第78話 紺樹9-むかし、むかしのお話-
「そもそも、今回よく桃源郷の次期長となられる黒龍様が手を貸してくださったな。事が事だ。黒龍様個人のご判断ではないのだろう?」
ふと紺樹は抱いていた疑問を麒淵にぶつけてみた。これまでも似たようなことを尋ねてきたが、その度のらりくらりと交わされてしまっているのだ。
顔に影を作った麒淵を見て、紺樹は小さく息を吐いた。期待半分だったのもあり、今回も応えては貰えぬかと肩竦める程度だった。落胆の溜息ではなく、やはりという納得の苦笑だ。
「少しばかり、昔話をしてもいいかのう」
紺樹をじっと見つめていた麒淵が、おもむろに口を開いた。ついでに、小さな手で茶を勧めてくる。
(昔話? いや、麒淵のことだ。こんな時に俺の質問を誤魔化したいがために、昔を語るようなことはしないだろう)
紺樹は小さく頷いた。
守霊である麒淵が淹れた貴重な茶は、ある意味酒よりも強く人を酔わすものだ。甘いがしつこさはなく、体を熱くする。
紺樹が杯に口をつけるの見届け、麒淵は口を開く。
「始まりの一族は、その強大な力とアゥマを使役する祖だった」
麒淵の静かな声が岩を鳴らす。一斉にそわそわとし始めたアゥマを、麒淵が「こら」とたしなめる。沸いてきた光はしょんぼりという表現が似合う様子で煌めきを鎮めた。
「そう怒るなよ。アゥマとて、始祖の話は心躍るのだろう。心はなくとも、感情に呼応するのがアゥマだ」
紺樹は、めそめそと言う様子で寄ってきた魔道の光を撫でる。
魔道とアゥマそのものは同義ではないが、心葉堂の溜まりではひどく似通っている。より混じりけがない。
それでも眉間の皺をとらない麒淵に変わり、紺樹が続きを紡ぐ。
「始まりの一族と呼ばれる彼らに欲はなく、ただ聖樹の意思を引き継ぎ、世界の汚染を浄化することを願い、人々にアゥマの制御方法を伝え歩いていた。なのに、次第に人々はその純粋な想いや力を悪用し始めた」
正直、麒淵が始まりの一族の話を始めたことには面食らった。けれど、紺樹としても懐かしくもあり、興味がある話だ。
紺樹の言葉を受け、麒淵が瞼を伏せた。
「あぁ、じゃから弾圧と奴隷化から逃れた一族の生き残りは聖樹の地――いつしか人々から桃源郷と呼ばれるようになった土地に戻り、外界との接触を避けだしたのじゃ。全てから切り離された強力な結界に守られ、桃源郷はある意味で幸せな時間を紡いだ」
麒淵だって実際の桃源郷は知らない。全ての守霊が恋い焦がれる土地でありながら、守霊は絶対に訪れることができない。なぜなら、禁忌の術を使った場合を除き、守霊は生まれた土地に縛られるから。
そこに白龍が辿り着いたと聞いた時、麒淵はどれだけ心が躍ったか。
(それは今、関係ないか)
麒淵は沸き上がる感情を抑え込み、杯を煽る。
問題は伝説の血ではない。今、心葉堂に絡む桃源郷の話だ。
「異端な容姿でありながら始まりの一族最強の力を授かった黒龍と、一族で最もアゥマとの共鳴する力を与えられた桃香が生まれた。聖樹の子である守霊はこぞって喜んだものよ。聖樹の愛しい一族が愛した者の姿と、近しい者たちが生まれたと」
麒淵は感嘆の息をつく。当時を思い出したのだろう。ほんのり色づいた頬がやわりと持ち上げられた。
けれどすぐに頬は強ばってしまう。
「あの子らは知らんから。聖樹が本当に愛した子の姿を」
苦々しく吐き捨てられた声。麒淵にしては珍しい部類のものだ。
あまりの様子に紺樹が口を開く。麒淵の代わりに続きを口にしようとしたのだ。
「その桃香様を、クコ皇国弐の溜まりである白龍がかっさらってしまった。桃源郷のそとに出ることが許されなかった筆頭の家柄である桃香様を。そういうことだろう?」
麒淵はもの悲しい表情を浮かべたまま遠くを見つめた。
紺樹の言うとおりだ。
「二人の間に生まれた子どもに特異な点がなかったのと、長が白龍の人柄と思想を徐々に理解し始めたのもあり、里の者の中には新しい時代がきたと喜ぶものさえ出たようじゃな。黒龍の話によると」
「心葉堂も初代は始まりの一族の者だったと聞いているが、本当か? だから、長は元々完全に反対していたのでは無い。一族のことは明言された訳ではないが、似たような意味合いの話を黒龍様に聞いたことがある」
紺樹の問いかけに、麒淵は言葉を返さない。普段の麒淵から考えても沈黙は肯定だと、紺樹は思った。
なにより、麒淵の目が見たこともない様子で俯いていたのだ。
「血の濃い初代は我に近すぎた。心も存在も。だから、我も近くに寄りすぎた。溜まりの守霊である我がいつの間にか『わし』になっていた」
麒淵はきつく唇を噛む。震える体は小さいのに、紺樹には己と同じほどのものがみえた。まるで鏡だと思った。
(初代を思う麒淵は、まるで蒼を想う俺の鏡だ)
光のない目で紺樹は思った。紺樹の目の前にいるのは子人だが、視えるのは自分よりも年上の男性だ。その男性は頭を抱えて地面に額をつけている。己が残した証を見ぬように。
「麒淵、続けてくれ」
「まぁ、ようするに『同胞』とも言える部分があったからのう。しかし、藍の相手はいかんかった。寄りによって、藍を愛した二人は……始まりの一族を閉じ込め人体実験を繰り返し成長してきた国の王族だったのだよ。そして、血統でアゥマが可視できる瞳を作り上げたあの国の血を引く子どもをもうけたのじゃ。それも、二人も」
「しかも、紅暁がアゥマ可視の能力を開花させ、蒼月はアゥマの源泉とも共鳴できるほどの潜在能力を持っていた」
わずかな気配を感じ、紺樹は立ち上がる。同時に杯を一気に煽った。心地の良い甘さが喉を通り過ぎ、全身に広がるのがわかった。先ほど飲んだ酒が一気に分解され、頭がすっきりとしていく。
麒淵が、何代目かの酒にすこぶる弱い茶師のために開発した術だと聞いたことがある。
「だから、俺がクコ皇国に寄越された。心葉堂を監視するために、桃源郷から。捨て子であれば多少の同情もひく。長たちにとって予想外だったのは、俺がその時記憶を失った状態で拾われたことだろう。ただ、逆に都合が良いとも考えたのだろうな。俺を泳がせて、黒龍様が監視役として師傅や桃香様と会うことを許した」
紺樹は苦笑するしかない。どれだけ心葉堂が大切なのだと。
己が嫌う出生も、心葉堂のためになったと思うなら、さほど嫌では無くなるのだ。
「おかしなものだよ。監視役の監視なんてさ。黒龍様は文句など一言も口にしない」
「あやつはそういう奴なのだよ。長の命とはいえ、あやつがやると決めたのなら、それはあやつが信念を持って向き合っていることだからのう。なぁ、紺樹よ」
麒淵がひどく固い声を紺樹にかけた。
溜まりから地上にあがる階段の入り口で、紺樹の後方にいる麒淵を振り返ろうと腰を捻る。けれど、魔道の光に邪魔をされてしまう。紺樹の頬にすり寄ってきてくすぐったくて、思わず片目を瞑ってしまった。
「紅暁や蒼月を悲しませないでくれよ。白龍も黒龍も。紺樹を想う人たちを」
溜まりの階段に歩く足と止め、紺樹はぐっと喉を鳴らした。それは麒淵の言葉が戒めの意味を持つからではない。その裏側に込められた意味は、耳にたこができるほど聞かされている。
紅暁と蒼月を悲しませるな。それはつまり、己も大事にしろという意味だ。
紺樹にとって麒淵の願いはすごく難しい。叶えるのはとてもとても困難なのだ。いっそのこと、二人を『守れ』と言われた方が随分と気が楽でしょうがない。
魔道府の任務もお上からの命も、紺樹にとっては別段難儀な点はないのだ。だって、任務を遂行するためにどんな手段もとれる。自分を犠牲にしても、誰も文句は言わない。むしろ功績に繋がれば名誉の負傷ともなる。
「無理だよ、麒淵。俺には無理だ」
壁に手を打ちつけ、紺樹は額を擦りつける。ひんやりとした岩肌が熱を下げてくれる。多少ごつごつと痛みを伴っても、紺樹には心地よかった。
「たわけが。言葉でこたえなくともよい。いざという時、あの子らを前にして紺樹が自分を省みない行動をした後、思いっきり叱ってやるわい。誓いなど求めておらんわ」
うずくまりかけた紺樹の頭を、通り過ぎざまに小さな手が叩いた。
紺樹が音を立てて顔をあげると、麒淵はすでに螺旋階段を上り始めていた。飛べるのだから垂直にあがればいいものを、律儀に螺旋にそって飛んでいる。その行動の意味を知っている紺樹は膝を抱えてうずくまる。
「なんじゃ。蒼が答えを見つけてまた先を行かれるのを拗ねておるのか。ほんに厄介だのおぬしの溺愛とやらは」
「ちがっ! 俺はそんな大人げなくない!」
「そうかのう。わしは寂しいぞ? つい最近まで舌っ足らずでせわしなかった蒼が、いっちょまえに職人として、人として悩んでいるのは」
立ち上がったまま、紺樹は頬や耳が熱くなるのを感じた。麒淵は本当に天然なところがある。
麒淵は不思議だ。紺樹の想いを読んでいたかと思うと、深い意味がない場合も多い。人の心に近いようで、守霊であることを持ち出し言い聞かせるように特異な存在であろうとする。
「あぁ、お前か。まて」
空間魔道を抜けた直後、麒淵が踵を返した。ゆっくりと階段をあがる紺樹に向かって飛んできた。