第71話 紺樹2-気づいた蒼と隠したい紺樹-
「私、やっぱり全然成長できてない」
呟いたか細い音が部屋に響く。少女らしさを残す甘くてどこか舌っ足らずな音。
声の主は自覚して、さらに背を丸めた。いつになったら大人になれるのだろう、と。昔は年をとれば自然と大人という定義に近づいていくのだと思っていた。
(ところがどっこいだよ。私は心葉堂の茶師になっても、いつまでも甘えたな蒼のままだ)
蒼はふわふわの毛布に身を包みながら、長椅子の上で丸くなった。その隣で寝ている麒淵はまるで猫のようだ。蒼に寄り添うように、という当たりがさらに。
蒼が麒淵から視線を逸らすと、目に入ってきたのは暖房器具だった。四つ足の黒い暖房器具の中では炎が揺らめいている。確か薪は昨日一晩の間に使い切ってしまっていたはずだ。
(紺君いつの間に用意してくれたんだろう。……違うか。きっと麒淵だ。私が紅を探し回っていたから、部屋をあっためてくれてたんだね)
麒淵を起こさないように、蒼はゆっくりと濃い緑の髪に触れた。麒淵は守霊に体温なんて無いと言うが、掌から流れてくるのは確かなぬくもりだ。
柔らかそうな麒淵の頬をつんと弾いてみると、一瞬「やっやめぬか――」と眉間に皺が寄ったが、すぐに寝息をたてた。
(よく聞こえなかったけど、だれかの名前かな? 私の名前じゃ無かった気がする)
麒淵に顔を近づけようと背を丸める。思いがけず首筋に触れた濡れ髪に、短い悲鳴があがった。
いつもは両側で結われているうさぎのようなお団子が、今はほどかれている。長い淡藤色の髪はわずかな明かりの中では目立たない。
(紅の赤い髪なら――ううん。だめだ。本当なら髪なんてちゃちゃっと拭いて、紺君に相談しなきゃいけないのに)
理解はしているのに、蒼の腕はあがらない。抱え直した膝から離れてくれない。
よくよく考えなくても、蒼は本当に一人きりになったことがなかった。幼い頃から家族が側にいて、繁忙期の中で熱を出して寝込んでも怪我をしても紅や麒淵が看病してくれた。両親も閉店後や休業日には思い切り甘やかしてくれた。学院にあがってからは、真赭や浅葱が楽しいときも辛い時も一緒にいた。
(そういえば、紺君と出会ってからはいつもどこかい紺君がいたなぁ。紺君が学院時代は帰りに寄ってくれたり、魔道府に入ってからも休日には勉強を教えにきてくれたり)
修行に出てからだって、黒龍師匠や里の人たちがいつも気にかけてくれていた。両親が亡くなって心葉堂の茶師を継いでからだってそうだ。
(紅とおじいがいてくれた。紺君と蘇芳様が華憐堂にいたのを見てへこんだときだって)
当たり前すぎて気がつけなかったと、蒼は膝に顔を埋める。
たった先ほどまで、紅を探し回っていた蒼は世界にたった一人取り残されている感覚に陥っていた。広い屋敷も程よい規模の店や茶房も、等しく冷たいと思った。そう思った瞬間、心臓が凍り飛び出していた。本調子でない麒淵を守りたいと思う反面――。
「私、逃げたんだ。麒淵を守るのに自分だけじゃ力量不足だって、弱っている麒淵の力になれないって、お兄ちゃんに縋ろうとしたんだ。最低だ。人を思いやる茶師として成長してない云々以前の話だった」
戸が開かれた先、渡り廊下を打つ激しい雨音。庭の木の葉や花も打たれているだろう。一見、儚いように思えるそれらも降り注ぐがままの雨や冷たい空気を受け止めているのにと、蒼は唇を噛むしかない。
「蒼、お待たせ」
大好きな雨音にさえ耳をふさごうとした瞬間、蒼の耳に紺樹の柔らかい声が届いた。
勢いよく顔を上げた先には、茶盆を抱えた紺樹がいた。ひどい呟きを聞かれなかったかと蒼が真っ青になる。
けれど、紺樹は飄飄とした足取りで部屋に入ってきた。魔道府の制服ではなく、白龍の長包を纏っている。くすんだ深緑色に近い鶯色が新鮮だ。
「ほら、あれだけ髪をきちんと拭きなさいと言っておいたのに。まったく、監督役の麒淵が眠りこけているなんて」
「えっと! 麒淵は最近ちょっと調子が悪そうで!」
自分の無精を麒淵のせいにされてはたまらない。蒼が立ち上がろうと長椅子に片手をつくと、そっとそこに大きな掌が重ねられた。
とたん、蒼の体中が熱を持つ。血管が沸騰しているのではないかと思えるほど、熱くてしょうがなくなった。おかしい。少し前まではこんなことなくて安心できたのにと、蒼は目をそらす。
「わかってるよ。むしろ俺が怒っているのは、蒼が髪を拭かずにぼけっとしていたことだから」
紺樹は苦笑いで側に置いてあった布で、蒼の髪をわしゃわしゃと拭きだした。
蒼はぼんやりと思う。人に髪を拭いて貰ったのはいつぶりだろうかと。紅や白龍。そして――蒼が修行中に里帰りをした際、母と父が競いながら拭き回されたのを思い出した。結局、白龍が止めに入り、紅が乾くまで拭いてくれた。
(だから、お母さんは拗ねて一緒に寝てずっと手を握ってた。お父さんは旅立つ朝にぎゅうって握ってくれた。今でも、覚えている)
蒼は両手を握りしめることはしない。
今そうしてしまったら、最後に両親に触れた感触が無くなってしまう気がしたから。
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「少し昔話をしようか、蒼」
沈黙を破ったのは紺樹の静かな声だった。
雨音だけなのに、色んな音が鳴る空間で湯の熱と茶のぬくもりを取り込んでいた蒼。中低音の耳に優しい音に、一瞬うとりとしかけていた上半身が跳ねた。
「こん、くん?」
蒼は瞬きを繰り返す。そうしないと、襲ってくる眠気に勝てない。目を擦ると幾分か視界がひらけた。
蒼は改めて首を傾げる。だってそうだろう。半刻ほどは二人して雨音に耳を傾けたいたのだ。
「ははっ。そんなに呆けていると手から茶杯が落ちてしまうけど?」
「わっ! 久しぶりに紺君が淹れてくれたお茶なのに!! 零したらもったいない」
蒼が慌てて杯を両手で持ち直す。その拍子に、肩からふわふわの毛布がずれ落ちた。腰掛けている長椅子にも毛皮が敷かれていて座り心地がいい。
一番はわずかにふれあっている腕のせいだと蒼は思う。
「でもさ、どうしたの? 急に」
「急にじゃないさ」
きっぱりと微笑む紺樹。蒼は、はてと大きな牡丹色でじっと紺樹を見上げる。
紺樹は胡散臭い笑顔を貼り付けたまま、じっと待つ。蒼の隣で猫のように丸くなって寝ている麒淵が何事は寝言を口にする以外は、雨音しか鳴っていない。開けられた扉から廊下を見れば、長い廊下はすっかり濡れているようだった。
「俺が茶を持って戻ってきた時、蒼は言ってただろう? 自分は成長していないって」
「きっ聞いてたの!?」
蒼は考えるより先に立ち上がっていた。茶杯を落とすことはなかったが、毛布は思い切り長椅子の背の後ろに落ちていった。あまりの勢いに麒淵が一瞬瞼を持ち上げたが、すぐに「なんじゃ、蒼か」と納得したように夢の世界へと旅立ってしまった。
蒼は慌てて茶杯を脇の円卓に置く。中身が零れていないことを確認し、ほっと胸をなで下ろす。
「別に驚くことじゃないだろ。雨音や雷がなっているとはいえ、人気がしない屋敷の中だ。声がよく響いてもおかしくない」
「れっ冷静に分析しないで欲しいな! じゃなくて!」
蒼はそれ以上なんと言って良いのかわからず、真っ青な顔を真っ赤に変えて背を向けていた。よりによって一番聞かれたくなかった人に知られ、恥ずかしかったのもある。が、紺樹がさも平然と宥めてくるのが恥ずかしかったのだ。
つまりは、紺樹は蒼が落ち込んだり成長していなかったりを普通だと思っている。蒼には、そう思えた。
「冷静なわけじゃないさ」
「じゃあ、冷静じゃ無くても私なんていつまでも紺君にとったら未熟もので、子どもなのかな?」
駄目だ。これでは八つ当たりだ。声こそ荒げずに、極力音量を抑えたが逆に苦々しさを増してしまった気がする。蒼は自分の情けなさに泣きたくなった。
「蒼」
握った右手の拳に、戸惑い気味な声と同じ色で指が触れてきた。とても冷たい指先に、びくりと体が跳ねた。
蒼は恐る恐る振り返ると、物憂いを映した瞳で見上げている紺樹がいた。
「正直――こんなことを口にするのは、男として情けないが」
紺樹はしどろもどろに前置きをして、蒼の手を思い切り引っ張った。歯切れの悪い紺樹に驚いていた蒼は、あっさりと紺樹の方へと倒れ込んでしまった。
気がつけば、蒼はすっぽりと包まれていた。大きな腕に。紺樹の右肩に寄りかかる形になった蒼が顔をあげようとするが……頭の上に顎をのせられ、阻まれてしまう。
「せめて情けない顔は見ないでくれよ」
「えっ、え? 紺君が情けない顔? 見たことない」
「そう。でも、意地っ張りな蒼が俺に甘えてくれて弱音を聞かせてくれたから。不公平だろ? 蒼だけにそうさせるなんて」
照れくさそうな声が蒼の耳のすぐ側で鳴る。蒼の目がまん丸と見開かれて、すぐにくしゃりとつぶれてしまった。反対に心は不思議なほど軽くなっている。
そうだったと、蒼は思い出す。蒼が修行に出る前までの紺樹だと。蒼を甘やかすけれど、いつも対等に扱ってくれていた頃の紺樹だ。
(そうだ。私が落ち込んだのも、立ち直った後も――今、不安な理由がわかった)
紺樹の腕を掴み、顔を埋める。自然と溢れてきた涙に、蒼は気がつかない。むしろ、頬を流れる涙があたたかいとさえ思った。
「蒼は成長していないと言ったけれど、俺にとったらむしろ逆だよ」
いつか聞いた紺樹の声とそっくりだった。蒼が学院に入学したとき、アゥマを使役できるようになったとき、学院を卒業して修行に出ると告げたとき。節目節目で紺樹が口にした台詞と声だ。どうして今まで忘れていたのだろうと蒼は喉を詰まらせる。
それは蒼が修行から戻った後、紺樹が意識して制御していたのだが……蒼が知るところではない。
「君は出会ったときからずっと俺より先にいた」
「そんなことないよ。だって、私……少し前に、浅葱の店に行く途中に紺君と萌黄さんにあったでしょ? その直前までね、すごく落ち込んでた」
紺樹は黙っている。恐らく、原因に心当たりがあるか時系列的に察したのだろう。
察しのよすぎる幼馴染みに蒼はふんわりと笑った。
「今だから言うけどね、街のアゥマと天候が不安定な理由を探っていたの。そしたら、華憐堂に行き着いてね。ちょうど、蘇芳様と陰翡お兄ちゃん、それに――紺君が出てるところに遭遇したの」
紺樹がひるんだ隙に、頭をずらし顔をあげる。目の前には伸びた前髪に表情を隠した紺樹がいる。蒼は立てていた膝から力を抜く。腿同士が触れると紺樹の体がわずかに動いたが、離されることはなかった。
「自分が未熟だからだって落ち込んだ。薬になる丹茶が作れないっていう引け目もあってね、紺君のお母さん――東雲さんの丹茶を私的に貰いに行ってたのが」
あの時の気持ちを思い出すとまだ辛い。
が、蒼はどうしてあの時、あそこまで落ち込んだのか唐突に理解できた。先ほどの紺樹の言葉から。
(紺君が遠かったのは立場だけじゃない。魔道府の副長と接してくるからじゃない。おいて行かれているって思ったのは、どんなに私が紺君の隣に駆け寄っても未熟だとも成長したともなんとも思われてないと感じていたからだ)
朱色の欄干を越えて、雨が廊下を打つ。
「私が修行から帰る前なら、紺君は説明してくれてたと思う。私に丹茶が作れないから、華憐堂にお願いするって。理由がいえないとしても、貰うって言う事実は話してくれていたのにって」
蒼は「なんだなんだと」と深く頷く。自分が傷ついて理由は、そこにあったのだと。
と同時に、自分勝手に話を逸らしてしまっていたことに気がついた。
「あっ! ごめん! 話が思いっきりそれちゃって! そんでもって、重いよね!」
蒼が慌てて床に足をつく。とにかく寄りかかるようにしていた体勢から、ちゃんと横に据わろうと腰を浮かせた瞬間、とても強い力に引き戻された。
ついで、髪と肌の曖昧な空間に触れた柔らかさに、ぞくりと得たいのしれない感覚が蒼の背を走り抜けた。呆然としている合間も、ぬくもりが離れる様子はない。というか、より深く踏み込んで――はまれた、気がした。
「ほら、そうやって君は一人で解決して先にいってしまうんだ。俺が追いついて欲しくて、追いかけて欲しくて、でも俺のことなんて見ないようになればいいという矛盾にさいなまれているうちに」
紺樹の鋭くて冷たい、そしてモノ悲しげな呟きが蒼に届くことはなかった。轟いた雷よりも激しい感情は、すぐに引っ込んでしまったから。
「うん? ごめん、紺君。雷の音と重なって聞こえなかった」
ただ、蒼も紺樹の様子がおかしいのは察したようだ。腕の力が緩むと同時に振り返り、両手で包むように頭を撫でる。紺樹はその手を掴み、そっと胸元まで下ろした。
「蒼は昔からすごかったよ、って言ったんだ」
「んーアゥマの共鳴力のこと?」
「違うよ」
ぽんと、蒼の手首を掴んだのとは反対の手で額を叩く。拍子に、自然と蒼の体が紺樹から離れる。立ち上がった蒼は疑問顔で額を押さえたまま、紺樹の隣に腰掛けた。蒼の長い髪から飛んだ雫を己の髪や頬から拭うこともせず、紺樹は立ち上がり円卓で茶をつぎ直す。
いささか冷めたとは言え、保温性が高い茶盆のおかげで注がれる茶からは湯気がたっている。甘い香りはまるで花が咲いたようだ。
(香炉の存在を忘れていた)
炭に火をつけ、たっぷり待つ。香炉の中にある灰の上に置く。これだけでも良い香りだと紺樹は思う。素朴で懐かしさを含んだ、幼い記憶を呼び起こすような脳に染みる匂いだ。あったまってきたら、香を灰に乗せる。
雨の中で炊く沈香は、あまり熱があがらないせいか香りが弱い。が優雅な香りは変らない。沈静効果もあるこの香は紺樹が自分用に用意したものだ。
「さて、話を戻そうか。昔話だったな」
香炉を丸窓の枠に置く。風が吹き込む扉とは反対側にある窓だ。今は硬く閉められている。
蒼は紺樹が醸し出す雰囲気に押され、ただ静かに頷いた。はっと思い立ち、長椅子の後ろに落ちていた毛布を拾い上げた。そして、曖昧な距離をあけて腰掛けた紺樹の膝と自分にかける。なぜか紺樹に軽く睨まれたが、剥がされることはなかったのでよしとした。
「俺にとって蒼は適わない存在だよ。あの雨の中、東屋で一人腐っていた俺と出会ってくれた日から」
六歳ほどの蒼は白龍に連れられて外出していた。帰り道どしゃぶりにあったのを今でも覚えている。蒼は雨具をつけていたが間に合わず、白龍に抱えられて東屋通りを駆け抜けていた。子どもだった蒼は、大粒の雨に濡れるのも、大好きな祖父に抱えられるのも、ましてや人通りの少ない街を疾走するのが冒険で全てが楽しくて大興奮していた。
(おじいの肩に乗っかって、遠ざかっていく町並みも、普段は翁たちが楽器を鳴らす東屋もがらんとしていたのが印象的で、幻想的で楽しかった)
蒼は微笑みかけて、鮮明に思い出した。
はじけた光の先にいたのは――濃い青の深縹に光を灯さないずぶ濡れの少年の姿。学院の制服を着崩し、ただ虚しい視線を宙に向けていた。未成熟な体は泥だらけだった。
(そうだ。気がつけば私、おじいの肩から乗り出して回転して地面に降りていたんだっけ。うぁ、今思い出すと恥ずかしい!)
昔からお転婆には定評があった蒼だ。白龍の手からすり抜けた蒼は、一心に紺樹へと駆け寄っていた。小さな足を必死に動かし、東屋の階段を上った。
――何か用か、おちび。構って欲しいだけなら、今すぐ消え失せてくれるかな。でないと、親が来る前に川に投げ入れてしまいそうだ――
蒼が雨や雪以上に刺さるような冷たい声を聞いたのは、ソレが初めてだった。