第81話 覚悟2-溜まり渡りと背負う業-
「さて、ではこれからの手順を説明するとしようかのう」
「うん」
ごくりと蒼の喉が鳴る。一緒に入ってきた冷たい空気に、咳が出てしまった。
『溜まり渡り』のおおざっぱな説明はすでに聞いていたが、実のところ詳細は知らないままだ。蒼にしたら紅を助ける手段というだけで実行する価値があったから、とにかく行動に出ることが大切だったのだ。
「まずは導きの糸を紡いでおこうか。時間は無駄には出来ないからのう」
大きな麒淵は溜まりに両手を翳し詠唱を始める。その掌に吸い付くように溜まりから何本もの水の柱が上った。
まるで繊細な絹の糸のようになった水は、麒淵と蒼に絡みついてくる。溜まりの水だからだろうか。遠慮の無く爪中やら耳にまで入ってくるが、まったく不快ではない。
「蒼。お主は今から我と華憐堂に乗り込む。方法は至極危険だ。なんせ前代未聞、おそらく稀代のアゥマ使いが試し、その誰もが成し遂げなかった方法じゃ」
麒淵は真面目な顔をしていたが、水糸にされるがままになっている蒼を見てわずかに表情を崩した。
けれど、蒼は逆に口元を引き締めた。
「溜まりを渡るんだね」
蒼は強く頷いた。と同時に、意外にもさらりと出た重い事実に、蒼は内心驚いていた。
恐怖よりも、一刻も早く紅を助けに行きたいという想いが勝っているのは明らかだ。ただ、すこしだけ……ちょっとだけ別の感情が自分の中にあることに蒼は気がついていた。
(好奇心、なのかな。身の程知らずって言われても、たぶん、心臓が大きくなっている理由のひとつは、これだ)
誰もが成し遂げられなかったことに挑むからではない。蒼を高揚させているのは、アゥマにその身を沈められることだ。
幼い頃にアゥマの本流の底に沈んだ時は、ただただ恐ろしかった。川に落ちたことも、黒い得たいの知れない感情のようなものに引っ張られたことも。でも、今ならソノ黒いものにもう少し触れたいと思えるのだ。
(真赭の蛍雪堂で古代のアゥマに触れて、お父さんとお母さんの最期の一時を見れたからかな。アゥマ自体には攻撃されて怖かったけれど、見えたものはあたたかかった)
蒼は全身に絡んでくる薄氷河色の水の糸に頬を寄せる。絹の結紐のように見えた糸は、ぴりっと静電気を発した。痛みと焦げるような匂いに、思わず眉が寄る。
蒼は痛みを誤魔化さぬまま共鳴をはかる。
「普通のアゥマ使いならできない。私だって、ちょっとアゥマと共鳴するのが取り柄だけで、未熟なアゥマ使い。でも、私は一度、溜まりの深層部に取り込まれている」
蒼は笑みを麒淵に向ける。いつもと違う、高い目線にまっすぐと。
不思議だ、と蒼は思った。
「そう、おぬしには『耐性』がある」
こびとの麒淵はいつだって見た目の幼さに反して飄々《ひょうひょう》としている。なのに、大人の男性の姿になった麒淵の方が瞳に揺らぎを映す。
「お主は生来よりアゥマに愛されているが、何より幼い頃に本流の濃いアゥマに包まれ、体内に取り込んでいる。負荷がかかるとはいえ、我と魔道府、なにより蘇芳皇子の助力があるこの環境であれば、間違いなく華憐堂には辿り着く」
「うん」
甘えるように寄ってくるようになった糸に指を絡ませ、蒼は静かに頷いた。
麒淵はそんな蒼に驚かずにはいられなかった。元からアゥマ関係では、壱を言えば十を理解するところがある蒼だ。とはいえ、理論で納得する紅と違い、蒼は感覚で物事を読む。この手――人が絡む話ですぐさま事情を飲み込むとは思っていなかったのだ。
「魔道府はクコ皇国の溜まりやアゥマを管理する部門だもの」
麒淵の言葉ない疑問に答えるように、蒼は苦笑を浮かべた。
ゆらゆらと、二人を包む糸が作り出す繭の合間に見える蒼は、少女の面影が薄く見えた。
麒淵はいつもより断然大きな手を握りしめる。
(いつまでも子どもでいて欲しいのに、そうあれない条件ばかりがこの子を襲う。両親を亡くし、小さな双肩に老舗茶師の名を負った。明るく振る舞い、心の傷を隠し、けれど丹術が使えないという隠したい傷を晒さざるを得ない)
蒼だけではない。捕らわれている紅も、孫たちを置いて調査に出ている白龍もだ。今回の件で、彼らは心に傷を負い、負った傷口をえぐられるのは想像に難くない。
(そして、今は国の失態に巻き込まれて、未来ある身に業を背負うか)
もしかしたら、蒼の体質で悪影響など受けないかもしれない。けれど溜まりの守霊である麒淵だからこそわかる。それは限りなく零に近い願望だと。
麒淵は自分がひどく無力だと感じられてしかたがない。人の姿に近づいた今、それは顕著だ。現世と近づいたせいで、感情が煩い。
「長官や紺君、翡翠兄姉ちゃんたち、それに蘇芳様が皇宮の壱の溜まりから流れる本流を止めてくれる。ほんのわずかだけど、源泉から流れ続ける力が途絶える。それは注がれる力が弱まるのと同義だから、私への影響も弱るってことだよね?」
「あぁ。弱まりはする」
麒淵が渋りながらも行動することを許しているということは、九割方、間違いなく蒼は華憐堂へとたどり着けるだろう。
彼が懸念しているのは、その後のことだろうと蒼はわかる。
本当に恐ろしいのは、現状をくぐり抜けられるかではない。後遺症だ。
人の体というものは、どんな無茶も無理にも割と耐えているように見えるものだ。不眠不休。過労。達成感を抱き払拭される疲労。
だが、そんなものは夢幻に違いない。体に負荷をかけた分は必ずその身に返ってくる。
「溜まりを泳いで生き残った者なんぞおらん。だが、強すぎる力の影響は必ず何らかの形でその身におよぶ。アゥマ使いとしてかもしれぬ。もしかしたら――」
麒淵は言葉を切り、糸の合間から蒼の頬に手を添えた。あたたかくて、柔らかい。幼さの残る肌はしっとりとしていて、麒淵の掌を吸い付ける。
だから、余計に胸が痛んだ。未来ある少女の、無自覚ながらも異性を好いている蒼を思うと。
「蒼の人としての機能を失う可能性も皆無ではない。それは寿命であるかもしれないし、女性としての機能であるかもしれぬ。人としての――感情やもしれぬ」
人ではない麒淵にもわかる。女性が身体的機能を失ったり持たなかったりする悲しみを、麒淵は何度も目の当たりにしてきた。
蒼や紅は知らぬところだが、心葉堂をはじめ溜まりの守護家系はその能力の高さ故に、一部人間としての機能を欠損していることが少なくないのだ。
(特に心葉堂は身体能力が高い分、感情の面に影響が出やすい。白龍は人としての感情がどこか欠けておる。藍は人としての肉体への執着が薄かった)
紅にもその傾向が見られるが、今のところ蒼は本当に普通の少女だと麒淵は思っている。
だからこそ、そのままでいて欲しい。
でも、と麒淵は目を伏せるしかない。目の前の少女がどんな結論を出すかなんて、麒淵には嫌な位たやすく想像がついてしまうのだ。
「私はやるよ。だって、目の前に可能性があるのに逃げられない。ううん、私はもう逃げたくないの」
蒼はしっかりと立ち、麒淵を見上げている。
決して揺らぎがないわけではない。でも、とても強い瞳だと思える。
「全部終わった後、私になにかあれば悲しんでくれる人はたくさんいる。それは理解しているよ。私をそうさせたって後悔する人たちがいることも、知っている」
牡丹色の瞳が凛と鳴った。
麒淵は蒼のこの目が好きだ。ちょっとしたことで揺らぐくせに、ここぞという時には強い意志で他を寄せ付けない。なのに、決して独りよがりではない。
「それにね、おかしいかな。紅を捕えているだろう萌黄さんにね、敵意を感じたことはないの。おかしいなぁって違和感を抱くことはあったよ? でもね、恐怖はあっても殺意はなかった」
「それは紅もだと思うぞ。だからこそ、やるせないのだろう」
「そう、だね」
いっそのこと完全に憎める相手だったら良かったのにと、蒼は唇を噛む。
華憐堂が今回の黒幕の一員であることは間違いない。
でも、蒼は思うのだ。萌黄の紅への想いは本物だったと。萌黄の態度は恋を知らない蒼にも、一途で純粋すぎるほどの想いだとわかるほどに真っ直ぐだった。
「あの萌黄さんは、本当に紅のこと好きだったと思うの。紅を見る目が、本当に優しくてあたたかかった」
「うむ」
麒淵の同意に、やるせなさが増す。
蒼が華憐堂に乗り込む理由は紅を取り戻す事だ。でも、考える。どうして萌黄が紅を連れ去ったかを。
答えだけで言うと明白だ。詳細なんて知らないが、萌黄にとって紅が必要だったから。それなら蒼もわかる。蒼にとって紅の存在は絶対だから、なんとなくだが萌黄も同じ気持ちなんじゃないかと思えるのだ。けれど――。
「でもね、なんかね『違う』って思ったの。本物だけど、紅を思ってるんじゃないって。だからこそ、私は違和感を抱いても気にかけなかったんだ。そこに早く踏み込めていたら良かったのに」
「ならば、確かめに行こう。その違和感の正体を。そして、あやつらに突きつけておくれ。夢は覚めなければならないという現実を。どのような願いのもと、だれがための行動だとしても事の責を償わせねば」
麒淵の絞り出すような声が繭に反響する。
すると、麒淵の息がかかった箇所が、言葉が欠片になったように砕けた。雲母の層が剥がれるように、きらきらと輝きながら空気中に溶けていく。
「麒淵には萌黄さんや華憐堂のこと、それにクコ皇国の異常気象の正体がわかっているの?」
「おおよそはな。むろん魔道府には伝えておらんこともあるがのう。蒼よ。おぬしは、今、知りたいか?」
麒淵が長い袖を広げた。しゃらんと、鈴の音が響く。どこにも鈴などついていないのに。
いつの間にか蒼と麒淵を包んでいた繭は透明になり、ぱしゃんと音を立てて弾けた。姿は消したが、確かに蒼を包み込んでいるのはわかる。手を前に翳すと、麒淵の姿が波打った。
「いい。私は自分の目で確かめたい。この一件を起こした想いの正体を」
言い切った言葉を合図に、麒淵と蒼の体が浮く。
溜まりに漂うありったけの浄化物質や魔道が一斉に煌めき出す。色は様々な灯だが、一様に麒淵と蒼に寄り添ってくる。輝きは音となり、まるで祝詞のごとく心を振るわせた。
(声じゃないのに謡っているみたい)
蒼は幻想的な光景を前に、どうしてか不思議なものだとは思わなかった。それどころか、心配してくれているのだと、確信に近いくすぐったさを感じてさえいた。
「それでこそ我の相棒だ。では囚われの紅姫を助けにいくとするかのう」
「あはっ! じゃあ、私が王子様だね! 紅が聞いたら一週間は落ちこみそうだよ」
溜まり中に二人分の笑い声が響いた。
その笑い声も、すぐさま溜まりへと吸い込まれていった。
(繭のおかげかな。割と普通だ)
繭に包まれ溜まりへと沈んだ蒼は、そんな感想を抱いた。




