第85話 萌黄2-本物を目の当たりにして—
「アゥマ馬鹿なのは否定しないけど、無茶するに決まってるじゃない」
蒼はこみあげてくる感情と涙を堪えて、紅の胸をとんと叩いた。打ち付けた右手はひどく震えている。
目の前で戸惑っている紅は本当にわかっていないと、蒼は唇を噛む。
「丸二日も紅が戻ってこないんだから! お兄ちゃんがこんな状況で無断外泊するわけないから、何かあったと思うに決まってるじゃん! 蒼のこと何だと思ってるのさ!」
蒼の牡丹色の瞳には、色を薄めるくらい涙がたまっている。涙は、紅を睨みあげる目の表面でたゆたみながらも、決して零れない。
「蒼の無茶が空回りする可能性だってあっただろ? だって――」
紅はこの数日、用意していた答えを言葉にしようと口を開いた。オレにも付き合いがあるとか、任務だとか色々考え抜いた返答だ。苦しいのは重々承知だが、大抵蒼はこれで唇を尖らすくらいで見逃してくれる。
けれど、それは涙混じりの声に妨げられた。
「空振りならそれでいい。でも、私だけじゃなくってみんなが、紅が危ない目にあってるって確信があった! バカバカ! 紅が思ってるより、紅を心配している人はいるんだからね!」
きっぱりと言い切った後、珍しく蒼の方が呆れたように溜息をついた。
肺から全部息を吐き出し、どこから疲労感さえ感じさせる様子だ。十六歳の少女から出たとは思えない重さをはらんでいた。
「そりゃね、普段だったら飲み会で盛り上がってるんだと思うかもだよ。でも、いくらなんでもおじいが仕事で調査に出たり、私が萌黄さんをやけどさせた件があったり、紅が魔道府の仕事を受けているっぽい時だもの」
腕を組んでいる姿はまるで子どもを叱る母親のような貫禄さえある。
紅は何度か口を動かした後、諦めて首を垂れた。
「……ごもっともです」
「わかればよろしい。それにね、溜まり渡りするために、魔道府や蘇芳様が壱の溜まりの流れを一時的に止めてくれてたの」
蒼の言葉に紅の表情が引き締まった。そんな兄に、蒼は苦笑を浮かべるしかない。
真面目な紅は感情を押し込めることは上手くとも、その場限りで誤魔化すのはとても下手なのだ。
(紺君ならこんな局面になっても『ほぅ。蘇芳もたまには役に立ちますね』とか『いやぁ、私はそこまで重宝されているのだと身が引き締まる思いです』とか胡散臭い笑顔で交わしたんだろうなぁ)
蒼が口にすれば、紅は苦悶の表情を浮かべるだろう。色んな意味で。だから心の中だけでとどめておくことにした。
「そうか。ごめんな」
一方、壱の溜まりの流れが一時的に止められたという現実を深く受け止めている紅は、妹の思考には珍しく気が付かない。
ただ、紅は蒼に負担をかけたと反省するだけだ。
(ある程度予想の範囲ではあったけれど、わずかな時間とはいえ国を流れるアゥマの本流を止めていたなんて)
紅は息を飲んだ。
穢れがほとんどない世の中になったとはいえ、それはアゥマが常に存在するからこそだ。特にクコ皇国は豊かなアゥマを含んだ川が国中を流れていることによって、常に空気ごと浄化されているようなものだ。
「本来なら壱の溜まりに入ることが許されるのは原則歴代の皇帝と正妃、それと宰相だけだ」
「うむ」
どこか傍観の立場をとっている麒淵が肯定の言葉を発した。
そうして察しの良い紅は改めて確信を得た。麒淵はすべてを承知しているのだと。それは紅よりも断然情報量が少ない蒼も同じだった。
(わかってる。おじいと同じで言えない事情があったって。でも、それでも自分の無力を痛感するのと同時、やっぱり、隣に立てないことに悔しくなって、おじいや麒淵の心中を察せなかった自分が許せない)
蒼と紅は鏡映しの想いで歯を食いしばった。
先に我に返ったのは紅だった。まだ切れたままの口の端を拭うと、痛みで現状を思い出せた。
「百歩譲ってアゥマを取り扱う国の最高機関の魔道府長官ともかく、いくら蘇芳様が皇子とはいえ本流を止めるなんてこと……」
いくら有能で人望があるとはいえ、蘇芳は第五皇子だ。政に無関心な皇太子が近年まで周遊に出て、後継者の名が高かった第二皇子が亡くなっているとはいえ。
第三皇子も第四皇子も、後継者争いに積極的なのは市井でも有名な話だ。それぞれ、武道府や神祇府という国の要部門の重役に就いている。
「うん。よっぽど緊急事態か、他の皇族には任せられない状況ってことだよね。いくら私でも、単に紅救出のために手助けしてくれたわけじゃないのは予想できるよ。だから、きっとこれからが本番だ」
頼もしく頷いた蒼を見つめてくる紅の視線は、複雑だと言わんばかりだ。
(ここまで来て、ほんとに甘い――ううん。怖がりなんだから)
紅は元から両親にも祖父にも全力で甘える人間ではなかった。ただ、昔の紺樹には精神的にも信頼面でも全面的に向き合っている気がしていた。
それが崩れて以来、紅は一層あの日の影をどこかに背負っている気がしていた。ずっと。
「だれしも、怖いのだ」
麒淵は相棒の心を代弁して、ささやく。
祝詞のような音に蒼も紅も、そして萌黄も麒淵を見つめていた。
「恐れを抱いて生きている。命あるものは」
麒淵はいつもより薄い色の瞳をだれに向けるともなしに、けれどしっかりとした口調で呟いた。
しんと空気が鳴る。
しばらくの沈黙が続いた後、麒淵は蒼と紅に向き直った。射貫くような強さがある眼差しは、とても冷たい。先ほどの感情豊かな言葉とは裏腹で無感情だ。
「蒼は自分が置いていかれるのが怖い。そして、置いていくのが怖い。紅は巻き込んで傷つくのが怖い。二人とも、自分が最も抱く恐怖から逃げ続けた。その結果、最悪な状況になった」
蒼と紅は思いがけない麒淵の発言に、二人して真っ青になった。全身の血の気がさぁっと音を立てて引いていく。耳に流れる音で、さらに二人の心臓が氷った。
図星だった。
けれど、まさかこの局面で突き付けられるとは、二人とも考えてなどいなかった。よりによって、麒淵に。
「どちらがというのではない。だれがというのでもない。おぬしらとだれかの話じゃ。ほんに、今の心葉堂は脆い。排除すべき存在にも共感し傷つく」
歴代最強であるにも関わらず、という言葉を麒淵は飲み込んだ。だからこそ、愛おしいけれど、それはあくまでも麒淵側の事情だ。
それを慈しむのは本人たちのためになど、欠片もならない。
「じゃが、それでよいと我は思うよ。思うようにしておる」
「麒淵?」
蒼の問いかけで、麒淵の口に柔らかい笑みが乗った。
「蒼と紅はこれからいくらでも成長していく」
ただ、麒淵にとって彼らの成長は自分が置いて行かれるのと同意義だ。だからこそ、蒼が無意志で抱いている置いていくことと置いて行かれることの怖さはわかっているつもりだ。
麒淵も萌黄も、愛しい所に縛られる守霊だ。決して、愛する人間と同じ時間は生きてはいけない。偽りの命を得ても、ゆがみを重ねるだけ。
「最悪な状況が最上の結果となりうるなどざらだ。中途半端よりずっといい。おぬしら二人は弱くてとても強いからのう」
「どっちなのさ!」
先に立ち直ったのは、やはり蒼だった。蒼は口を尖らせて、麒淵の腹に思いっきり拳をぶつけた。
麒淵は腹横を抑えながら、本当に蒼は立ち直りが早いと感心せざるを得ない。
「なんじゃ、蒼はふっきれておるか」
「ふっきれてなんかいないよ。でも、私、自分が置いていかれるのが怖いのは、もう知っているもの」
蒼はきつく両拳を握る。自覚はしても言葉にするのが怖くて、体が震える。
紺樹から与えられた宿題。その答えはまだない。
そんな中でも、蒼はわかってしまったのだ。答えを認めてしまったら、蒼は両親を亡くしたばかりの蒼ではなくなってしまうと。
(お母さんもお父さんも。きっと、私や紅が苦しんだり悲しんだりする位なら自分たちのことを忘れなさいっていう。私はそれが嫌で、聞いたわけでもないのにそう思った自分が許せなかった)
蒼が自分の恐怖に名前をつけ、触れてしまったら両親と一緒にいた位置から一歩進んでしまう。前に行くのに、どうしてから置いて行かれる気がする。その葛藤に耐えられなくなっていた。
「紅がいなくなって、紺君に問われて……置いていかれたことからずっと逃げていたことも、今も逃げていることも。まだ、どうやって向き直るかは考え中だけど」
そう。蒼が紺樹に置いていかれること、大好きな両親を置いて進むのが怖いと想っていること、その現実は知った。
「おいていく、こわさ」
おもむろに呟いたのは、それまで静観していた萌黄だった。
蒼はしゃがみ込み、萌黄を覗き込む。そして――あまりの眩しさに驚いた。
(見たことがない、一番きれいな萌黄さんだ)
答えを得たように、萌黄の瞳が輝きを取り戻していた。
それは蒼がよく知っている萌黄に似ていた。紅に一生懸命で、カラぶって、それでも真っすぐ好きという感情を追いかけている萌黄。
似ているというのは、『見たことがない』という言葉通り一番の煌めきを宿しているからに他ならない。
「紅はどうかのう。蒼を巻き込みたくないのは今もか?」
麒淵は意地悪く問う。
紅がギリギリの線まで蒼を巻き込みたくなかったのなんて、それこそ想像に難くない。
けれど、蒼からしたら存分に巻き込んで欲しい。知らないところで何もできず守られて、気が付いたら大事な人たちが傷つくなんてもってのほかだ。
「紅、私もちゃんと言ってなかった」
両親が亡くなって、立ち直ったふりをして一緒に店をやってきた。『ふり』は全部がそうではなかった。でも、お互い肝心な部分に触れてこなかったのは本当だ。
蒼はオウトツの激しい地面にしっかりと立つ。足底に刺さる岩も、今は刺激となってちょうどいいと思えた。
「ねぇ、紅。紅暁お兄ちゃん、ちゃんと巻き込んで。私は、家族が大好きだから。悲しさにも辛さにも、やるせなさにも巻き込んで欲しいの。私も見ない振りはもうやめる」
蒼はしっかりと紅を見つめて想いを口にした。そうして、ちゃんと涙が流れ出す。
つんと鼻を湿らせてから、涙はどんどんと溢れていく。目頭から、目尻からみっともなく落ちていく。子どもみたいに、「ふぐっ」なんて変な声が出た。
(そうだ。私は巻き込んでほしかったんだ。自分の力不足を棚にあげてもいい。そんなこと気にしないで、傷つくなんて遠慮しないで巻き込んで欲しいって、ぶつかりたかったんだ)
蒼は何も知らずにいい子ぶって納得したように過ごしていた。両親の死に目に立ち会えなかったことをだれもが『しょうがない』と慰めて、後悔するのが間違っているみたいに接してくるのが嫌だった。嫌だと口にできない自分が苦しかった。
そんな繕って生きている自分が、両親を思い出として置いていくのは堪らなく怖かった。
「にせものの私が生きてたから、怖かったんだ。お父さんやお母さんを救えなかったってから丹茶を作れないって、言い訳にしていたんだ。魔道は使ってたのに、なんて中途半端」
両親の死後、人を救う病気に効く丹茶を作れなくなった蒼。けれど、蛍雪堂で古代のアゥマに真赭や浅葱が襲われた際には治癒魔道を使っていた。
では、なぜ茶の部類でだけ治癒能力を発揮できなかったのか。そんなの明白だ。
「茶師としてだけ人を救う術が使うのが――嫌だったんだ」
蒼は両手で顔を覆う。岩肌についた両膝から血が流れる。両手から零れ続ける涙が膝にぶつかり、結晶のようにはじける。
気づいてしまった。残酷で傲慢な自分に。
「『心葉堂の茶師の蒼』が人を救って進んでいくのが、嫌だったんだ。だって、私が一番大好きだったお母さんと父さんは、心葉堂の藍と橙だったから」
全部言葉を吐き出した蒼からは、もうむせび泣くしかなかった。蹲って、わんわんと声をあげて泣く。洞窟みたいな空間には残酷なくらい響き渡っている。
「蒼--」
すぐさま、紅らしき大きな手が蒼の頭を抱えてきた。それが余計に蒼の感情を引き出すのに。守るようでいて、縋るようでもある。
蒼の近くで萌黄がおろついているのが雰囲気でわかった。そして、怖々という様子で指先らしき感触が背中に触れ、子守歌ような拍子で動く。実際、子守唄を口ずさみ始めた。それは蒼のための歌でもあり、どこか遠くへ届けるようなものでもあると、蒼は感じた。
「ふっ」
あまりに不器用で優しい触れ方に、蒼は笑ってしまった。ちらりと見上げた萌黄は大層焦っているが、蒼はいつかの母を思い出していた。
(そういえば、お母さんは私がケガすると、今の萌黄さんみたいに焦っていたなぁ。おじいは、お母さん自身は昔からケガをしてもけろっとしていたから、魔物みたいに泣きわめく私に戸惑っているんだって笑っていたっけ)
そう思って、蒼はぐいぐいと両目を乱暴に拭う。
緊張状態でも過去に笑えて安堵したのか、敵の萌黄に慰められたのが微妙だったのかは蒼自身わからない。
でも、もやもやと渦巻いていた思いを認めてしまったせいか、涙と一緒に胸に溜まっていたものがすっきりと流れていったように思考が鮮明だ。それに、泣いている場合ではないと思えた。