第72話 紺樹3―捨て子―
「蒼と初めて会ったのは、今日みたいな大雨の日だったな」
紺樹は手近に置いてあった円卓から淵の高い杯をとる。少し黄金がかった色と香りから酒だと推測できる。鼻先を近づけると清涼感を含んだ甘い香りがした。
紺樹はそれを一口で飲み干すと、ぺろりと唇を舐めた。実に上手そうに。
「うん、良い香りだ」
一瞬、蒼は仕事中だと紺樹を諫めようとするが……やめておいた。いくら紺樹がのらりくらりとしているとはいえ、任務中に酒に飲まれる人間ではない。
魔道府の制服を纏っていたとはいえ、今日は休日なのだと予想できる。蒼は紺樹の気遣いに泣きそうになった。ぐっと堪えて茶を飲み干す。
「目の前が真っ暗になった俺の前に、突然聖樹の可愛い使いが現れたと思ったよ」
が、酒を注ぎながら胡散臭く笑った紺樹には腹が立ち思い、切り腿を叩いた。
蒼は腕を組み、頬を思い切り膨らませてそっぽを向く。照れたのではない。本当に怒っているのだ。
「嘘ばっかり! 私、知ってるんだから。っていうのも、知ってるでしょ!」
蒼にとって、紺樹との出会いはとても大切な思い出のひとつだ。普段茶化されているのとは訳が違う。ここだけは誤魔化されたくない。
であるのに、紺樹は飄々と顎を撫でて笑った。
「へぇ。小さいころの話だし、蒼はすっかり忘れていると思っていたよ」
「紺君のばか!」
そんな訳が無いと、蒼は紺樹の鼻先を指さした。
紺樹が焦った様子で身じろいだので、よほど怖い顔をしていたのだろう。若干、頬が引きつっているが、構わず蒼はさらに身を乗り出した。
「私、覚えているんだからね。川に投げ込みたいって言われたのを」
「まいったな、忘れてくれている方がありがたいんだが」
蒼との間に距離をつくろうとせんばかりに、わざとらしく頭を掻く紺樹。蒼の手はその腕を強引によけ、さらに目の端をつり上げた。
一方、紺樹は紺樹で戸惑っていた。いくら冗談を口にしても、蒼がここまで本気で怒ることはほとんどないからだ。
「忘れるわけないじゃない。だって、紺君と出会った大事な思い出なのに」
「だって、ほら。蒼は思い出して落ち込んだりはしないのか? あの頃の俺にひどいこと言われたって」
だから、紺樹の口からはついぽろりと本音が漏れてしまった。紺樹としては、今すぐにでも忘れて欲しい位ひどい口ぶりだった自覚がある。蒼が大切になればなるほど、あの日の自分を殴りたくなるのだ。
「俺は、自分のことしか考えていなかった」
あの日、蒼は大きな丸い瞳をしばたかせた後、いっぱいの涙を浮かべた。
そう、紺樹は鮮明に覚えている。その時点では知らない他人だったとはいえ、自分が蒼を泣かせたことに堪らなくなるのだ。それほど、紺樹は蒼が愛しくて堪らない。
「確かにね、びっくりした記憶はあるよ」
あぁ、やはり自分の感情を伴って覚えているのかと紺樹は内心で頭を抱えた。
表面上は「さすが蒼は記憶力がいいですね」などと笑顔を浮かべてみるが、どうにも口が引きつっている自覚はある。
「あの頃の擦れた俺に謝らせたいくらいだ」
軽い口調で笑った後、紺樹は酒を煽った。薫り高い甘みを伴った酒は思ったより回る。
蒼を元気づける前振りとして過去の話を始めた紺樹だったが、酒の力がなければ当時の口の悪い自分を思い出させるような話は出来なかった。
ので、当初の目的は果たしている気がするが、このままでは悪酔いしてしまいそうだ。紺樹が頭を抱えた直後、蒼は首を傾げた。
「なんで? 私、嬉しいよ」
「はっ? 嬉しい? ちょうどあの頃の俺は、今の蒼と同じ年の頃だったのに、君とは比べものにならないくらい自分の世界に浸って擦れていたのに、情けないとか思わないのか?」
素で返してしまった紺樹の声が雨音よりも大きく鳴った。
しまったと口を覆った紺樹だが、何故か蒼が瞳をとろけさせて嬉しそうに笑ったものだから……情けなく眉を垂らすしか無かった。
「だって、あの始まりがあって、今があるんだもん。っていうか、そっか! あの頃の紺君は、私と同い年か。そっか、そっか!」
蒼は記憶の中にある少年の姿を思い浮かべ、嬉しくなった。追いつかない、追いつけないと焦っていた紺樹にも、自分と同じ年の頃があり、しかも悩んでいた彼の姿を知っている。
いけないとは承知しながら、蒼は記憶の中の紺樹少年と肩を並べられた気がして、くすぐったくなった。
「だから嫌だったんだ。今の蒼とあの時の俺が並べるはずないから」
紺樹といえば、十歳差という年齢の壁を目の当たりにして、自分も老けたのかと少し遠い目をしかけていたが。
「最初は怖かった紺君と一緒にお茶を飲んで、うちに来て貰えるようになって、ご飯やお茶を作ったり食べたり。紺君が作ってくれる包子がすっごく美味しくて、紅と一緒になって夢中に食べてたら、よく口元についた皮をとってくれたよね。お兄ちゃんっていうより、年は離れているのに幼馴染って言ってくれるのが嬉しかった。それから、ずっと家族みたいになって」
そこで蒼は言葉をきった。家族みたいになって、その後は。
蒼の浮き足立っていた気持ちが一気にしぼんでいった。いたたまれなくなって、足をぶらぶらと揺らしてしまう。紺樹に初めて恋人を紹介された日を思い出してしまったのだ。
あの時、蒼はとても悲しかった。
よく覚えている。学院が半日の日は紺樹が遊びに来てくれるのは暗黙の了解になっていた。だから蒼は橋のたもとで、昼過ぎからずっと紺樹を待っていた。が、待てども暮らせども紺樹は来ない。夕方になって、学院帰りの紅に手を引かれて家に戻った。
――紺兄にも用事があるんだよ――
今の紅からは想像もつかない、紺樹をかばう言葉。ただ、当時はごく普通のことだった。
その後、心葉堂を訪れた紺樹に抱き着いた蒼は、すぐそばにいた女性にやんわりと体を離された。記憶にあるのは、とても女性らしい体つきをした妖艶な美人だった。
――紺君は、蒼にまとわりつかれるのが嫌?――
――そんなことは絶対にない。でも、ごめん。俺、今はあの人に付き合わなきゃいけないんだ――
幼い蒼は、大好きな紺樹が心葉堂よりも大事なものを見つけたことが寂しくてたまらなかった。大好きな人に大好きが増えるのは嬉しいはずなのに、ちっとも喜べない自分に驚いて、悲しくなって、自分が大嫌いだと思った。
べそをかく蒼を抱きながら、母は言ったのだ。
――蒼は紺樹のこと大好きなのね。なら、紺樹が本当に大好きな人の傍らで幸せに笑うことができるようになった時は喜んであげましょう? でもね、泣いてもいいの。悲しい時は泣いてもいいのよ、蒼――
――紺君が嬉しいのに? 蒼はおめでとうって言えなかったよ?――
――えぇ。紺樹を祝福することと、蒼が悲しいことは別物だから。幸せを喜ぶことは、実はとても難しいことなのよ、蒼。だからこそ、あなたには色んな形の幸せがあることを知ってほしいの――
ふと思い出した情景に、蒼は懐かしさよりも違和感を覚えた。あの時、母は蒼のことを言っているようで視線は違う人をとらえていた気がする。
結局、その女性は紺樹の養父の仕事関係で隠密のような仕事の相方だったと聞いた。
「えっと、何が言いたいかというとね。昔があるから、今があるってこと! 私は嬉しいの」
蒼は手近にある器を手に取り、ぐいっと煽った。甘い香りが喉元を過ぎると、つぎに熱が生まれた。茶の甘さではない。クコ皇国では十歳を過ぎると飲酒が許される。蒼も何度かは口にしたことがある。ただ、茶の方が好きだと飲まないだけで。
「じゃあ、蒼。少し昔話をしようか」
蒼はふらふらと体を揺らした後、隣の心地よい体温に吸い寄せられた。覚えのある香りと腕のたくましさに、一気に睡魔が襲ってくる。が、必死に瞼をこすり眠気を抑える。
その手をそっと持ち上げ、紺樹はひざ掛けの内側に滑り込ませた。
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「ねぇ、おにいちゃん。こんな雨の中、ずぶぬれでどうしたの? 寒くない?」
どれくらい東屋で臥せっていただろうか。雨をたっぷりと吸い込んだ衣服はとても冷たくなっている。
学院の上位者のみが身に着けることが許される刺繍が施された服がうざったいと思った。こんなもの役に立たないと。
「はっ?」
なぜ自分はここにいるのか。紺樹は深いところに沈んでいた意識を浮上させる。
(あぁ、そうだ。記憶のない身元不明な俺を拾って育ててくれた貴族の両親。俺は両親のために常に一番であろうとしてきたし、実際そうあった。彼らの誇りでありたかった。そのために努力してきた)
であるのに、ずっと不妊だった両親が子をなしたのだ。はじめは一緒になって喜んでいた紺樹だったが、次第に憂鬱さが勝っていった。というのも、紺樹を引き取ってくれた両親はクコ皇国の中でも指折りの貴族である。養子となった出自不明な紺樹をよく思っていない親類は多い。
実際、今回の件で紺樹の学院卒業と同時に地方へ追いやる計画も耳にした。
(父も母も、ことあるごとに今までと何も変わらないと言ってくれる。けれど、それは言わないと崩れてしまうような関係だからだ。普通の親子なら言うまでもない)
懐妊の知らせから約七ヶ月あまり、紺樹は妹ならいいと願ってきた。妹なら可愛がれる自信があった。安産祈願の際は必死で祈った。そうでないと養子である自分の存在の意味自体がなくなってしまう。
そうして、生まれたのは男子だった。玉のようにかわいらしい男子だった。
正妻(といっても妾人は持たぬ人だったが)が男子を生んだ。しかも、もう子を成せないと思っていた年齢で。屋敷中が祝賀雰囲気に沸いていた。同じ日に十六歳になった紺樹を置いて。
おそらく両親を含め紺樹に好意的な周囲は安心しきっていたのだろう。普段から大人より大人らしかった紺樹に。
(俺はどこへ行けばいいのか。逃げ道さえ知らぬ。道を外すことも許されない)
紺樹は捨て子だ。しかも、拾われるまでの六年間の記憶は全くない。
首都に続く街道に捨てられていた紺樹を拾ったのが、今の両親だという。紺樹は当時のことを覚えていないが、捨て子にしてはかなり身綺麗だったと聞く。ただ身につけていたものが多国籍過ぎて身元が全く割り出せなかったらしい。
記憶がなくとも端正な容姿をもち利発だった紺樹。なかなか子を成さずにいた両親の目に留まり養子となったのだ。
「ねぇ、ねぇ。おにいちゃん、さむくない?」
紺樹は頭先にかけられた甘い幼い声に苛立ちを覚えて、意識を取り戻した。無視していたのに、まだいたのか。
雨に濡れたのと気分のせいで重い頭を、少しあげる。
「ちっ」
あからさまな舌打ちが鳴った。平素の自分ならともかく、今はガキの相手などしていられない。空虚が占めていた紺樹の中に苛立ちという感情が戻ってきた。
「何か用か、おちび」
無垢さを惜しげもなく纏う少女は五・六歳ほどだろう。舌打ちなどされたことないであろう少女は、真ん丸な牡丹色の瞳をさらに大きくしている。保護者はいないのかと周囲を見渡すと、東屋の階段下の離れた場所に男性が一人立っているのが見えた。わけもなくイラついた。
「構って欲しいだけなら、今すぐ消え失せてくれるかな。でないと、親が来る前に川に投げ入れてしまいそうだ」
紺樹は重い頭を必死で持ち上げ、苦々しく口元を挙げた。いい子の皮をかぶってきたせいか、たがが外れた今、ひどく醜い感情があふれてくる自覚はあった。何の罪もない目の前の小さな子供にさえ苛立ちを覚える。
と同時に、早く自分の前から逃げて欲しいと思った。
心臓がばくばくして、頭が痛くて。でも、激しい衝動で目の前の小さな存在に八つ当たりしそうな自分が怖くなった。
(やっぱり、俺はひどいことをしたか、その血縁だから記憶を失って拾われたんだ)
誰にも必要とされない自分など、いっそのことすぐ横の川に身を投げてしまおうか。紺樹はそう思って、やけにすっきりとした気持ちになった。
なんだ、それがいい。自分など消えたらいいのだと思って心が軽くなった。
「おにいちゃん、まゆ毛のあいだにすっごいしわがあるよ?」
人慣れしているのだろう。少女は物怖じしない様子で首を傾げた。背伸びをして触れてこようとする指。白くて小さくて、あたたかそうな手。
紺樹はどうしてか恐怖を抱いた。握りつぶせそうな位な幼い手なのに。
「やめろって!」
「っいた!」
紺樹の悲鳴に近い叫びと同時に、ぱちんと激しい音が響いた。
我に返った紺樹が恐る恐る乾いた音の元に視線を落とす。前の前にいたのは、石床に尻もちをついて雨具の防止部分がずり落ちていた。綺麗な淡藤色の長い髪が雷に映し出された。後ろの円卓に頭をぶつけなくてよかったと、紺樹は胸を撫でおろした。
と、かぁっと全身が熱くなって立ち上がっていた。
「どっどこの子どもか知らないが図々しいにもほどがある! 俺は一人でいたいんだ。これ以上、なにかされたくなかったら家に帰れよ!」
紺樹は東屋より低い場所にいる男性を指さした。かぶっている雨具のせいで男性の表情は見えないが、なぜか彼は焦っている様子がない。暢気にあごひげを撫でて様子を見守っている。逆に紺樹の方が大丈夫かと不安を抱くような落ち着き具合だ。
「――へん」
か細い呟きが聞こえ、紺樹は体を少女へと向き直す。紺桔梗の瞳に移ったのは、大きな目にあふれんばかりの涙を溜めている少女だった。抱えているのは真っ赤に腫れあがった右手だ。
あぁ、大泣きするなと紺樹は瞼を閉じた。ついでに、音を立てて腰掛ける。自分の曖昧な熱が残ったそこはひどく気持ち悪く感じられた。
「たいへん!! おじい、たいへんだよ! おにいちゃんのアゥマがたいへん! ぎゅうぅぅって感じ! あお、びっくり!」
紺樹の予想に反して、自分を蒼と呼んだ少女はすくりと立ち上がり男性に向かって謎の踊りをし始めた。両手を前に突き出しパタパタと動かしたり、腕をさすってくるくると回っているのだ。
回る度にふんわりとした裾子が躍って、雫を飛ばす。
「はっ?」
いやいや、大泣き寸前じゃなかったのかと紺樹は拍子抜けもいいところだ。毒気が抜かれたというか、今まで接したことがない部類の反応に戸惑うしかない。
すぐに紺樹は思考を切り替える。相手が何を目的とし、どんな意図があるのか慮るのは得意な方だ。
(この子、アゥマが大変だと口にした。まさか俺のアゥマの使役力が落ちているということか?)
が、紺樹の思案は見事に無駄に終わったのだ。紺樹の考える『大変』と蒼が言う『大変』は全く内容が異なったのだから。
「おにいちゃん、おなまえは!?」
「はっ、いや、なんでそんなことおちびに言わないと――」
いけないんだと切り捨てることは、紺樹にできなかった。
紺樹の膝に両腕を乗せて、まっすぐ見上げてくる牡丹色の瞳に気おされた。六歳ほどの少女に。いや、年齢など関係なかった。じわじわと紺樹の耳元に熱が集中してくる。
(こんなに真剣で真摯な眼差しを向けられたのはいつぶりだろうか)
そう。蒼という少女をこれ以上無下にできない理由はたった一つ。好奇心でも同情でもなく、ただ紺樹という存在を射抜いているからだ。
心臓がうるさくなるような強い視線の色。
(あぁ、そうだ。俺は知っている。知っているんだ)
目の前の少女はどうでもよかった。紺樹は思い出したのだ。同じように自分という存在を向き合ってくれた視線を。
(父と母、それに蘇芳)
蘇芳とはこの国の皇子であり、学院入学以来の悪友だ。
紺樹の事情は貴族社会では有名な話だ。彼を嫌悪する者、機嫌を取ってすり寄る者と様々な感情を向けられてきた。
当時の紺樹は目には目を歯には歯をの精神だった。やられたことは倍未満できっちり返す。しかも教師や大人にはバレないうまい手段で。蘇芳はそんな紺樹を器用だが馬鹿と称した。そして、何より面白いと言ってくれた。
「紺樹」
だから。だから、蘇芳に名乗った時とかぶって口が動いただけだ。しかも、ひどくぶっきらぼうな口ぶりだった。むしろ吐き捨てるようだと表現した方がしっくりくるくらいだった。
なのに、蒼はぱぁぁっと顔を輝かせたのだ。名を知れたことがよほど嬉しかったのか、足ぶみを繰り返す。
「こじゅおにいちゃん」
蒼は頬を桃色に染めて、まるで宝物のように名を呼んだ。いや、紡いだ。
両頬を両手で抱えていた蒼だが、はっと背を伸ばし紺樹の投げ出された両手を握ってきた。あまりの熱さに紺樹は驚きのあまりのけ反った。
「あお、半刻で戻ってくる! でも、こじゅおにいちゃんはおうちに帰りたくなったら帰ってね!」
ぴょんと跳ねた蒼は、言いかけながら階段を駆け下りていた。雨具を被るのも忘れて待っていた男性に飛びついた。激しい身振り手振りで男性の前で踊っていた少女だが、男性深く頷き蒼を抱えて走り出した。
「おっおい! どういう意味だよ! おちびは戻ってくるのに、俺がいなくてもいいのかよ!」
はっと我に返った紺樹の叫びは誰にも届くことはなかった。
紺樹は伸ばした右腕を所在なさげに後頭部に持っていくしかなかった。がしがしと掻いた髪はひどく湿っていた。そこで紺樹は己を包む冷たさを再認識したのだった。




