第77話 紺樹8-紺樹と麒淵-
「それでおめおめと逃げてきたわけかい。わしを巻き込んで」
麒淵の掠れた声が溜まりに響いた。湿った空気がより雰囲気を助長している。
日頃なら紺樹も「そう見せるのも年長者の余裕ですよ」などとうそぶく所だろう。しかし、今日の紺樹には本当に余裕がない。
「うるさいぞ、麒淵。俺はこう見えて割と戸惑っているんだよ」
「なにが『こう見えても』じゃ。まんまだわい」
溜まりの中央部分で日光浴ならぬ溜まり浴をしていた麒淵。満足して、溜まりの淵であぐらをかいている紺樹に近づく。体の動きは幾分か鈍いままだが、眠気は消えたようだ。瞼がすっきりとあげられている。
麒淵は紺樹の正面で止まる。そうして深々と落とされた溜息に、紺樹はいらっと頬をひくつかせた。
「白龍師傅と口調は同じなのに、からかいの色がない分お前の方がたちが悪い」
「悪戯と好奇心の権現のようは白と比べるでないよ。加えると、遙か昔からわしはこの口調じゃて!」
「クコ皇国の弐の溜まりの守霊麒淵様も、白龍師傅の話題となると形無しか」
紺樹も負けじと鼻先で笑ってやる。腕を組んで尊大な笑みを浮かべる紺樹をどれだけの人が見たことがあるだろうか。それほど、麒淵と紺樹は打ち解けた関係だ。
それはなにも、紺樹が心葉堂の家族の一員だからでも、魔道府の副長として心葉堂に関わることが多いのが理由ではないのだが……。
「というか、軽口をききあっている場合じゃない。準備は終わったか?」
「言わずもがな。いつでも術を施行できるわい」
麒淵は胸を張る。張った後、憂いに帯びた眼差しを溜まりへと向けた。
愛しい相棒に危険な行為をさせる準備が整った。
言いようによっては、彼女が家族を救いたいという願いを叶える手段でもある。けれど、麒淵は手放しに推奨できる方法ではないし、むしろ避けたい術だ。禁忌を成す能力があったても、それが副作用を及ばさない保証にはなりえない。すぐにではなく、もしかしたら何年もかけて、蒼の心身をむしばんでいく可能性だってある。
「華憐堂も皇太子も想像つかないだろうな。まさか、こんな侵入方法は」
「あぁ。蒼にこんなことをさせたなど代々の者に知れたら、わしは袋だたきじゃろうな」
溜息をついた麒淵は、実際に袋だたきか問い詰められている場面を想像したのだろう。両腕を抱えて、ぶるりと身を震わせた。おまけに「初代が一番恐ろしい」と歯を鳴らした。
しかし、すぐ真面目な面持ちに変る。
「しかし、なんとしてでも華憐堂と皇太子が成そうとしていることを、ここで止めなければならぬ。国の陰謀だとかよそ者の悪事などという話ではない。わしは守霊で人間の気持ちはようわからん。ただ聖樹や溜まりを利用し、命を『作り出す』ような真似事をする残虐極まる諸行を許せぬ」
「麒淵は馬鹿だなぁ。本当に馬鹿だよ」
今度は麒淵が笑われる番だった。紺樹は溜まり中に反響する大声で笑った後も飽き足らず、拳を口にあてくつくつと笑い続ける。
麒淵には紺樹が笑っている理由はわかっている。だから反論せず宙であぐらを掻くだけにした。であるのに、紺樹は麒淵の反応がつまらないと言わんばかりに、ずいっとにやけた顔を近づけてきた。
「今更説得力ないんだよ。人間くささでいったらクコ皇国壱の溜まりの守霊のだれよりも飛び抜けているのに。よっ! クコ皇国随一の庶民派守霊!」
「うっさいわい! お主にだけは言われとうないわ!」
麒淵はがなった後、染まった頬をぷいっと背けた。
そもそも、たかが魔道府のいち副長である紺樹が、皇族の中でも限られた者しか足を踏み入れることを許されない守霊を知っているのかなどと揚げ足をとらない。
麒淵はもちろん知っている。
縄張りはあれど、溜まりは繋がっている。ましてや国などという範囲であれば、溜まりの濃さで順列はあれど『お隣さん』だ。守霊同士は夢のようなものを介して会話する機会もある。
「そうやって、自分の存在を己に自覚させるのはやめいと何度も注意しておろうが」
麒淵は知っているから。紺樹が壱の溜まりのあの子を知っているのを。なぜなら、麒淵は初めて蒼に紺樹を紹介された瞬間に彼の正体を見抜いていたから。
麒淵が睨んでも、紺樹は曖昧に笑うだけだ。余計に腹が立つ。
「自覚しないと駄目なんだよ。まるで自分が普通の『人間』だと錯覚してしまう」
「紺樹は普通――普通というにはかなり捻くれておるし、魔道も白ほど桁はずれじゃが、昔から蒼に関して人一倍嫉妬深いから、普通ではないのかも?」
自分で普通と称しておいて、麒淵は首を捻りだした。本気で悩んでいる調子で体ごと傾けだしたのを見て、紺樹は苦笑するしかなかった。
麒淵としては面白くなかったのだろう。小さな頬をめいいっぱい膨らませて両手を激しく動かし出した。こういう仕草は間違いなく蒼に引き継がれていると、紺樹は思った。
「なんじゃ、華憐堂の萌黄を気にかけておるとは聞いておったが……人情でもわき、手助けでもしたくなりおったか」
「少なからず、萌黄の中身に思うところはあるさ。けれど、単なる同情だよ。任務に支障はきたさない。店に通っていたのは魔道府の任務だし、休日に彼女に付き合ったことで蒼にも会えたし――彼女の正体が害になる証拠も掴んだしな」
紺樹はすくりと立ち上がり長包を叩いた。わずかにまった石埃はすぐさま空気に溶けていった。
紺樹は円卓に置いてある魔道書を手に取る。見た目の重厚感よりもかなり軽い。紺樹は特性の、古今東西の魔道・魔術・魔法の術を閉じ込めた書物だ。紺樹の魔道力にだけ反応するようにあらかじめ術式を敷いてある。
「あの神木には可愛そうなことをしたのう。穢れに犯されるのを知りながら見過ごしてしまった」
「気にするな、とは言えないが。わずかに残っていた部分を再生させた芽が順調に育っている」
事は心葉堂一同が浅葱の店に華香札を買いに行った時に遡る。ちょうど紺樹と蘇芳が華憐堂で偵察のために丹茶を購入した後だ。
この時紺樹はすでに華憐堂の状態を把握していた。休日とはいえなにか情報を得られない者かと街に出ていた。
今回の物取りは多くの場合と逆なのだ。
確たる情報はあるが、全てを明るみにはできない。だから、いかに真実を隠しつつ捕り物の大義となる情報を集められるかが勝負となる。
魔道府自体で言うなら疑惑は溜まりの定期報告の数字が魔道府に降りてこないことから始まった。理由は明白だ。魔道府長官やツテをつかえば虚偽の報告などすぐにばれる。
だからこそ華憐堂の秘密を隠したい一味は、情報を下ろさなかったのだろう。利権狙いの者は知らないが、少なくとも、中心にいる華憐堂と皇太子はあくまでも時間稼ぎができれば良いと考えているような拙さがある。ということはつまり、国絡みというよりも権力ある者の私欲で事が動いているというのが魔道府長官と白龍の意見だった。
紺樹もそれを踏まえて、個人を前面にだして華憐堂に近づいた。養母の容態の悪さをネタに。孤児である身の上を踏まえ、養母が亡くなれば身を引き裂かれる思いだと告げた時、萌黄と店主は明らかに目を潤ませていた。
ただ、湯庵という店守は、個人的な事情という点に至極不満げだったが。
(職人の会合にも顔を出さぬ店主。萌黄への態度を見ても、湯庵が実質権力を握っているのはわかる。が、いまいち腑に落ちない。萌黄が店主の願いにより蘇生術を施されているのはほぼほぼ確定している。アゥマの保有量と魔道を考慮しても、術者は間違いなく店守ではなく店主だ。であるのに、あの力関係は……)
いやと、紺樹は小さく頭を振る。
華憐堂の足跡は間違いなく白龍たちが全て回収してくる。紺樹からしたら、それは信頼ではなく揺るぎようのない事実なのだ。謎解きは任せておけば間違いない。
それはさておき、ぶらつく中で会った蒼の親友の真赭が言葉を濁らせ濁らせながらも蒼の落ち込みについて話してくれたことに、紺樹は内心焦った。
(華憐堂を訪れた時は皇子である蘇芳を連れていたし、あくまでも仕事だった。まさかソレを蒼に目撃されていた上に、落ち込ませていたなんて)
私用ならば事前に蒼に説明することもできるが、あくまでも仕事だ。
紺樹が蒼の落ち込みを知るのは彼女が立ち直った時だったけれど、正直嬉しさと寂しさの半々だった。
昔とは違う。紺樹が知らないところで落ち込み、立ち直って成長していく蒼。
「紺樹?」
麒淵の問いかけに、紺樹は顔をあげた。そこで初めて魔道書を通り越してどこかを睨んでいたことを自覚した。
紺樹は気を取り直し、左手で抱える魔道書をめくる。水気の多い溜まりだからだろう。すんなりとめくれてくれるのはありがたいが、いつもより水分を含んだ重さが抵抗力にも感じられてしまう。
「これは大事な証拠だから。すでに邪気を醸し出していた萌黄が、邪を祓う札や道具を作る界隈に立ち寄った。彼女についた浄化の意味を持つ花びらは腐れ落ち、萌黄自らが神木を枯らしたのを翁の陰が見た」
「その花びらの一枚を紺樹が保管しておる、と。もう一枚は白龍が調査に持ち出していたな。萌黄の中身のアゥマを閉じ込めて」
「白龍師傅と黒龍様だ。件の溜まりを見つけたとして、花びらをどう活用するのか興味深い。できれば立ち会いたかったよ」
紺樹が魔道書のとある項で手を止めた。保管魔道の陣が描かれた場所からは、一枚の枯れて茶色く汚れた花弁が一枚映し出された。花びらは禍々しいアゥマを放っている。同時に、麒淵と紺樹にはひどくもの悲しさも感じられた。
――タスケテ アゲテ――
感覚を研ぎ澄ませると、アゥマの音が聞こえる気がした。少なくとも麒淵には、はっきりと聞こえていた。
腐れ落ちる魂と肉体の願い。
麒淵は耳を傾け、紺樹は知らぬふりをする。それはどちらが悪いと言える反応ではない。背負うモノが違うから。
「そもそも今回の件、穴が多すぎる」
紺樹は魔道書を閉じ、深く息を吐いた。
「それは……一部を除き、中心におる誰しもが己の願望を叶えたいと想うが故じゃろうな。全てが憎めぬのは、中心にいるだれしもが国など眼中に無いところじゃて」
麒淵の呟きに、紺樹はだからこそと背を伸ばしす。私欲ほど恐ろしいものはない。
「だからこそ、心を鬼にしてでも止めなければならない」
紺樹の口調は断言するものだった。なのに、声は弱々しくて不均等だ。
紺樹の両手は震えている。高ぶる感情のせいだろう。片手で手首を押さえても止まらない。
「それに個人的感情で言うなら、蒼が一番辛いはずだ。蒼に鍵となって貰うために、無理に両親の死を受け止めるよう強制した。普通なら時間が解決する問題を、こちらの都合で納得させようとしたんだぞ?」
紺樹の視線を受けて、麒淵は円卓の上に降り立った。酒壺を浮かせ、自分用の杯に盛る。紺樹へも進めてみるが、彼は小さく頭を振り茶壺を手に取った。
「ほんにお主はわかりにくい。きっと周囲には己の出世と事態鎮圧のために心葉堂を利用したと見る者もいるだろう」
「今更だ」
紺樹は自分がどう思われようと構わない。大事なだいじな存在たちにさえだ。ただ、彼らが笑って、泣いて。生を謳歌してくれたらいいと思う。その傍に自分がいたらどれだけ幸せだとうかとは思うが……それもきっと期限付きの幸せだ。
なら紺樹は自分のための幻の幸せはいらないと思う。大切な人が泣かなければ、それで良いと思うから。