第60話 魔道府からの訪問者2―白磁と紅―
心葉堂の溜まりは、広大な敷地内の中央にある蔵の地下深くに存在している。
溜まりの純度は大地の核に近いほど高くなる。ほとんどの溜まりは普段人が立ち入れない場所にある。
「やっぱ、ながいよなぁ」
とは、旭宇の言葉である。
紅と魔道府副長の白磁、部下である旭宇の三人は、溜まりへと続く螺旋階段を降りているところだ。
「前に来た時の俺の記憶は間違ってなかったかぁ。他の溜まりと違って、心葉堂はすんごい歩くよなぁ。俺、首都の担当じゃなくてほんっとーに良かったよ」
心底安堵した声を石階段に響かせたのは旭宇だ。豊かな体のせいか、はたまた白磁が痩せすぎなのか。他の二人より、旭宇の足音は大きい。
紅が振り返ると、白磁の後ろにいる旭宇は両腕を頭に回し緩い顔で笑っていた。思わず苦い笑いが漏れる。
「旭宇さん。白磁副長が諫める前に突っ込んでおきますが、そういう情報はあまり口にしない方がいいのではと」
「あははーいやぁ、俺だって他では控えてるよ。でも、だってさぁ。クコ皇国のしかも首都の弐の溜まりである心葉堂で繕ってもね。逆にいやいや地方の溜まりの方がすごかったとか言ったらやばいでしょ」
うっかり頷きかけたが、少々論点がずれている。勢いで通そうとする元先輩に、紅はから笑いをするしかない。
どうにも自分が関わる魔道府の人間は、ふわふわと掴めない人間が多い。素直なようでいて、言葉にいちいち重い意味があると考えてしまうような。そう考えて、紅は少し寂しくなった。魔道府所属であった時は、ひやひやしつつも頼もしく感じられていた。と同時に、あれは裏があるとか天然だとか、よく同僚や先輩たちと分析したものだ。
だが、それを受ける側になってみれば――いや、やめようと紅は軽く頭を振る。思い悩んでも答えの出ない詮無いことだ。
「旭宇、お前の声は反響する」
白磁と言えば、溜息すらつかず涼しげに一言呟いただけだった。
「白磁副長のおっしゃるとおりです。後少しなので我慢してください」
紅が口にした矢先、空間が揺れた。耳鳴りを伴い、目眩を誘う感覚が全員を襲う。
クコ皇国で一番濃い浄化物質を持つ溜まり。それは言うまでもなく、皇族所有の壱の溜まりだ。宮の果てしなく下にあると言われている溜まりに足を踏み入れられる者は、原則歴代の皇帝と正妃、それと宰相に限られている。
その次位に当たる心葉堂も、壱には遙か及ばずともそれなりに深部にある。
「これこれ! 前に一回来たっきりだけど、この魔道しびれるわぁ」
旭宇の声が定まらない方向から聞こえてくる。
痺れをもたらしているのは、初代が仕掛けたという空間移動の魔道だ。同じモノが壱の溜まりと参の溜まりにもあるという。どの溜まりもあまりの深さに普通に歩いていては日が暮れるどころか遭難してしまうからだ。
今となっては術式不明な仕組みの忘れ去られた技術。
「痺れはわかりますが、足を止めないでくださいね。術に精神を持っていかれます」
足を踏み出す度、鼻から口から、いや、もはや肌から極上のアゥマが染みこんでくる。それが溜まりに近づいている合図だ。
(けれど、やはりアゥマの色が薄い。蒼なら元気がないというだろうな)
先頭を歩く紅は、数秒だけ力を発動した。赤い牡丹色の瞳が薄氷色に変わっている。
そこら中にふわふわと漂ったり壁にくっついていたりする綿毛のようなアゥマは、いつもより色が薄く――くすんで見えている。
視えているわけではない蒼が、昨日「アゥマがひなびてるっていうか、しょぼくれてる」と表現したのを思い出す。熱のせいでそう感じるのだと部屋に引っ張って戻した紅だったが、なんというか、的確な表現だと思ったのを覚えている。
(蒼は視えてはいないけれど、繋がりやすいからな。目を閉じてるか、開いているかの違いだ。脳の中で直接光景が再生される分、蒼の感化能力の方が本当にすごいよ)
最後の一段を降りると途端に体が重くなった。思い何かが背中にのし掛かってくるような感覚。寝起きに感じたのと同じだ。それはここ数日特にひどくなっているアゥマの濁りによるものに他ならない。
(うちですらこの影響を感じるんだ。感染源を絶たなければ、これは広がり続ける)
これは、クコ皇国を取り巻く状況がいよいよ悪化していることを示している。果たして、白龍が調査から帰ってくるのは間に合うだろうか。紅の拳がぎゅっと握られた。
「紅暁、どうかしたか?」
白磁に声をかけられ、紅は振り向く。目の前にいる白磁は相変わらず無表情だ。しかし、わずかにだが眉間に皺が寄っている。それが彼の心内を表しているようだった。
「いえ。ここから直線階段になりますのでお気をつけください」
紅の言葉に、白磁は静かに頷いた。
紅は暗い足元にランタンを近づける。明かりに照らされている階段は割と急だ。普段ならば目を瞑っていても下りることができる紅だが、今日は後ろの二人を気遣ってゆっくりと足を進める。
「そういえば。白磁様と旭宇さんは先日まで地方を巡られていましたけど……もしかして、今回の一件で呼び戻されてしまいましたか?」
紅の問いかけに返事はなかった。無口な白磁ならともかく旭宇まで何も返答しないというのは珍しい。
紅は足を動かしたまま、ほんの少しだけ首を捻って振り返った。旭宇は見えなかったが、すぐ後ろにいる白磁の表情は見てとれた。何やら渋い表情をしている。
「あっ。いや、仕事の内容を聞いた訳ではなくて、心葉堂のためにならすごく申し訳ないと思いまして」
言葉通りではなかったが、紅は慌てて手を振った。
紅は寡黙で淡々と仕事をこなす白磁を尊敬している。恐らく、一番紅と似ているタイプだろう。だからこそやりにくい面もある。
「紅、だいじょーぶだって! 白磁副長だって顔は怖くて必要以上に口を聞かないからって、別に怒っている訳じゃないのわかるだろう?」
「まさに、そうです。ただ、その」
紅はちらりと白磁を見上げた。当の白磁は涼しい顔、というか気難しい表情のまま真っ直ぐと階下を見つめている。
白磁は魔道府の副長だ。旭宇はどちらかわからないが、少なくとも白磁はクコ皇国の現状、それに関わる形で先日紅が魔道府に呼ばれたことを承知していると予想できる。
なぜなら、彼は首都に怪しい空気が立ち込める中、わざわざ地方を回っていたから。きっと地方が異常な状態ではないという裏づけを取りに行っていたのだろう。
ソレはまさに――首都にこそ原因があるということを証明する重要な任務だ。
とはいえ、紅から直接聞きにくいことも事実だ。
そうこうしているうちに溜りについてしまった。すんと息を吸うと、溜め息の代わりだったにも関わらず、心が落ち着いた。嗅ぎ慣れた匂いだ。
「突然の訪問、お許しください。麒淵殿。管理代理の紅暁殿の許しを得まして、魔道府が副長、白磁がご挨拶奉る」
溜まりに足をつくなり、白磁は恭しく膝を折った。そして深々と頭を垂れる。階段の最後の段を降りずにいる旭宇も黙ってならっている。
紅は人知れず息を吐いた。
(そう。ここはクコ皇国弐の溜りなのだ。いくら自分にとっては落ち着く家の一部とは言え)
普通の人間は生涯溜まりに足を踏み入れるどころか、守霊と顔をあわせることはない。魔道府の人間でも各溜まりに監査に入ることができるのも、溜まりの出身者か一部の者に限られる。
その一番の理由は耐性だ。純度が高すぎるアゥマを前にしても、心身に影響を受けずにいられるかどうか。
「あぁ、白磁か。この事態の中、なにようだ」
ゆらりと振り返った麒淵。その瞳は陰っている。声だけはいつもと変わらないものだが、視点は定まらずぼんやりとしている。
(昨日会ったときはまだ焦点があっていたのに! そこまで華憐堂の偽溜まりの影響が出ているのか)
紅はぎりっと歯を鳴らした。
いつもの麒淵なら、紅の動揺に目ざとく気がつき「どあほう。紅が気に病むことかいな」と笑うのに……ふわふわと小さな体で飛んでくる麒淵は、何も見ていないようだった。
「形式上、お伺いしただけです」
白磁の平坦な声に反応したのは、麒淵ではなく紅の方だった。
「えっ?」
よほど間の抜けた反応だったらしく、後ろから旭宇の忍び笑いが聞こえてきている。だが、今は元先輩の前で格好の悪いところを見せてしまったということは気にならない。いや、少々はあるが、それよりも白磁の言葉の方が気になった。
「紅暁、よく考えてみなさい。今、魔道府が心葉堂を糾弾してなんとなる」
白磁はやはり静かに話しかけてくる。溜まりが洞窟に近い構造のせいか、掠れている声もよく響いた。
紅とて白磁が言わんとする意味は理解している。国が大変な時に内部分裂している時か、という意味では決してないだろう。
魔道府は監査的役割の色合いが濃い。むろんそれだけではないか、国防という役割では武道府や政と担う宮の方が重いのだ。
「白磁副長は、もうちょっと補足って言葉を覚えてくださいよぉ」
「……知らん。結論は出しているのだ。理由を思索し考究するのは本人次第だ」
「そうもいってられない状況でしょうがー。もー、ほんと損な性分なんですから」
旭宇が盛大な溜息をついた。白磁も自覚があるのか、わずかに体を背けて気まずそうにしている。
少なからずあった緊張がほどけたせいか、紅の思考が幾分か鮮明になった。円卓の椅子をひき、仕草で白磁に席を勧める。一瞬首を振りかけた白磁だが、麒淵が円卓に降り立ったのを見ると黙って椅子に腰を下ろした。
「白磁副長、無礼を承知でオレが考える理由を述べてもよろしいでしょうか」
「うむ」
白磁は魔道府の制服である外套をただし、深く頷いた。純白な生地に呪文が青い――性格に表現すると藍色の糸で刺繍されている外套。
純白は誠実さを、藍色は平穏と秩序を表す。だが、紅は白龍にこっそり教わったことがある。純白は漆黒となりやすく、藍色は冷徹さともなりやすい。反するものになりやすいからこそ、人は自戒することができるからこそ、選ばれたのだと。
(正直、オレはどこまでの人を信じたらいいのかわからない。オレの言動ひとつで、心葉堂をつぶし、蒼やおじい、それに麒淵を不幸にしてしまう)
紅は込み上げかけた思いに、はっとなった。麒淵がやたら快い調子で紅の手の甲を叩いてきたから。
「麒淵、なにやってんだよ」
「しらん。叩きやすい場所に紅の手があるのが悪い」
しれっと応えた麒淵。瞳が陰っていようが麒淵は麒淵だ。
紅は思わずぷはっと笑ってしまった。そして、蒼みたいだと思った。思ったが、これを口にすると何故か麒淵はひどく照れて拗ね、そして後で落ち込むこともあるのでやめておくことにした。
「では。そもそも各溜まりには状況報告が数ヶ月に一度義務づけられています。それも、月ごとの情報を。それは何も紙面に限らない。採取した溜まりの水の提出も義務づけられている。それが実際に再分析されているかはさておき」
紅の言葉にも白磁は表情を変えない。
実際のところ、数値の分析はともかく提出された溜まりの水の行方や用途は公表されていない。名目上は水質管理らしいが……魔道府の中でも最高機密のひとつなのである。誰に尋ねても建国当時からの習わしだからとしか認識していない。
ともかく。紅は先を続けることにした。




