第73話 紺樹4-行き場のない感情-
「はっくしょ!」
蒼が去った後、どれだけ宙を見ていただろうか。
じわじわと自覚していった冷えは、今や紺樹の全身を震わせている。飛び出たくしゃみも吐く真っ白な息も、彼女がくるまでは全く感じていなかったモノだ。
「くそっ。一人で目の前が真っ暗になっていた時よりも最悪な気分だ」
吐き捨てて、見知らぬ幼子が一人いなくなっただけなのにと急に恥ずかしくなった。
なによりも、少女の言葉を真に受け大人しく待っている自分が馬鹿みたいだと思った。
「おちびだって帰って良いと言っていたんだ。俺が寒い中、大人しく待つ道理はない」
紺樹は濡れそぼった髪を荒っぽく掻き回した。それだけでは飽き足らず、長い前髪を掻き上げる。鮮明になった視界には、やはり雨が生み出す霧しか映らない。
それは立ち上がっても同じだった。劇的に世界が変ることなんてない。何を期待し対していたのかと、紺樹は自分を殴りたくさえなった。
「子どもに少しでもほだされたみたいになった自分が恥ずかしい」
『みたい』と濁したのは意地だったのかもしれない。それに気がついた瞬間、紺樹はさらに悔しくなった。結果、紺樹が出した結論は東屋から離れることだった。
東屋から出て数歩出て……紺樹の足が止まった。激しい雨に打たれても前に進めない。ひゅっと呼吸が乱れて激しく咳き込んでしまう。体を折って必死に呼吸を整えようとするがままならない。冷静を取り繕うとするほど、鼻に水が入り、余計にむせた。
(俺は……動揺しているのか?)
問いかけて、自分を分析している冷静な部分に腹が立った。
理由なんて明白だろ。
頭の隅で状況を客観視している自分が鼻で笑った。
本当に嫌になる。紺樹は時折こんな現象に遭遇するのだ。感情とは完全に切り離されたところにいる自分が己をあざ笑うのだ。もがき苦しむ紺樹をぶざまだと。
それでなくとも、ここから離れたところでどこに帰れば――いや、行けば良いのかさえわからない。だから、紺樹の足はどうにも動けない。
「それでも、寒くなった東屋で座っているより、雨に打たれていた方がずっと安心できる」
全身を打つ雨。本当に心地よいと思った。雨に叩かれることによって、今、ここに自分がいるのだと思えた。白く色づく息と色を無くしていく肌が紺樹の存在を証明してくれる。
「うるさくないのに、一人じゃないって思える。雨に打たれていると。ぬくもりはいつか消えてしまうけれど、だからこそ冷えの後にくる熱はわずかでもありがたいと思える。頭痛さえ存在の証明になるなんて、馬鹿げてるよ本当に」
なんて卑屈なんだろう。
紺樹は虚ろな目で己の掌を見つめる。かじかんで感覚をなくしつつある指。まるで紺樹自身のようだと思った。存在するのにまるで無のようだ。
(一番欲しいものを掴めない手は、自分の人生そのものみたいだ。いや、自分の手すら満足に掴めないなんて滑稽すぎるだろ)
握りしめようとしても、もはやその仕草さえ辿々しい。
(おかしい。おちびがいた時は苛ついて、あきれて、ほんの少しだけ。本当にちょっとだけ寒くなったのに。なのに、またなにも感じなくなっている)
紺樹が両手で顔を覆った直後、けたたましく水たまりを踏み鳴らす音が響く。
ふわりと優しい何かが耳をかすめた気がして、紺樹は顔をあげた。
「こじゅおにいちゃん、いてくれた! ほらね、おじい!」
甘く舌っ足らずな声が紺樹の名を呼んだ。なぜかそれだけで紺樹の視界が滲みかけた。
とてもとても幸福だけど、照れくささを含んだ音色が付け加えられる。紺樹は初めて声に色がついて跳ねているようだと思った。シャボン玉のような音。
であるのに、やはり幼子の声は苛立ちを伴う。わけがわからない。
「こじゅおにいちゃん!」
蒼と目があった。牡丹色の大きな目が紺樹だけを捕らえるように向けられている思った。
真っ正面に満面の笑みを受けると、紺樹の頭痛がふと消えた。和らいだのではなく、本当に消えたのだ。耳鳴りもなくなり、ただ心地よい雨音が聞こえる。嫌な物が全部取っ払われたと思えた。
嘘みたいな現象に、紺樹は呆然と立ち尽くすしかない。
「でもでも、なんで東屋のそとにいるの!? ずぶぬれだよ!」
随分と不格好な様子で駆け寄ってくる蒼。
雨具の内側に何かを隠し、さっきはなかった革鞄を背負っている。足下がおぼつかない蒼の方がこけないかと不安になる足取りだ。
「ごめんね! あお、途中まではおじいに抱っこして貰ってたんだけど、おじい疲れちゃって、頑張ってはやあしできたけど、蒼の足、おじいやくれないおにいちゃんみたいに長くないから、おそくなっちゃったの!」
まるでひよこみたいだと、紺樹は思った。
ぴよぴよとよくさえずる蒼を見下ろし、紺樹は無言で踵を返した。長い前髪に隠した顔を見られたくない。そうどんなに唇を噛んでも、紺樹の表情筋は自分が思うよりも素直らしかった。
「まったく、うるさいったらありゃしない」
「ごめんね! うぅ、いつもくれないおにいちゃんやきえんにも怒られるの。あおは騒がしいから、周囲のアゥマも落ち着きがないって」
大股で歩く紺樹の後を蒼は必死になってついてくる。言っていることはいまいち理解できないが。
蒼は腹に入れた物を後生大事に抱えながらも、一生懸命に階段をあがる。その姿に紺樹は一瞬手を差し伸べかけた。が、妙な苛立ちがまた生まれて、すぐに引っ込めていた。
「おちびは俺に帰っても良いって言っていただろ」
紺樹は音を立てて再び東屋の椅子に腰掛けた。
そして、自分に呆れた。なんという生産性のない無意味な行動を繰り返しているのだろうと。
「うん。けどね、ごめんね」
紺樹のぶっきらぼうな言葉に、蒼は何度か視線をさまよわせた。その後、照れくさそうに小首を傾げた。薄藤色の長い髪がふわりと風に舞う。
あぁ、藤の花に桜がまじったような甘さだと思った。まやかしの。触れてしまえばすぐ消えてしまうような。
紺樹は伸ばしかけた手をきつく握る。
「あお、こじゅおにいちゃんがいてくれて嬉しかったの。だめだよね。おにいちゃんが寒いのはだめなのに。帰っていいよって言ったのに、こじゅおにいちゃんにまた会いたいなぁって思ったの。ごめんね?」
謝りながらも蒼は真っ白な頬を桃色に染め上げている。目があうと、俯いて口をひよこみたいに尖らせた。いっちょ前に気まずそうにそっぽを向いたのだ。
紺樹は、ほぅっと顎を撫でる。
甘い口調や態度と反して、蒼は割と周囲が見えていると思った。予想するに周りに大人が多いのだろう。可愛い少女を甘やかすだけではない大人が多いのだと、紺樹は冷静に思った。
そんな自分がまた嫌になった。
「あっあのね! あお、こじゅおにいちゃんに飲んでもらいたいの!」
蒼は舌っ足らずなのだろう。最初から思っていたが、紺樹の名を言いにくそうに紡ぐ。それでも一生懸命な様子で名を呼ぶ少女に、紺樹は少なからず好意を抱いているのを認めざるを得なかった。
(俺を疎む奴らの中には、樹下に捨てられていた紺――深縹色の髪をもつ奴なんて嘲笑する奴らもいる。でも、この子の声は……なんだろう、むず痒いけれど嫌ではない)
不思議な面持ちの紺樹の前で、蒼は膨れた腹から雨具をとった。
あらわれたのは貝がはめ込まれた立派な小ぶりな箱だった。人が人なら地面に置く品かと罵倒するような品だと一目でわかる。
「邪魔をするよ。我が孫が茶を淹れたいとねだってきた少年よ」
石階段を鳴らしたのは、大人の足音だった。かけられた飄飄とした声に、紺樹の肩がびくりと弾む。
近寄ってこないと安心していた男性だ。
蒼があっと声をあげた。驚きよりも咎める色が濃い。
「おじい! あお、待ってっててお願いしたのに! おじいが来たら、おにいちゃんがびっくりしちゃうよ!」
「すまんすまん。でも、おじいも仲間に入れて欲しいんじゃよ。だめかのう?」
蒼は怒りながらも老人に肩車され、きゃっきゃとはしゃいでいる。
「うぅ、こじゅおにいちゃんが良いなら良いけど」
口を尖らせた蒼を持ち上げた老人に紺樹は目を見張った。
高身長のしゃんと背が伸びた老人は、老人と呼べないほど精悍な様子だ。そこいらの美青年に負けない眉目秀麗な顔立ちをしている。白い髪は雷が鳴ると銀髪にも見える。
「少年よ。我が孫娘はこう言っておるが、お主はどうかのう?」
老人の挑戦的な瞳と笑みを受け、紺樹は反射的に膝をつきあわせた拳を額に当てていた。
「あなたは――白龍師傅!! ということは、幼子は我が国の弐の溜まり心葉堂の血筋の方! そうとは知らず無礼をはたらきました」
白龍は学院の客員でもありアゥマ使いの憧れの的だ。さらに言えば心葉堂はいち茶葉店とはいえクコ皇国の弐の溜まりを冠する。むしろ何故皇族ではないかと思う地位の一族だ。
そこには絡み合う複雑な事情があるのだが、紺樹どころか皇族と心葉堂頭首以外が知るよしもない。
「まず肯定するのはわしが白龍であることかのう」
老舗中の老舗である茶葉店の心葉堂の最高のアゥマ使いにして賛辞を受ける茶師。
であるのにも関わらず、かつては自由に世界を駆け回った冒険者という懸隔を持つ人物だ。国中の少年少女の憧れでもある。
魔道学院の編成は二つにわかれる。アゥマを使役するのに長けた者と、使役できるまでの能力を持たない者だ。そもそも血の成分のひとつでもある浄化物質だ。体内に保有しないモノは存在しないのが大前提だ。保有量の問題だけで。
通常アゥマ使役の講師は後者に関わることはない。関わる意味がないと考えるのはひどく合理的だ。少なからず階級的差別があると騒ぐ人もいるが、名目上は職人組だとか一般教養だとかそれらしい名前がつけられている。さして問題にはなっていない。
だが、白龍は希有な存在だ。アゥマ使いの組で教鞭を振るのはもちろん、そうでない組でも講義を行う。彼はいつも力そのものではなく、アゥマという存在がある世界と個がどう関わっていくかや向き合うかに重きをおく。
それ以上に魅力的なのは、アゥマにだけ頼らず経験した冒険譚だろう。
紺樹は学院入学以来、アゥマを使役する組で常に主席でいる。なにも同学年内だけではない。つまりは実質学院の頂点で有り続けているのだ。そもそも同年代の枠に捕らわれずにと始められた評価制度の一環だが、実際に学年の壁を越えて頂点に立つのは白龍以来だった。
唯一といって言い友人の蘇芳にソレを聞いてから、紺樹はずっと白龍に親近感を抱いてきた。
が、どうだろう。実際、本人を目の前にしたら萎縮してまともに目を合わせられない。
「私は青龍門の一族、現当主が――」
続きを飲み込んでしまった。右手に重ねた左手に力がこもる。
今までなら自戒も込めて『嫡子』と名乗ってきた。紺樹の自尊心と同義と表現してもよかったかもしれない口上だ。幼い頃から相手に有無を言わせないような威圧感を込めて口にしてきた。
(今の俺にこの身分を名乗る資格はない)
両親からは直接言われてはいないが、どう考えても正統な血をひく弟が嫡子になるだろう。弟がすでに生まれている今、お目見えがないとはいえ紺樹は口にできなかった。
紺樹の体が小刻みに震え出す。それを自覚して、自分はなんて卑しいんだろうと唇を噛んだ。
「知っておるよ。というか、紺樹とは何度も言を交わしておるだろうに。わしとて幼い孫娘を得たいのしれぬ者には近づけぬよ」
ぽんと肩に触れた体温。紺樹がびくりとなると安心させるように数度跳ねた。最後にくしゃりと頭を撫でられ、紺樹は音を立てて顔をあげていた。




