第61話 魔道府からの訪問者3―麒淵の判断―
「定例の報告会で、心葉堂の溜まりは何ら問題ないとされています。加えるならば、この異常気象の中で行われた現地監査をあわせて」
ようはそういうことだ。皇族贔屓の華憐堂の娘がどうなったのであれ、二度も問題ないと下された心葉堂の水への判断を簡単に覆すわけにはいかない。ましてや、心葉堂だって弐の溜まりの称号をもつのだ。 もっといえば、ぽっと出の新参者と建国当時からの老舗。
「ということは、報告会からまもなく起こった今回の事件で心葉堂に問題ありとするのは、魔道府、率いては国の本意ではない。どちらかといえば、発見されたばかりで制御も不安定な華憐堂を疑うべきだ、と言い出す人もいるでしょう」
他の溜まりの結果について、一般的に公表されることはない。が、おかしいのは華憐堂の情報は一般どころか魔道府の長官ですら、目を通すことを許可されていない。
紅が魔道府で聞いたところによると、定例の報告会には報告書の提出はなく、報告書自体は宮廷の上層部を介してさらに上に渡されているらしい。そう魔道府の長官は言っていた。そこで確認した後、形だけの通知が魔道府に降りてきている、とも。
「実際、華憐堂の後ろにいる皇族だって、一部の派閥だと耳にしたことがあります。心葉堂も老舗ですから、皇族や上層部の方々のご贔屓だって大勢います。華憐堂の後ろ盾というのは、それを越える権力がある方々なのでしょうか」
白磁はさすがにのってこなかったが、静かに瞬きを繰り返した。肯定でもなければ否定でもない。
魔道府で聞いた話から、華憐堂の後ろ盾は皇太子であることはほぼ間違いない。華憐堂は第一皇子が若い頃、外遊中に世話になった恩人であると上層部にのみ公示されているらしいから。
「やはり華憐堂贔屓の皇族や周囲からは、心葉堂に非があると押す意見も出ます。もっと言うなら、うら若い娘が負傷したのもあって、世論は完全に華憐堂の味方になっているでしょうね」
世論についてもっと言うならば、禁忌草に近い華憐堂の茶の中毒に陥っている人々は、である。公務的にはアゥマを抜かれている人々だが、同時に心葉堂、いや茶師である蒼を声高に責め立てている人々だ。
「門の外に、張り紙があったな」
「蒼の目に入らないように、二時間おきに剥がしに行ってはいるんですけど。知り合いの名前が書いてあることもあって」
口にして、紅はひどく暗い気分になった。全てが華憐堂の茶の影響だったらいいのにと思う。でないと、きっと蒼の心が持たない。
「でも、張り紙のことは良いんです。一時のことです。問題は国を取り巻く状況です」
張り紙のことはさておき。ただ現状と予想を述べただけなのに、ずしりと紅の胸に重しがのっかかっているようだ。なにも後者のことだけではない。大なり小なり華憐堂という存在に対するえも言われぬ感情がそうさせているようで、さらに落ち込んでしまう。
「へぇ、随分と冷静に状況把握できてるじゃないかぁ。自分の店や妹のことより、国のことかい? さすがは魔道府期待の星だった紅だ!」
「旭宇。茶々を入れずに聞いておれ」
からかうように笑った旭宇を、白磁がぴしゃりと諫めた。
制された旭宇といえば、はやり軽い様子で肩をすくめ「はーい」と笑った。
「すまなかった、紅。良い気分はしないだろうが、続けてくれ」
「はっはい。えーと、つまり弐の溜まりである心葉堂の不始末は、ひいては魔道府の問題となる。だからこそ、その忠誠心を示し、嫌疑を晴らすために白龍を異常気象の調査にだした、ということでしょうか。立場的にも能力的にも、祖父以上の適任は元々いないでしょうし」
紅は言い終えて、一気に息を吐き出した。
自分が知っている情報を伏せながら相手にするには、白磁はいささかどころか、かなり骨の折れる相手だ。
白磁はこけた頬をあまり動かさずに、ゆっくりと口を開いた。
「及第点ではあるが、一点だけ修正を」
「未熟者で申し訳ありません」
紅が背をただして頭を垂れる。平素なら白磁に及第点をもらえたこと事態が奇跡だと喜ぶところだ。しかしながら、状況が状況だけに今の紅は俯くことしか出来なかった。
「旭宇」
白磁の口から白い息が吐かれた。
それまで熱かった紅の体が、溜まりの温度にあわせてぐっと下がっていく。そういえば、平服のまま降りてきていたことに、今更ながら気がついた。長袖に上着を羽織っているとはいえ、芯に刺さる冷え込みに体が震える。
はぁっと、紅の口から真っ白な綿が零れ、広がっていく。
「旭宇、お前はその馬鹿でかい耳をふさいでおけ」
がたんと、紅は思わず椅子から落ちそうになる。
真剣な面持ちで何を言うかと思えばと拍子抜けしたのは、麒淵も同じだったようだ。円卓の上であぐらを掻いたまま、瞬きを繰り返している。
「御意っす」
当の旭宇はにっかりと笑ったかと思うと、己に術をかけた。旭宇の周りを透明な繭のような膜が包み込んだ。通常は魔道封じのために、相手にかけるものだ。
紅の瞳には、なんだなんだと野次馬的アゥマが旭宇に寄っていっているのが視えた。
「適任なのは白龍様だけではない」
紅が座り直している間も、白磁は話を続ける。淡々として声が溜まりに響く。
「魔道府だけではない。華憐堂と皇太子から国を守ろうとする者は、心葉堂を適任とみている」
今、白磁はなんと言ったか。紅の頭に血が上る。上って、椅子を鳴らしていた。紅は自分が立ち上がっていることすら理解しないまま、白磁を睨む。
溜まりが波打ち、アゥマが遊ぶ音。
両方が耳に届いている者は少なかれど、全員が肌を撫でる空気に瞼を閉じた。
「白磁様、いや、オレは。皇太子とか関係なくて。心葉堂ということは、つまり」
驚愕のまなざしで自分を見下ろす紅を、白磁は目を細めて見返してきた。
どれだけそうしていただろうか。白磁はすくりと立ち上がった。純白の外套を翻し、靴を鳴らす。岩や石で出来た床は、ブーツをよく弾ませた。
「私は国に命をかけるという意味を幾度となく考えてきました。それこそ、魔道府に身を捧げた十五の時から。四十をわずかに越えた身ながら、命をかけるということにどんな思想や信念があろうと、己の意思で決めたことならば他人が口を出す権利などないと思っている」
「白磁……それは」
麒淵の小さな口から落とされた音を、紅は始めた聞いた。もの悲しさと、強さと、やるせなさと。様々な音が混じり合っている。何よりも紅が驚いたのは、麒淵が心葉堂以外の人間にそんな感情を見せたことだった。
いや、と紅は心の内で頭を振る。どうしてか、麒淵が感情を見せたのは白磁自身ではなく、言葉自体にだったような気がしたのだ。
「だから。いや、だからこそ。どのような理由があれ己の願望ゆえに、同調の意思をもたぬ人間を巻き添えにし不幸にするようであれば、身分の差など関係なく愚かさを裁くべきだと考えている」
紅の心臓が激しく鼓動している。胸を突き破らんと動いている。
白磁の言わんとしている意味を理解できないほど、紅は部外者でもないし思料足らずでもない。
(つまりは、この黒幕が皇太子であり、彼が萌黄さんの父と同じような願望を抱いているということを、白磁副長は言った訳で。でも、皇太子が望む死人って――)
ふいに紅の足から力が抜けた。咄嗟につかまった椅子ごと、地面に尻餅をついてしまう。
そんな紅を誰も笑わない。笑える状況ではない。
「紅暁と蒼月には申し訳ないが、この時期で騒動が起きて良かったと思う。でなければ、このような話出来なかった。溜まりに足を運べたからこそ、伝えられたことだ」
「もぅ、白磁副長。また誤解を招くような言い方、ほんとやめてくださいよぉ。だから氷刃の副長なんて呼ばれるんですよ」
「しらん」
術を解いた旭宇は場の空気を読んだのだろう。階段に腰を下ろし、心底疲れたように肩を落とした。
そんな中、紅一人が取り残されている。
「麒淵殿、長官と紺樹副長から言伝を預かって参りました」
「して、なんと」
麒淵はたいして驚いた風もなく返した。むしろ、白磁の言葉の続きを承知しているかのようにさえ見える。
「時は満ちつつある。欠片はあと二つ」
欠片とは一体なんだろうか。紅が唇を動かすより先に、麒淵がふわりと体を浮かせた。
「あい、わかった。この時欠け弐の溜まりが守霊の麒淵。全身全霊をかけて応える準備が整っている。ただし、全ての判断は我が宝のもの、我はあくまでも弐の溜まりを守護する存在であることを忘れるな」
凛とした麒淵の声が溜まり中に響き渡った。