第66話 亡国2-かつての溜まりの底で-
「おぉ。遥か上空に見えるのは、わしらが最初にたどり着いた場所ではないか」
白龍は地面に尻をついたまま額に手をかざし、天井を見上げた。目を細めた先にあるのは、わずかに飛び出た岩だ。心葉堂、というか溜まりの基本形は、大きな泉のような形をしている。その真ん中に向かった細い道が伸び、中央に小島があるのだ。まるで祈り場のように。
「やはり、ここがかつて溜まりの底だった所か」
黒龍が珍しく感慨深げに呟いた。
同じような心境である白龍も、こちらも珍しく黒龍をからかうことはしない。地面に腰を下ろしたまま後ろに両手をつき、思い切り背を逸らす。
「淵のぎりぎりまで岩に赤茶けた、いや黒に近い赤の跡が残っておるか。岩肌の途中まである水晶さえ赤黒く染まるなど……なんであろうか」
そのまま目を動かすが、氷のように壁に張り付いている水晶の色が変わることはない。
すんと鼻を鳴らす。鼻腔を満たしたのは、甘く焦げたような香り。まるでべっこう飴だ。ほろ苦くて甘い香りが漂っている。
そこに混じるのは、本当に微少な鉄の臭い。気のせいだと思えば、そんな気がする。そんな程度だが。
「あそこから溜まりの脈を探しあてて潜ってきたと思うと、しみじみするのう」
「白よ、やかましい。耳が痛い」
思ったより大きな声だったようだ。
白龍は少しだけ顎を引き、天井から視線を動かす。前に立っている黒龍は、思いきり眉をしかめていた。普段から凜々しい顔つきな分、余計に不機嫌そうに見える。実際、不快だったようで、黒龍はこめかみを押さえた。
「相も変わらず、お前の声は反響してたまらん。じじいのくせに」
水晶と光に反射して艶めいた黒い長髪は、緩く肩で束ねられている。ようやく明るい場に出たというのに、目にかかる前髪と顎先まである頬横の髪のせいで、あまり表情は見えない。
(まったく。黒の場合、無表情なくせに声色に感情がでるから問題はないが。
せっかく綺麗な顔をしておるのにもったいないのう)
白龍が内心で苦笑しながら黒龍を見ていると、黒龍の眉間に深い溝ができた。それでも、黒龍の作り物めいた美しさが崩れることはない。
「なんだ」
「いやな、黒こそ、見た目は青年じゃが実年齢は俺と変わらぬじじいだろうに、と心の中でぼやいておったのだ。全く、桃源郷に住まう『始まりの一族』とやらの末裔は、若作りもいいところじゃ」
「俺は黒い髪を持つ異端者だからな。混じった血の先祖返りか知らぬが、『始まりの一族』の血は薄い。妹は、正統な血族がもつ薄紫色の綺麗な髪と薄桜色の瞳をしていたが」
黒龍は口調のキツさとは異なり、ひどく優しい眼差しで宙を見上げている。きっと、彼の瞳には、妹と同じ色の花びらが見えているのだろう。故郷に咲き乱れる、桜を。
(桃に伝えれば、お決まりの文句が返ってくるだろうのう)
白龍が瞼を閉じれば、ありし日の妻の姿がありありと蘇ってきた。いつまでも若く瑞々しかった桃香。
――兄様ってば、桃なのに桜か、どっちか白黒つけろなんて言うに違いないわ! 二つも花をほこる女なんて最高じゃない! ねぇ、白だって奥さんがいつまでも若くて綺麗なら嬉しいでしょ? まっまぁ、故郷を出てからは普通に歳をとっているから、笑いじわとか気になるけど――
腰に手を当て白龍に詰め寄るのがお決まりだった。
その度、白龍が彼女の真っ白でなめらかな手を取り、祈るように口を寄せた。そうして、その後、桃香の目元を親指でなぞったものだ。
(「桃の体に俺と同じ時を生きている証が刻まれていくのは、これ以上ない幸せだ」などと、まったく当時のわしは青臭いことを飽きもせずに繰り返したものだ)
今はひとりで皺だらけになった掌を見つめる。
もう、「最近は白の指の方が昔よりざらついているのだから、私の勝ちね」と悪戯に笑ってくれる桃香はいない。手に乗るのは、あの日の桃香と同じようにみずみずしくはりのある孫たちの手だけだ。
ゆっくりと握られていく白龍の指。
「おい、浸るな」
俯いた白龍の頭が思い切り叩かれた。小気味よいほどの音が反響した。
本気で痛かったのか。白龍はめったに見せない様子で顔をあげ、涙目で荒々しく口を開いた。
「このっ、ばか黒――!」
「気が張り詰める場面で、義兄を前に妻との思い出に浸るな。言い訳はいらん。お前は普段わかりにくい分、こういう時はあからさますぎるのだ。もしやバレておらぬと思うておらぬだろうな」
黒龍は鼻で笑うのと同時、ぴんと人差し指で長い髪を払った。
これは白龍を慰め照れているなどという可愛い様子ではない。本気でうんざりとしている。その証拠に、薄い唇の端が思い切り下に落ちている。目には殺気さえ感じる。
そんな黒龍を、白龍はぽかんと見上げるしかない。
「お前は……どこにいても、お前なのだな」
ここ数年、誰にも見せたことがない様子で白龍が呟いた。痛む頭をさすりながら、目の前の旧友を見上げる。
正直、白龍は意外どころではなかった。冷静に見えて実のところ黒龍は非常に情深い。蒼の修行先を受けたのは別の理由もあるが、基本的に人の頼みが断れない、人の心に敏感な人間だ。
「当たり前のことを聞くな、いよいよぼけたか」
辛辣な言葉に白龍は無性におかしくなる。他の人と異なる時間を生きる彼だからこそ、そして、決して狭いその世界で生きることをよしとしていない彼だからこそ、言えることだ。
だからこそ、白龍は自分とは違う老いない彼を親友だと思えるのだ。外見は違えど、彼の心は白龍のそれと非常に近い。
(そんなわしの気持ちをわからぬようで、わかって欲しい部分を根っから掬い上げる。黒龍もホーラも――ほんに恐ろしい)
白龍は揺れる心を隠すように、腰に手をあてにやにやと立ち上がった。
内心ではとても複雑だ。これ以上踏み込んで欲しくないような、それでいて、ずたずたにして欲しいような。
白龍とて自分の気持ちの揺らぎの理由は想像がついている。が、なにより実際にそこに乗ってしまいたい自分がいるのだ。
「……なんだ。気持ち悪いやつだ」
葛藤に酔う白龍に、黒龍は低い声をかけた。真っ白な息がもふっと綿毛の形をとり、天に昇っていく。真っ白な肌を際立たせる真っ赤な鼻先。ずびっという鈍い音が響く。
白龍は鼻先を擦り、ずぅっと鼻で呼吸をする。
「いいやぁ。ホーラ――今は魔道府長官なんぞになっとる歴史馬鹿曰く、お前は確かに始まりの一族の末裔らしいからのう。あやつのお墨付き以上の元を求め、なおかつ物思いにふけるおぬしを眺めるのは楽しいわい」
白龍は孫たちの前では決してしない顔で笑う。腕を組んで青年を上から下まで眺めては、目を細める。
青年は真っ白だった肌にわずかに血を通わせて、苦虫をつぶしたような顔で舌を打つ。
「――悪趣味な奴め!」
「ほぅ。まさか、お主がしらなんだか?」
「改めて思ったのだ。蒼と紅に言ってやろうと」
途端、白龍から毒気が抜けていく。まいったと笑う口の皺が深くなったように見える。
覚えた苛立ちのまま、黒は岩を踏みしめた。より意識を持って行かれそうになる存在に大股で近づいていく。
「急に祖父面をするな」
「黒はちっとは親戚面をしてやれ。紅はおぬしを蒼の師匠程度としか認識しておらぬし、蒼とて尊敬と親愛の念は持てども――」
「いい。それより仕事に移るぞ」
黒龍は短く返事をして、足早に空間の中央に進んでいく。
「あと――」
ぴたりと足をとめた黒龍が、忌々しげに振り返る。
「白よ、これはお主の当初の目的と繋がると思うから言うぞ。やはり、おぬし引っ張られすぎだ」
黒龍は何にとは表現しない。が、そもそもここにいる目的からすれば、彼が言外に何を言わんとしているかは十分すぎるほど、わかる。
「自覚はあるよ。それゆえに確信したのだよ。ここで行われた儀式と残る思念を。というか、旧友に会合したが故だとは思わんのか。白状者め」
「……この数十年、酒なしにお前が桃への未練を口にした試しはないからな。ましてや、仕事中ならば余計だ」
黒龍は足をとめ、振り返らずに言った。そして、さっさと中央に向かって歩き出す。
思わず、白龍は口元を覆った。黒龍に自分の何もかもを知られているのは承知していた。が、正直、己がここまで場に漂うアゥマに引き込まれると思っていなかったのだ。
白龍はがしがしと髪をかいた。
「よし」
乱れた長い前髪を両手で一気に掻上げ、前をゆく黒龍に追いつくために大きく踏み出した。白龍の強いところは自覚してからだ。それさえも糧にしてしまう。
今回の場合は、自分がそれだけ引き込まれているということはつまり、身をもってこの場所に眠る術を体感したということだ。
「白よ。お前が間抜けにも自制心を持って行かれかけた正体らしき気配を、はっきりと感じる」
中央手前で足を止めた黒龍が、感心したような声をともに振り返った。
白龍は苦笑するしかない。かなりひどい言われようだが、黒龍自身には全く嫌みはないのだ。事実を語っているだけで。それがこの男の悪いところでもあるが。
(まぁ、今はわししかおらぬから別段問題はないが)
歯に衣着せぬ黒龍だからこそ、白龍は旅の共に彼を選んだのが理由のひとつだ。そして――。
「にしても、お前がどこでもお前であるのはいいとして、いくら歳をとっても丸くならんのう。おぬしは」
「白は年老いて、正しく言葉を使うこともできなくなったのか。なにが『にしても』だ。そもそも老いても性根の悪さが薄れぬ奴に言われたくないわ」
黒龍があからさまに舌打ちをし、なおかつ、威嚇する獣のようにフーと唸っている。
本当にややこしくて愛しい親友だと、白龍は腹を抱えて笑う。天高い岩肌の空間で、白龍の声はとんでもなく響き渡る。
二つ目の理由がこれだ。情に流されないというか性悪であった若い白龍を知り、貼り付ける事に慣れた聖人の仮面をことあるごとに剥がしにかかる。
「知っておるのか? そんなことはっきり口するのは、おぬしとホーラぐらいだ。東屋の木や水、石たちでさえ、最近はあからさまなことは言わぬ」
白龍からした軽い話題だった。世間話程度で、少しばかり黒龍の態度を非難するような。
けれど、黒龍は思いの外、真面目な顔で白龍に向き直った。目線こそあわないが、体を白龍の正面を見ている。
「……俺は常日頃側におらん。それが答えだろう。白の今の立ち位置を知らなければ、気を遣う必要もない。むしろ、おかしいのは白だ」
黒龍は淡々と答えた。
白龍は二つの意味で瞼を少し伏せた。日頃から近くいるから白龍の立場と心情を理解する人と、離れているからこそ昔のままの自分を受け入れ本質を見抜く人。
(だから、その絶妙な均等をやめよ)
白龍は深く息をついた。ついでに、どかりと音を立てて件の水を前にあぐらをかいた。両手を腿につき、はっと笑った。
「さてと。わしがおかしいついでに、クコ皇国でも異常を整理するか」
「うむ。目当てのものを前にしているのだからな。俺も願ったりだ」
暢気なことをと鼻で笑うと思ったのに、黒龍はあっさりと岩の地面に腰を下ろした。しかも、荷物から諸々とりだし珈琲など沸かそうとしている。
一瞬あっけにとられた白龍だが、袋を取り出した黒龍と目が合った途端、悔しくなって余裕の様子で腹をさすった。
「なんだ」
「珈琲は久しぶりじゃと思ってのう」
「香りが無理ならいつもの茶にするが?」
白龍を見上げる黒龍に一切の嫌みはない。ただ、純粋に尋ねているのだろう。だが、白龍にとってはそれが何より気に入らなかった。
(歳をとって趣向が変わったとでも思ったのか、ばかもん)
白龍の胸にわずかに寂しさが生まれた。
痛んだ胸を掴んで、白龍は憚らずとんでもなく重い溜息をついた。白息がぶわぁっと溢れたのと同時、空間に重すぎる音が反響する。
憎らしいことに、黒龍は反応しない。煩いとも煙るとも言わない。
(まったく、胸くそ悪い。ホーラとてこれが狙いだったんだろう)
白龍は掻いたあぐらに肩肘をついて、鼻を鳴らした。が、やけに響いた音と相変わらず無視する黒龍、そして苦みのある香りにどうにもおかしくなってしまった。
拗ねていたかと思うと突然小さく笑い出した白龍に、黒龍の眉間に皺が寄った。
「ここの魔道にやられ気でも触れたか」
「ばかもん。冗談を抜かしている暇があればさっさと珈琲を入れろ」
珈琲が沸くと白龍は一口含むと姿勢を正し話し始めた。
事の始まり、華憐堂がクコ皇国の首都中央通りに店を構える少し前のことから。
『始まりの一族』については、第33話 水晶の間4―始まりの一族―で書いています。




