第70話 紺樹1-紺樹と心葉堂-
キィィと心葉堂の扉が軋む。いつもならゆっくりと開ける扉を、紺樹が急いて押したせいだろう。
紺樹は心葉堂の解錠魔道の呪文を教えられている。居住空間のある裏門よりも、店の方が表通りに近い。そのため、蒼を雨のない場所に連れてくるのに都合が良かったのだ。
「さすが心葉堂ですね。休業していても、しっかりと温度管理やアゥマの調整がされています」
紺樹が掌を入り口すぐにある角灯に手をかざす。桜をあしらったガラスの内側に、ぽっと明かりが灯った。それを合図に、店内のいくつかの角灯もあたたかく色づいていく。これで躓かない程度には歩ける。
「店の床を濡らしてしまうのは申し訳ないですが、今は私も蒼もずぶ濡れですから。紅には後できちんと謝りましょう。まぁ、元は蒼に黙って外泊なんてしている紅が原因ですけど」
紺樹の言葉に、俯いている蒼の体がぴくりと反応した。推測するまでもなく『紅』にだろう。でも、蒼は唇をきゅっと結んだままだ。
きっといつもの蒼なら『本当だよ! でも紅だって大人なんだし、でもでもさ、心配はするよね!』と怒りながら心配して、紺樹に同意を求めてきただろう。
(先ほど、蒼は紅の失踪について、あからさまな可能性を言葉にしなかった)
感情豊かでよく怒ったり泣いたりする蒼だが、状況を分析できない人間ではない。何も知らない状況ならいざしらず、心葉堂が休業状態の時期に白龍が旅に出て、紅が魔道府に呼び出されている中、蒼は一人のほほんと出来る性格ではない。
(蒼も、紅の失踪の裏になんらかの意味を察しているのだろう)
だから、蒼は紺樹に抱きついてきた時、ただ紅がいなくなったという事実だけを訴えた弐違いない。
紺樹は蒼の手を引いてきた左手に力を込める。
「もちろん、蒼も一緒にお願いしますね? 私だけだと確実に軽く二週間は出禁にされてしまいますから」
あいた手で、蒼の頭を軽く撫でる。その拍子に、頭からかけてやっていた紺樹の雨具がずり落ちた。
平素の蒼なら、人様の雨具を汚してしまうと慌てて拾い上げるところだろう。けれど、蒼は俯いたまま、全身から雨滴を床に落とし続け微動にしない。床だけでは無い。長い髪がくくられているせいで、襟から露わになっている首筋にも雫は伝う。紺樹は思わず凝視してしまった。
が、すぐに心の中で自分の頬を殴り、不自然にならないように視線を店奥に向ける。
「雨具をここで干すわけにもいかないので、住居空間の方に移動しましょう」
むろん、紺樹にとっては雨具なんてどうでもいいし、蒼の様子の方が気がかりだ。
とはいえ、どちらかと言わなくとも紺樹自身、波打った喉を誤魔化すことに必死だった。
いつものように気の利いた言い方ができなかったものかと、内心で溜息をつく。
「おっと。雷も鳴り始めましたね」
人知れずあがる体温を誤魔化すための言葉だったが、実際ステンドグラスがはめ込まれた木の扉の向こうでは激しい雨音が聞こえ始めてきた。
静まりかえって温度のない店内には、殊更響く。雷も紺樹の声も。
「蒼、大丈夫……ではないと思いますが、まずは蒼の体が心配です」
紺樹が身をかがめて、俯いている蒼の顔を覗き込む。けれど、蒼は動かない。いつも何かしらの反応を見せる蒼が。
それだけ、今の蒼にとって紅の失踪はこたえているのだろうと、想像にかたくない。
「蒼」
うさぎの耳のようにくくられた長い髪を手の甲でよける。それでも、見えたのは虚ろで、それこそうさぎのようも真っ赤になった瞳だった。痛々しい染まり具合に、紺樹の胸ははりさけるように痛んだ。
それでも、紺樹は表には出さない。微笑んだままの笑みが崩れることは無い。
「蒼、ひとまず風呂に入ってきなさい。一体どれだけ雨の中歩き回っていたらこんな状態になるんだか」
紺樹が繋いでいる手を離そうとすると、蒼は音をたてて顔をあげた。
「――っ!」
言葉なく紺樹を見上げる目には、めいっぱい涙がたまっている。
それだけで、紺樹の胸は大きく跳ねた。縋るような視線と甘えるように握られる手。それに反するように、決定的に甘える言葉を出せずただ震える青い唇。
「蒼――」
紺樹が思わず魔道府副長の仮面をはがした声色で名を呼んだ瞬間、蒼はひしと抱きついてきた。片手は繋いだまま、もう片方の手が必死に紺樹の背中を掴んだ。それだけでも、蒼が震えているのが伝わってきた。ふわりと丸い後頭部を撫でると、蒼はしゃくりあげはじめた。
「こん、くん。おじいは、旅にでてるの。それで、私、紅とふたりで。お店、しめてても、紅と頑張るって。でも、昨日、魔道府に行くって言って以来、紅が、かえってこなくて、さがしてもいなくて」
紺樹が触れるたび、蒼はぼろぼろと涙を零し始めた。
「わっわたしの、せいだ。先日の、華憐堂での件で、暴漢に襲われたのかも、しれない。わたしのせいで、魔道府の仕事の邪魔、しちゃって」
蒼は堰を切ったように話し始めた。
魔道府も武道府も不安定な気候とアゥマの状態から、街の見回りを強化している。そんな状況で紅が姿をくらましたのは、十中八九、敢えて魔道府が放置している可能性の方が高い。
もちろん、紺樹から蒼に今は告げることなんてできない。
「誰も――少なくとも、家族や蒼をよく知る者は、心葉堂の水のせいで萌黄さんが怪我をしたなんて思っていませんよ」
「みんな、庇ってくれる。でも、私がかけたうちの溜まりの水が萌黄さんに火傷を負わせたのは事実だよ。街で怖い顔で近づいてくる人たちがいたのも。内緒話も聞こえた。石みたいなのなげられた。雄黄さんと彼女さんが助けてくれたけど。じゃなくて、私にはいいの。でも、だから、紅だって危険な目にあっていても、おかしくないの」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を必死に手の甲で拭う蒼。しゃくりあげるたび、肩に乗る髪がはらはらと滑っていく。
紺樹は微笑みを浮かべたまま、肩から髪の束を下ろす。しかし内心はとんでもない、少なくとも蒼には見せられない感情が埋めていている。
(この件が落ち着いたら、そいつら全員、ただじゃおかない)
蒼の頬を撫でると、蒼はおとなしくすり寄ってきた。その拍子に目尻から溢れた涙が、紺樹の手を濡らす。
親友たちの前とはいえ、我慢していたのだろう。そして、自分の前ではありのままの姿を見せてくれる蒼が、紺樹は愛おしくしかたがなかった。紺樹としては不本意に副長の仮面が剥がれた直後というのも、嬉しくて堪らない。
案外真面目な蘇芳が耳にすれば、『不謹慎だぞ』と叱られる自覚はあるが。
「怖かったよな。大丈夫。紅は絶対見つけるから」
だから、つい口調を崩してしまった。前に浅葱の店に向かう途中と同じだ。
(距離をおかなければと思うのに、この子は本当に無防備に懐にはいってくる)
紺樹はずっと過保護な程に蒼を守っていた。それこそ出会った蒼が六歳程の頃から。
けれど、蒼が修行に出ている間に、紺樹は自分の出生を思い出してしまった。それからは、紺樹は蒼に抱いていた想いを封印することにした。
(それでも、俺は蒼が大切なことに何ら変わりは無い)
ただひたすらに自分を求めて縋る蒼。紺樹は彼女の震える背を撫で、囁く。
「大丈夫だ」
触れる肉体の柔らかさは覚えがあるものと全然違うのに、撫でる背の大きさは変わらない。その差に、紺樹も戸惑いを抱かざるを得ない。
いつかこの背中を、存在を独占する男が出現するだろう。紺樹はきつく瞼を閉じる、それは兄の紅でもなく、ただの幼馴染みに徹する紺樹でもない。その時、紺樹は自ら置いてきた距離を悔やむのだろうか。それとも、大事な子が幸せそうに微笑む姿に満足げに頷くことができるのか。
(ははっ。後者は全く想像できないな)
自嘲気味な笑みを口の端に浮かべ、紺樹はすぅっと息を吸う。冷たい空気が喉に染みた。気がつけば、指先もかじかんできたようだった。
自分がそうなのだから、蒼はもっとだろう。紺樹は気持ちを切り替える。
「紅は失踪直前、魔道府長官に呼ばれていた。なのに姿を現さなかった紅の調査ってことで、俺は今ここに来ているからしばらくは一緒にいられる。なんなら、泊まりでも問題ない。蒼が望むなら一晩中側にいるよ」
蒼の頬を撫で笑う紺樹。口調は幼馴染みのまま、顔には蒼や紅に胡散臭いと言われる笑顔を貼り付けて。
紺樹の計算では「紺君、曲がりなりにも女性に対して失礼だよ!」と蒼が諫めてくれる予定だった。が、当の蒼は顔をぱぁっと明るくして見上げてきたではないか。
「本当に? 紺君、一緒にいてくれる? お仕事忙しいのに、大丈夫なの?」
蒼が紅以外に我が儘を言うことは珍しい。
最近で言えば、紺樹だって言われない側の人間だった。蒼は紺樹の前では凛と大人ぶろうとしていることが多かったから。
「もちろんだ」
気がつくと、紺樹は自然と蒼の額に自分のものを擦りつけていた。寒くてしょうがないのに、蒼と触れあっている箇所だけが焼けるように熱い。
「あぁ。それに、どうせ抱きついてくれるなら、あったかい方が嬉しい。だから湯につかってこい」
頬を寄せた紺樹に若干の身じろぎをした蒼は、しばらく考え込んだ後、とんでもないことを口にした。
「紺君は側にいてくれるんだよね。なら、私、お風呂に入るよ。声が聞こえるところにいてくれる? 子どもっぽいって思うかもだけど、今日だけ、お願い」
上目遣いで口に手を当てた蒼に、紺樹の意識は飛びかけた。
「だめ、かな? 知らない間に紺君も消えちゃうのかなって不安もあるんだけど……紺君の声を聞いていると、すごく安心するから」
おまけに、固まっている紺樹を不安げに見上げ、小首を傾げたときたもんだ。潤んだままの牡丹色の瞳にじっと見つめられ、紺樹の心臓は年甲斐もなく踊っている。殺し文句も良いところだ。しかも、無自覚。
それでも、紺樹は必死に理性を総動員した。
「あぁ、風呂場の入り口の前で見張っているよ」
「ほんと!?」
見て明らかに、蒼の頬が色づいた。紺樹には嬉しそうな声と表情だけで、室内が一段階明るくなったように思える。そして、まるで花茶が開いたように、甘い香りさえ漂ってきている錯覚に陥った。
実際、蒼と一緒にしょぼくれていたアゥマたちが、蒼の感情に共鳴して騒ぎ出したせいなのだが。それは紺樹も蒼も知るところではない。
「じゃあ、ちょっと待っててね! お湯溜めて、着替えとってくる! あっ! 紺君の着替えも持ってくるね。っていうか、私の前にお風呂入る? 紺君の方が風邪ひいたら大変だもん!」
ぴょんと勢いよく飛び上がった蒼の額を、思いっきり叩いた紺樹を誰が責められようか。当の蒼も「あいたっ!」と声をあげたものの、ほんの少しだけ頬を緩ませて額を摩った。
蒼が完全に顔を上げる前に紺樹をその背中を押す。幸い、蒼は素直に推される力に従い、屋敷の奥へと駆けていった。
「蒼は俺のこと、幼馴染みどころか犬猫だと思っていないよな……癒やされる動物みたく」
紺樹は真っ青になりたいのか真っ赤に染まりたいのか不明な肌を叩く。蒼を追いかけて抱きしめたい衝動を必死で制して、魔道を発動した。
どちらにしても、麒淵と話をしようとは思っていた。誰にするわけでもなく、紺樹は口の中で言い訳をする。
「麒淵、即、きてくれ」
紺樹の右手の平には、八卦の陣が浮かんでいる。陣が数度、光を流したあと、紺樹のすぐ側に麒淵が姿を現した。相変わらず眠そうに瞼を落としている。
「おぅとも。なんだ、紺樹よ。おぬしが耳まで赤くなるなんぞ、珍妙な」
「うるさい」
紺樹は苦々しい声を共にうずくまった。自分で呼んでおきながら、近くをぷかぷかと浮かぶ小人に構っている暇は無いと言わんばかりに。
両手を組んで眠たそうな目をしている麒淵は、さらに大きなあくびをした。
「どうせ、蒼になんぞ突拍子も無いことを言われたか、はたまたされたのだろう?」
暢気な麒淵を、紺樹はきっと睨みあげる。その視線はとても鋭い。が、麒淵にとっては可愛らしく見えたらしい。麒淵は、ほくほくと頬を緩ませた。
「お前も含め、白龍師傅や紅たちは、蒼にどんな情操教育をしているんだ。昔から可愛かったが、年頃になりさらに魅力的になってきた今、あの危機感のなさすぎは危険すぎるだろう」
「それは白や紅の責任というよりも、紺樹のせいだろうな」
麒淵はしれっと言ってのけた。
多少なりとも自覚がある紺樹は、うずくまったまま濡れた前髪を掻き上げることしかできない。
伸びてきた前髪から、雫が落ちてくる。麒淵から視線をずらすのが、せめてもの抵抗だ。
「学院時代の同年代を含めて、魔道府に訪れる定例報告の際も、過保護なお前や紅が悪い虫を排除しまくっておったのを知らないでか。そのせいで、蒼にとって身近な異性は、仕事相手を除いては紺樹や蘇芳、陰翡くらいだ。しかも、そろいにそろって蒼をいつまでたっても子ども扱いしよる」
紺樹は反論のしようがない。しかも、説教してくる相手は人の世に疎いはずの守霊だ。麒淵は他と比べ特別人の心に聡い守霊だと、クコ皇国中の溜まりをみてきた紺樹は知っている。
通常なら魔道府の監査以外で家系でないものが溜まりに足を踏み入れることはない。 けれど、蒼が紺樹をある意味で拾って以来、彼は家族同然の扱いを受けている。ので、当然、紺樹の身の上を別にしても麒淵とも知った仲だ。
「言うなよ。少しは思うところはあるんだ。というか現在進行形で、俺が耐えているのを知っていて追い詰めるか」
「おぬしの気持ちより、わしは蒼を優先するからな。蒼も大概自分の気持ちに鈍いが、紺樹はそれ以上に誤魔化すのが気にくわんのじゃ」
麒淵がすいっと店の保管庫を抜けて、中庭に続く廊下に飛んでいく。
紺樹も首筋を不満げに撫でながらも、大人しくついていく。
(濡れた服が少々重くうっとうしいな)
そう言えばと、紺樹は伸ばしたままだった袖をまくる。そうして、ふと思い出した。蒼が初めてそういう紺樹の様子を見て「なんか仕事人て感じ」と両手を握っていたことを。大きく丸い瞳がきらきらと輝いていた。
「思い出し笑いか。気味が悪い」
「麒淵。よそ見していると柱にぶつかるぞ」
「任務中に邪な思いをいだくような青二才に言われとうないわ」
あくび混じりに言われた麒淵の言葉に、紺樹は頭を掻くしかない。
そもそも心葉堂には任務と私情、半々で訪れている。任務とは紅が行方知れずになった時の蒼の行動の観察。私情は、大事な弟分がおとりにされた状況で不安定になっているであろう愛しい女の子を心配してだ。
(本来なら陰翡が任せられるはずだったのに。距離を置きながらも俺は耐えられなかったんだ。蒼が一番辛い時に、他の男が蒼の側にいるなんて)
一番悔しいのは、魔道府長官がそれを承知した上で紺樹に任務を命じたことだ。
正直、紺樹は今回の一件が終わるまで心葉堂と極力関わりたくなかったのだ。だが、あの一見優しいようで厳しい上司は仕事と私情ともに、紺樹を甘やかすことはない。
「あくまで己の責任で動けと言うのだよ、あの上司は。俺が――心葉堂以上に大切に思うモノなどないのを承知しながら」
魔道府なんて組織は、紺樹にとったらさほど価値も無い。
むろん、後輩は可愛いし、先輩は尊敬している。育ての親にとって、出自不明な養子が歴代最年少で次席副長になったことは恩返しになったと思っているし、恥にはならぬよう気張ってきた。
もはや己の欲望でだけ生きていける立場でないのを、紺樹は重々理解している。
(けれど、組織というのは、一人入れ替わったところで代わりがやってくるし育つものだ。それに、地方で療養しているとはいえ、あの家にもやっと息子が生まれた。家督も弟が継ぐだろう)
紺樹にとって唯一無二の存在。それは心葉堂だ。
自分が養子であることを知り、周囲に心ない言葉や態度を投げつけられぼろぼろに傷ついた日。何もかもどうでもよくなったあの日、蒼が拾ってくれた。見も知らぬ邪険な態度の暗い少年をあたためてくれた。紅が真っ直ぐな目を向け慕ってくれた。生きていく術を白龍が与えてくれた。そして、藍と橙夫婦がぬくもりと優しい時間で包んでくれた。冷たい食事ではなく、温度がある食卓で会話をしてくれた。誰もが『紺樹』の声を聞いてくれた。
「組織なんてものに興味はない。だが、魔道府長官は俺が人を遠ざけられないのを知っている。家族を、心葉堂を守るために、副長になったのを知っているから。たちがわるい」
服を抱えて走ってくる蒼を見つめながら、紺樹は改めて自分を忌々しく思った。なんて中途半端なんだろうと。
雄黄さんは心葉堂の常連客。
第17話 心葉堂9―蒼の茶葉―に出ています。