第76話 紺樹7-亡くしたモノへの想い-
「紺君、色々覚えていすぎだよ。綺麗な思い出になっているどころか、間抜けな私の発言まで鮮明じゃない」
語り終えて酒を煽った紺樹に、蒼は苦みたっぷりに返した。声がくぐもっているのは、膝を抱えて肩掛けを頭から被っているせいだ。不格好なてるてる坊主とも言える。
紺樹としては、そんな蒼がとても可愛いと思う。日頃は精一杯背伸びする蒼が、幼い自分に悶える姿は堪らない。
紺樹は杯を傍らに置いて、蒼の頭を撫でた。
「蒼のことなら大抵は覚えている自信があるよ」
「そんな自信いりません!」
随分とはっきり否定されたものだ。しかも、蒼の声は静かな空間では部屋中に響き渡ったではないか。
麒淵は目こそ覚まさなかったが、小さく身じろぎした。
紺樹はわざと寂しげな表情を作り、蒼の顔を覗き込む。
「本当か?」
蒼の反応が照れ隠しだとは理解していても悔しいものだ。だから、少々困らせてみようかと思ったのだが……。結果的に怯んだのは紺樹の方だった。
「しらない」
蒼は肩掛けと膝の隙間から紺樹を見上げてくる。その視線に、紺樹の心臓はずくずくと痛む。知らない女性を目の前にしているような気がして。
淡藤色の水気を含んだ髪が白く艶やかな頬をなぞっている。泣いて痛々しい目の赤ささえ、牡丹色の瞳の一部と思えた。細い息の白ささえ、艶めいて見える。
(そうやって、君は大人になっていくんだな。今は無防備に俺にも見せてくれるその姿。いつか独占する男が現れる)
紺樹が視線を逸らすより先に、蒼がふいっと顔を背けた。正直、ありがたかった。
だって、そうだろう。
紺樹は膝上の拳をきつく握った。唇ならば傷がついてしまう。それを見逃さない蒼ではないから。
(自分から距離を置いているのに、なんて自分勝手なんだろう)
紺樹にとって蒼はただ愛しいだけの、妹のような存在ではない。
出会った頃からずっと対等以上の存在であり、心の支えだ。最初は確かに面白くて自分にないモノを心に持っている蒼に憧れたのかもしれない。蒼を想う自分はどうしてか嫌いではなかったし。
けれど、心葉堂と――蒼と積み重ねた年月は、紺樹の中に様々な感情を芽生えさせた。
特に、蒼が十四歳を過ぎ、クコ皇国を離れて二年間修行に出るとなった時、紺樹は確かな想いを自覚した。
だから出生を思い出し、あの時酔っ払った蒼に応えた自分を激しく後悔したのだ。幸い、蒼はすっかり忘れているけれど。
(身分とか年の差とか、そんな障害じゃない。本人同士の気持ちとか、片思いとか、そういう問題じゃないんだ。存在そのものが違うから)
鏡がなくとも、今、紺樹は自分の顔がどんな表情をしているのかが容易に想像できた。暗鬱な陰影がかすめているに違いない。
「なぁ、蒼」
一度躊躇したあと、真っ赤に耳を染めてうずくまる蒼の頭を撫でた。びくりと大きく跳ねたあと、蒼は随分と間延びした声を出した。呆れとも安堵ともとれる溜息。
蒼は紺樹をずるいとか意図が読めないだとか拗ねる。けれど、紺樹からしたら蒼の方がよっぽどわからない。
「蒼はいつも人の気持ちに寄り添ってくれる。それは何も茶師としてだけじゃない。方法が茶を介しているだけで。十六歳の俺が意地悪で近くで売っている饅頭の方が早く体があったまったと言っても、衝撃を受けるどころか『とんちんかん蒼だった』なんて考え込んでいた」
「そんなとこまで明確な言葉で覚えていなくても」
誉めているのに、蒼はうぅっと唸り声をあげてしまった。より膝に顔を沈めたようだ。
ここで『俺はすごく可愛くって、思い出す度に元気になる』と付け加えようものなら、子ども扱いしていると起こりだし堂々巡りになってしまうのは想像に難くない。
紺樹は出しかけた言葉を「悪い、わるい」という謝罪に変える。
「言いたいのは、つまり、蒼はいつも目の前にいる相手、いなくても依頼主の心にいる渡したい相手への想いをまっすぐ見ている。アゥマにだってそうだ。共鳴力がすごいのは血だけじゃない。君がアゥマっていう存在に真摯に向き合い語りかけるからだよ」
紺樹の柔らかい声がいったん止む。口にしている内容と同じくらい、いやそれ以上に柔らかくてあたたかいと思った声。いつもどこかしらに含まれている悪戯めいた意図も、誤魔化すような色も全くない。
だからだろう。蒼は思わず顔をあげていた。目があった紺樹はちょっと照れくさそうな微笑みを浮かべた。
(私が知っている、二番目に好きになった紺君だ。一番最初は意地悪なのに寂しげな紺樹お兄ちゃん、二番目はあったくて人の良いところを見つけるのが得意な紺君。三番目は――)
それが恋という甘い音でなくても、蒼にとったらとても大切な好きの気持ちを抱いた声だ。
懐かしさともどかしさが入り交じった気持ちが、蒼の胸に沸き上がってくる。
と同時に、紺樹が言いたいこともわかって瞳が陰る。
「でも、私はやっぱり無力だ。頑張っても追いつきたい人に追いつけない。寄り添いたい人に寄り添えない。助けたい人を――助けられないどころか何も出来ないお荷物だ」
愚痴を言うつもりなどなかったのだろう。蒼は言ってしまった直後、紺樹から視線を逸らした。震える肩は寒さからだけではない。
蒼の後悔はなにも今、紅を見つけられないことでも、華憐堂との騒ぎの発端が自分であることだけではないと紺樹は知っている。
「両親の死に目にあえず、きちんとお別れができなかったと、今でも後悔しているんだろ?」
いつもの紺樹なら間違いなく、聞き流して欲しいという蒼の言葉なき要望に応えただろう。優しくて甘やかす存在として。
「今日はそんなことはないと否定することも、周囲の人間が聞いたら悲しむとも言わない」
紺樹の大きな手が、膝を抱えていた蒼の手を握る。茶や暖房器具の効果かだろう。蒼の手は思ったより冷えてはいなかったが、いつものぬくもりとはほど遠い。
紺樹は自分の手がわずかに震えているのではないかと錯覚する。本当ならもっと早くに言ってやれば蒼は今頃丹茶≪くすり≫でも評判だっただろう。その成長を手助けしなかったのは、紺樹のエゴだ。
「ましてや、藍さんや橙さんが聞いたら悲しむなんて、言わない。心葉堂をよく知る人たちは間違いなく、お二人は自分たちのことで蒼が後悔することを喜ばないのはわかっているけど」
蒼は顔を背けたままだ。でも、握られている手に力が込められた。どんどん冷たくなっていくのがわかる。
いっそのこと自分の体温が全部蒼に流れてしまえばいいと、紺樹は思った。そうすれば、蒼が暖まる。それと同時に、彼女が自分の両手を握ってくれるのがわかるから。なんて朝霞だと苦笑しながら、紺樹は空いた手を柔らかいモノに添える。
「遺書でも無い限り、お二人が死ぬ際の気持ちなんて知り得ないんだ。遺書があったって、それが真実とは限らない。どんな形で自分に対する気持ちを向けられても、なぜ直接告げてくれなかったのかと悔やむし、聞き出せなかった自分を責めるだろう」
相変わらずどしゃぶりの外とは違い、顔を上げた蒼は夕立前のようだった。今にも泣き出しそうな顔で紺樹を見上げてくる。
蒼の心の中は見えない。けれど、紺樹は続ける。
「突然の日常の中、次の日にはいなくなる人だって同じだ。あぁすればよかった、こうすれば良かったと自分を責めるしかない。だから、毎日後悔しないように生きればよかったのになんて言うのは詭弁だと、俺は思う。だってそうだろう。確かに後悔は減るかもしれないけれど、なくなることなんてないんだ」
大好きな人を亡くすことに大団円などないと、紺樹は思う。老衰だって不慮の事故だって。紺樹自身の経験から。
「じゃあ、じゃあどうすれば良かったの? 私、作れないの。前に進めないの。わかってるんだよ。自分が丹茶を作れても作れなくても、お父さんやお母さんの死とは関係ないって。でも、私がこれからだれかを助けたら――」
叫びかけた蒼が絶望の色濃い表情で固まった。
紺樹はこれからひどいことを言う。蒼がこの壁を乗り越えない限り、華憐堂が抱える真実を目の当たりにした時、彼女は足を止めてしまうだろうから。大好きな人を亡くすという共通点だけを見た曖昧な優しさは邪魔だ。その点だけでいうと紅暁は心配いらない。彼の闇も深いけれど、その分何を守り何を切り捨てるかを恐ろしいほどに理解している。
「自分で自分を許せない? 白龍師傅や紅暁に申し訳ない?」
紺樹は自分の冷徹な声にぞっとした。紺樹が最も大事に思う少女に対しても氷のような発言をぶつけられる自分に。
恐ろしくて止めたいのに、紺樹の唇は止まってくれない。だから思った。自分は所詮、作りモノなのだ。華憐堂の萌黄を責めることも、心葉堂を想うことも許されないと。
「普段は人のためにあれという茶師なのに、自分の気持ちばかりを優先していて怖いか」
紺樹は自分でもこれ以上ないくらい冷徹さだと思った。それでも平静でいられるのは、魔道府副長としての自分に切り替わっているからだろうか。
が、紺樹のそんな考えはあっさりと砕かれた。
「わかった。ちょっとだけ時間をちょうだい? 私、ちゃんと考えてみる」
「えっ?」
蒼の予想外の応えに、紺樹は間の抜けた返事をしてしまった。
「ずっと逃げていたことと向き合いたい。じゃないと、私、どこにも進めない。あっ! 別にね、今までちっとも考えてなかったわけじゃないの! 折角、紺君がくれた機会だから!」
「どうして、ひどいことを言うなんて怒らないんだ? こんな状況で」
紺樹は目を皿のようにして尋ねていた。さすがの紺樹も、蒼からの多少の非難は覚悟していたのだ。それでも離す気はなくて、彼女を落ち着かせるなんて名目で手を握り、逃げることを奪った。
驚きのあまり緩んだ手を蒼はぎゅぅぅっと握ってきた。
「紺君が私を傷つけたいだけの言葉をいうはずないから。紺君が向き合って言ってくれた言葉だから。私、ちゃんと考えたいの。それに……あの、えっと」
きりっと眉毛をあげて身を乗り出した蒼。だが、凛としたのは一瞬だった。すぐに真っ赤になって空いた手で髪をいじり出す。
口をあけている紺樹をよそに、蒼は真っ赤になりながらもしゃっきりと背を伸ばした。
「私は、そーいう紺君が一番好きだから! 誤魔化しがない紺君! そんな紺君に言われて向き合わない私じゃないよ!」
そうして、とんでもない発言をしてくれたのだ。
言わずもがな。紺樹は眩暈を起こした。蒼の真剣さは伝わっているし、現実と向き合おうとする彼女をどうこうするつもりは毛頭ない。
「じゃあ、麒淵を目覚ましがてらお茶を淹れ直してくる」
もはや紺樹に礼を言う余裕はない。
それはそうだろう。眼下で、両手で握り拳を作っている蒼はとんでもなく魅力的な姿をしている。なにより、可愛い表情で紺樹への信頼を語る唇は果実のように色づいている。
紺樹は背を丸めて小脇に麒淵を抱えた。人ならざる守霊も寝ている時はずしりと重みがあるのか。紺樹はやるせない思いで敷居をまたいだ。
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