作成された日付は一昨日のもの。
黒髪のアビス―――。
彼女もまた、黒髪だった。
黒髪黒目の人物は確かに珍しいが、まったくいないという訳ではない。だから、彼女がアビスである、とは言い切れない。なのに、彼女こそがアビスであって欲しいと願っている自分に気付いたアルは、ぐっと眉を顰めると、かぶりを振った。
「期待してはいけない。裏切られるだけだ」
戒めの言葉を呟き、アルは吐息をついた。まるで、呪いだ。
昼過ぎには、山のようにあった書類も、ほとんどが消化され、残りあと数枚になっていた。しかし、半分以上は要再考のものだった。明日には、またこの書類が舞い戻ってくるのだろう。思わずため息が出そうになる。アルはそれをごまかすように、軽く伸びをすると立ち上がった。そのタイミングで、ロベルトが入室する。
「お昼はどうなさいますか?こちらで?」
「いや、中庭で食べる。今日は天気が良い」
◆ ◆ ◆
中庭はシャーレイポピーの花が、咲き乱れていた。セージの花も顔を覗かせている。その花々を楽しむ間もなく、アルは早々に昼食を終えた。
その後ろ姿に、ロベルトは声をかける。
「どちらへ? 執務室は反対側ですよ」
アルは、じとりとロベルトを睨んだ。
「少し、体を動かしてくる。三時までには戻る」
そう言い放ったアルに、渡り通路から声がかかる。叔父のブライム公爵だ。
「やあ、アルフレッド。久しぶりだな」
「叔父上。そうですね、2ヶ月ぶりでしょうか」
二人が挨拶を交わすと、それまでブライム公爵と共にいた壮年の男は、軽く会釈をして去っていった。アルも会釈をしつつ、叔父に目で窺った。
「ああ、エストニア侯爵だ」
その言葉にアルは瞑目した。その後姿は以前見た時よりも、随分と細くなったように思う。
「最近、娘のリリー嬢の病状が思わしくないそうなんだよ。看病疲れの様子でね、今日は息抜きも兼ねて、久々にこちらに誘ってみたんだがね」
叔父と言葉を交わしながら、今朝方の書類を思い返していた。
◆ ◆ ◆
第四鍛錬場の中、1時間程の打ち合いを終え、汗を流したアルに、近衛第三騎士隊「赤の砂塵」隊長であるフライが、彼もまた大量の汗を流し、それを片手でぬぐいながら言った。
「で、なーんで髪切っちまったんだ? こーんなに長かったのによ」
フライは手を自分の膝にあててみせた。その様にアルは珍しく口元に笑みをみせ言った。
「そんなに長くなかった。せいぜい腰までだったろ」
「あぁ、んだっけ? ま、どっちでもいいや、長かったことには変わりない。女官たちがお前のその短かい髪見て、キャーもったいないって嘆いてたぜ」
フライは、アルの日に焼け、やや赤み掛かった金色の髪を見やる。
「お前に短いといわれるのは、心外だな」
フライはツンツンとたった赤髪を、自身の手で軽く掻きまぜながら、
「いや、俺はずっとこの長さだし」
風呂浴びても、すぐ乾くから楽だぞ、と言った。アルはそれに同意を返す。
「前の髪は乾くまで3時間は掛かったが、今の髪型は30分もあれば乾く。確かに楽だ」
「3時間って、ひょえ~、俺マジ無理。乾く前に寝ちまうな、絶対」
フライとは学生以来の友人だ。歯に裏着せず話す彼に、アルは何度助けられたかしれない。学生時代はよく、フライとサミエルと、三人でよくつるんで遊んでいた。学生半ばで開戦し、互いに辛い思いを味わい、早く大人になってしまったような気がする。
アルが自信を持って友人と呼べるのは、フライとサミエル、この二人なのだと改めて思う。
「エストニア領の事、任せた」
今朝の書類には、第三騎士団が調査に向かう旨が書かれていた。
「おう、任せろ。まずはアジの街行って、それからコージドカレンに飛ぶわ」
「何かあったら、遠慮なく呼べよ」
その言葉に、フライは、
「だー、任せろって言ったろ!」
と、アルの背中を強く叩いた。その強さにアルは咳き込んだ。
◆ ◆ ◆
エストニア侯爵は、公爵との会談後、領内の自分の館へと馬を走らせていた。
我が館の見慣れた門をくぐり、左手に広がる湖を眺めつつ、玄関前で馬から降りる。馬番に手綱を渡すと、侯爵は、執事が開けた玄関の扉の中に入った。
「おかえりなさいませ」
執事の声に軽く頷き、彼女の姿が目に飛び込んできた。
「おかえりなさいませ」
可憐な姿のその娘に、侯爵は頬を緩め、彼女のその豊かなカナリー色の髪をすくいあげた。
「ああ、ただいま。リリー」