第82話 覚悟3-黒い欠片と目覚める紅-
「ねぇ、麒淵。溜まりの中も普通の川みたいだね」
「蒼がいうとおりじゃからな」
麒淵の予想以上に、蒼は濃いアゥマへの耐性があるらしい。
いや、強まったというべきかと麒淵は目を細める。
(蛍雪堂の守護の協力を得て遠視しておった蛍雪堂での一件のおかげかもしれぬな。あそこで古代の原水のアゥマに触れたおかげで耐性が強まったのじゃろう。一欠片とは言え、意識を取り込まれ……怪我を負ったことで体内に取り込まれたのか)
あの後、麒淵は白龍を通じてすぐに浅葱の祖父と真赭の母親に連絡を入れた。
あらかじめ渡してあった白龍特性の丹茶を、本人たちに悟られぬように飲ませるように。幸い、二人は蒼ほど怪我を負っていなかったおかげで、体調を崩してはいないようだ。
(あそこで古代のアゥマが発動するのは正直予想外じゃったが。鍵としての機能は仮死状態のままでも果たせるはずだった)
体が弱い真赭は、それでも怪我を負った後に少し弱っていたと聞いたが、さして問題なく体調を取り戻している。
蒼に関して言えば、紺樹の守護の術があったとはいえ麒淵が首を捻るほどぴんぴんとしている。
「っていうか、すごいよね!! 今、私、溜まりの中を泳いでるんだよ!!」
くるんと自由に体を捻った蒼。その体は確かに濃密な本流を裂いて進んでいる。であるのに、相変わらず全く弱った様子も影響を受けた様子もない。
麒淵は青い顔で笑うしかない。
「泳いでいるというか流されておるのだがな」
「それは確かに」
麒淵の突っ込みに、蒼は真剣な表情で頷いた。ただ、あぐらを掻き、腕を組んでいる姿に麒淵は「行儀が悪い」と返す。
そんな麒淵を気にかけた様子もなく、蒼はまた感慨深そうに周囲を見渡す。
「溜まりの中腹って、繭の糸みたいに薄氷河色なんだね。どこまでも澄み切っている。あっ、でも光っぽくない所は深い青色みたいだし、ほら、あっちは濃紫色から薄紫色の階調っぽい!」
「あまりはしゃぐと色んなものが寄ってくるぞ」
麒淵は忠告のつもりで低く呟いた。
浄化物質は元々聖樹が大切な存在を救うために生み出した物質だ。よくも悪くも感情に引き寄せられる。だからこそ、アゥマとより共鳴できる者が優れたアゥマ使いと呼ばれるのだ。単なる魔道を使役するのとはまた違う。
「ほんとだ! 綺麗だね。水晶の欠片みたいなアゥマたちが寄ってきてる。溜まりの中だと光じゃなくって、明確な姿をとっているのか。あっ、ほら! 雪の結晶みたいな子もいるよ! おいでおいで、こわくないよー」
繭ごしではあるが興味深そうに寄ってきたアゥマたちに手招きをした蒼。麒淵の眉間にぴしりと青筋が浮かんだ。繭によって隔たれており直接頭を叩けないので、べしんと繭を叩くしかない。
守霊である麒淵が発したぴりっとした魔道に、周囲のアゥマは怯えたようだ。余計に蒼の周囲にへと集まってしまった。さらに麒淵の不機嫌に拍車がかかってしまう。
「だあほ! こわくないよー、ではない! 濃いあの子たちがおぬしに悪影響を及ぼす可能性があるのだ。ほら、あの黒いものなど幼い蒼を深層部へと引き込もうとした奴とそっくりじゃろう」
「あっ、ほんとだ」
蒼が見上げた先にあったのは、他のアゥマとは違う漆黒の色をした欠片だった。他のアゥマがきらきらと煌めきを纏っているのに比べ、それは黒い煙を発している。
けれど――蒼は膝を伸ばして、繭の天に両手をつけた。踵をめいいっぱいあげ、黒い子に顔を近づける。
「今ならわかるよ。この子は浄化されたものの塊なんだね。だから、この子の周りにはアゥマの欠片がより集まってる。まるで――なぐさめているみたい。だから、私にもわかるよ。この子は怖いものじゃない」
蒼の鼻先は繭に触れる。まるで子猫のように、黒い結晶もあわせるように繭に触れた。何度かちょんちょんと怖々と跳ねていた欠片は、やがてすり寄るように蒼に甘え始めた。
すると、周囲に浮かんでいた煌めきの欠片が嬉しいと言わんばかりにより輝く。
「寂しくないよって。必要ないものじゃないよって、みんなが言ってるみたい。あの時だって、きっと、寂しかったんだね。だから無意識で共鳴の魔道を出していた私を引っ張たんだね? 見つけて欲しかったの?」
黒い欠片はまるで首を傾げ、溺れるように回転した。均衡を崩してしまったようで、慌てた様子で周りの欠片や淡い光が支えるように踊っている。
蒼は少し残念に思いながら腰を落とす。
「そうだよね。あの時の黒い子がまだ漂っていた方が悲しいもんね」
蒼が軽快に笑う一方、麒淵は非常に険しい表情を浮かべるしかなかった。
駄目だ、と麒淵は思う。どこかに喜びを感じながらも、なけなしの理性がこれ以上は止めなければと警告してくる。
「蒼、ならぬ。これ以上、こちらの想いを汲んではならぬ。でなければ、人の世に戻れなくなる――!」
蒼はなんでもないようにけろっと言うものだから、麒淵も反応が遅れてしまった。
焦って立ち上がった麒淵の体がぐらりと揺れる。
はっとして流れの先を見ると、黒いアゥマが増していた。流れが激しくなり、蒼には声が届いていないようだ。麒淵は崩れるように座り込む。
「止めるのがおかしいか。蒼も紅も、守霊の事情に巻き込むために事を進めているというのに」
流されている蒼を横目に見る。薄氷河色の繭の中にいるせいだろうか。全体の色素が薄くなっているように見受けられる。
この世界で薄い色素は魔道力の高さの象徴であるのと同時、現世の人から一歩引いた存在であることを意味する。
「いや、我は同じ過ちは繰り返さぬ。蒼と紅の幸せは現世にこそあると確信しておる。あの薄情の気のある白龍にとっても、あの子らはあやつが人らしくある最後の頼みの綱じゃ」
麒淵は両頬を打ちしっかりと顔をあげた。目線は前に向けたまま、繭を右手で強く打つ。
なにひとつ捨てたり犠牲にしたりするつもりはない。それは蒼も同じ気持ちだと、麒淵は確信している。だから、蒼を見ないでただ黒さを増していく流れを睨む。
「蒼、いくぞ。紅を助けるのじゃ。怖じ気づくでないよ」
「うん! 相棒が一緒だもん。むしろ私が暴走しないようによろしくね!」
応えるように蒼も繭を鳴らした。
*************************************
「うっ」
何度目の目覚めだろう。岩肌から落ちる雫が頬から口元に流れてくる。ありがたい水分だが、切れた口端に染みて顔が歪む。それよりも口内の方が痛む。
呼吸しようと肺を膨らませた瞬間、喉に絡みつく違和感に襲われる。大きく吸った息は粘着質なものに阻まれてしまう。
「げほっ、うげ」
紅は喉に絡んだ痰と血を勢いよく吐き出す。口の中と肺がやけに痛んだが、構わず何度か喉を鳴らすとだいぶ楽になった。まだ少し息苦しさはあるが、窒息死は免れたようだ。
本当なら指を喉に突っ込んで全部吐き出してしまいたいところなのだが。あいにくと両手を後ろで縛られている。
(なんかの鋼鉄な上に硬化の魔道がかけられている。最初に目覚めた時に縄抜けしたせいだろうな)
はぁと紅は深い溜息をついた。溜息は洞窟のように広く響き渡る。
紅は重い体を無理に持ち上げようとはせず、ごろんと仰向けになった。天井は岩肌だ。すんと鼻を鳴らすと涼やかな水の香りがした。紅は嗅ぎ慣れている匂いだ。
(アゥマがすごく濃い。これはどこかの溜まりだろうな。でも、こんな整っていない溜まりがクコ皇国にあるだろうか)
クコ皇国は世界でも有数のアゥマが豊富な国だ。ましてや首都となれば屈指の溜まりばかり。心葉堂のように自然型を保っているとはいえある程度は人の手が入っているのが普通だ。
だが、ここは掘り当てたばかりの洞窟のようだ。
(けれど、オレの時間感覚からして遠方に連れ去るには足りないだろう)
紅は小さく祝詞を唱え、両目の能力を発動させる。
最初に目覚めた時はすぐに腹と脳に衝撃を感じて適わなかったが、今は周囲に人の気配を感じない。
(そういえば、最初に目が覚めた時に暴力を止めてくれた声が聞こえた。あれは、萌黄さんだったような)
いや、と紅は頭を振る。そもそも、ここに連れてきたのは萌黄だと想像がつく。紅が気を失う前に遭遇したのは萌黄であり、狂気の瞳で見下ろされた記憶がある。
体を捻った腕に食い込んでくる鋼鉄。紅は思わず顔をしかめた。
「いてっ。まったく、どうやって地上に帰るか。いや、折角相手の懐に潜り込んだんだ。溜まりまで行くしか無いよな」
ぼやきながら、紅は己の手首にできた痣を撫でる。自由になった手をふらふらと揺らす。
この程度の鋼鉄の楔も魔道も紅には玩具を弄るのに等しい。なぜなら、紅は心葉堂の店主跡取りとしてだけではなく、父方の理由からあらゆる毒や拘束術に対してたたき込まれてきた。多少の魔道や術など赤子の手を捻るように抜け出せる。
「まさか、父方の理由に関係がないところで発揮するとは思わなかったけれど」
軽口を聞きながらも内心は心臓が爆発しそうだった。状況が状況だ。身が自由になったとはいえ、置かれている現状は何も変らない。
それでも、紅は足を進めた。逃げ道がなくなる深層部へ。
(捕らわれたのはふいうちだったけれど、深層部に潜り込めたのは絶好の機会だ。飛んで火に入る夏の虫になってやろうじゃないか)
辿り着いた先にあったのは、大きなおおきな溜まりだった。ぱっかりと空いた大きな溜まり。溢れ出るアゥマに紅は息を飲んだ。
見たことがない色を流す溜まり。ふらりと引き寄せられる身。
紅は溜まりから溢れ出る得体の知れない空気に瞳を膨らませた。
「すごい」
「すごくない、違うよ。紅、ここは違う」
泉から飛び出てきたのは、蒼と麒淵だった。
紅は考えるより先に駆けだしていた。が、その腕は強い力に引き留められた。女性の力とは思えない力だ。
「どうして、そう思うの?」
紅の腕を掴んでいるのは萌黄だった。華奢な体があり得ない力で紅を引き留める。
蒼と麒淵は戦闘態勢に入っている。紅も自分を襲い、一度目が覚めた際に暴行を加えた彼に傍にいた存在に覚えがあった。自然と身構える。
「ここはすごいの。想いを全部叶えるわ」
萌黄が首を傾げながら蒼に近づいてくる。紅の腕を掴んでいるのとは反対の手に持っているのは――棘がついた鞭だ。
「私から紅さんを奪わないで。あの人から大切な人を奪わないでよ。あなたにそんな権利があるの?」
睨まれた蒼はしっかりと構えた。