第58話 紅2―紅と蒼―
吹き出してすぐに紅は口元を押さえた。いとも簡単に笑った自分に嫌悪を感じたのだ。
ぺっぺと泥を吐いていた蒼は、首を傾げながらもよろよろと立ち上がった。それを横目に入れた紅は胸を掴み、大きく一歩を踏み出した。蒼とは反対方向に。
「紅お兄ちゃん、どこに行くの?」
蒼に『お兄ちゃん』と呼ばれて胸がぎゅうっと締め付けられた。だって、自分は本当の蒼の兄ではない。半分しか血の繋がりはない。半分あると言えば良いのだが、その時の紅にとっては半分しかないとしか思えなかったのだ。
(たった半分。その事実がひどく重かったんだ)
大人の紅の意識が、幼い紅の血をさらに凍らせた。
紅は、蒼が大好きな母や祖父を苦しめた末に生まれた子どもなのだ。そう考えて、幼い紅の目が熱くなる。大好きな父は自分をどんな風に見ていたのだろうか。憎い兄と愛する妻との子を、どんな気持ちで育ててきたのだろう。
(オレなんて生きてたって、みんなを不幸にするだけだ。オレはあの頃、そう思っていた)
幼い紅は思っていた。いっそのこと自分が死んでしまえば、みんなすっきりするんじゃないかと。死ねば過去になる。こんな人もいたと思い出すだけになる。この頃の紅は個人をそう考えていたのだ。
大人の紅の部分がそれは違うと叫ぶ。両親が亡くなって半年以上経つが、未だに思い出になどなってくれない。居間から、店先から、ふいに父の穏やかな声や母の悪戯めいた言葉が聞こえそうになる。そう思って数秒後、ないことだと理解して苦しくなる。自分のことでも苦しいのに、蒼や白、それに麒淵が寂しそうに俯くのが堪らない。
(だから、わかるよ。貴方が萌黄さんをあんな風にした気持ちは。誰もが願うことだから。亡くした人を取り戻したいと思うのは)
でも――それは想う相手の幸せとは同等ではない。死を生に変えても。
禁書の見えない相手もそうだったのだろうか。それでも、きっと望んだのだろう。相手の声を、言葉を。息吹を。
それは萌黄を視ていればわかる。
と同時に、なんてちぐはぐな存在なのだろうと思う。それをかわいそうだと、紅は思う。だって、そうだろう。
(そこに、萌黄さんの意思はないのだから)
他の男を想って、本来の思い人を父と呼んでいる。
華憐堂に連れられた夜に見せられた態度から、萌黄と父と呼ばれる存在の関係は察しがついた。だから、疑問が浮かぶ。どうして、萌黄の父と名乗るあの人はそれを容認するのだろうと。
「だから、蒼には関係ないって言っているだろ! じゃあな」
口が勝手に動いた。幼い紅が叫んだことで意識が目の前に戻った。
睨んでいる先には、泣きべそをかいている蒼がいる。紅はめったに怒鳴ることなどなかった。だから余計に蒼は怖かったに違いない。なのに。ぐっと口の端を落として、指先をぎゅっと握っている。寒さのせいか、怖さからか。がたがたと震える小さな体は、しっかりと泥を踏んだ足に支えられているように想われた。
「わかった」
わかったと言いながら、蒼は歩き始めた紅の後についてくる。
ぐちゃぐちゃとした泥にお気に入りの靴を沈めながら。ワンピースを汚して、髪を濡らして。ちらりと横目で見ると、ずぼっと思い切り水たまりに足をとられていた。
右手を伸ばしかけて、その手をきつく握った。本当は手を伸ばして頭を撫でて、いつも通り顔を拭ってあげたかったのに。紅の中に浮かんでいる黒い感情が、それを許さない。
「いい加減にしろよ!」
「しない」
「さっき、わかったって言ったじゃないか!」
怒鳴り散らす自分の声に、耳が震えた。再び、蒼を突き飛ばす。でも、蒼はぴくりとも動かなかった。そうして初めて、紅は自分の手が震えていることに気がついた。寒さでかじかみ、震えで力が入らないでいた。
幼い紅は自分の手を取り、必死でその震えを押さえ込む。けれど、それは片手で押さえたことによって全身に伝わってきてしまった。
「うん。蒼は紅お兄ちゃんが蒼のこと関係ないって言ったのはわかったよ。でも――」
自分の手を包み込んできたのは、それよりも何倍も小さなぬくもりだった。ちいさくて短い指が、懸命に紅の拳を包み込もうとする。
それだけで、紅の瞳から涙がこぼれ落ちるには十分な条件だった。言葉より視線より、笑顔より。なにより欲しかった物。ただ、自分がいらないという思いを否定して触れて欲しかった。
「でも、蒼は紅お兄ちゃんが好きだし、一緒にいたいもの。紅兄ちゃんが、蒼をどう思うかを関係ないっていうなら、蒼がお兄ちゃんを大好きなのもお兄ちゃんに関係ないし、勝手にするもん」
真っ直ぐに向けられる蒼紫色の瞳。憎いと思った。なにも知らない純粋なその色が。
紅の歯がぎしりと音をあげる。
「オレなんか、いなきゃよかったのを知らないくせ――」
「ばかぁ!!」
目の前にいるのは、全身を震わせている蒼だった。大きな瞳にいっぱい涙を溜めて、白くて柔らかい頬にたくさんの涙を流している。
紅の右手を両手で包むのがやっとの蒼の手。それが、必死に両の手を包み込もうとしている。ぼたぼたと落ちてくる滴がうっとうしいと思った。手だけではなく、袖に容赦なく染みこんでくる涙が。雨に濡れている今、今更なのに、蒼から流れ落ちるものをうっとおしいと思った。
「もういい」
「よくないよ!! だって、だって! 蒼はたしかにこどもで、紅お兄ちゃんのことはわからないかもだけど、泣いてるのはわかるもん! アゥマが泣いてる」
蒼の言動に紅は正直戸惑った。戸惑って無視を決めようと踵を返しかけた。
「蒼が気持ち悪いカモだけど!」
蒼は自分と同じ隣国王家の血を同等には引いてはいない。
たった一度、初めて溜まりの守護者である麒淵に会った際はアゥマを見たらしいが・・・・・・あれっきりだと聞いている。蒼は粒子を視ることはできるが、紅のようにはっきりとした個の存在としては視れないはずだ。幼い紅は背筋が凍っていた。
(気持ち悪いはずなんてない。オレはむしろ怖かったんだ。アゥマが大好きな蒼が、アゥマそのものがもつ黒い部分まで見えるのが)
しかし、実際に蒼は共鳴力こそ優れているが、粒子を見るぐらいではっきりとした存在を見ている訳ではない。
ましてや、蒼を気持ち悪いなんて想うはずがない。幼い紅は頭では理解していても、苛ついて堪らなかった。
「嘘つけ、見えていないくせに」
「見えているもん! アゥマっていうのは、気持ちの塊だから! 麒淵が守っている想いも、紅兄ちゃんが大切にしたい想いも、お父さんやお母さんが大事にしたい願いも! 蒼は、知っているよ! ただ、知っているだけだから、ちゃんと、守れるようになりたいけれど」
その言葉に戦いたのを覚えている。
幼い蒼は紅を安心させたくて言ったのだろうけれど。紅からしたら、恐怖でしかなかった。この優しい妹がアゥマから感情を読み取っていることが。
「蒼、紅兄ちゃんが辛い理由はわからないけど、泣いているのはわかるもん。それだけじゃだめなの? 蒼は、兄ちゃんが悲しいのも泣いているのもいやだもん。でも、一番はいやなのは――」
幼い紅は想った。正直、蒼が辛く思うことを解消するのに自分が付き合う必要があるのかと。だって、今、一番辛いのは紅自身だ。蒼なんて関係ない。本当の真の意味での妹でもない子に、なぜ自分が振り回されなければいけないのだと、深いため息をはく。
それにびくりと体を跳ねた蒼。けれど、すぐにぐいっと強く目元を拭った。踊る視線。紅にはみえている。アゥマが蒼を励まし、慰めているのが。だから、余計に苛立ったのだ。ぎりっと拳を握った瞬間、ふわりとアゥマが拳を撫でた。
「紅が自分をいらないって思うことが、いや。蒼は、紅が好き。こうきょーが、大好きなの」
ずくんと激しい音を立てて心臓が跳ねた。無意識に胸に手を当てる。気持ち悪いくらいどくどくとしているのに、不思議と嫌ではない。
おかしいと思う。妹に兄としてではなく、自分として認められて初めて、自分は存在していいのだと感じたのだ。そうして、彼女の兄になれると思った。
(そうだ。この時から、蒼はオレのこと兄じゃなくって『紅』って呼ぶようになったんだっけか。甘える時は兄ちゃんて呼ぶけれど)
幼い紅は妙におかしくなって、くつくつと笑い始めた。それがやがて堪えきれなくなり、腹を抱えて笑い始めた。森中に響く笑い。雨音さえもはねのけて、紅の中音程の声が音符を伴うように響き続ける。
こんな時、一緒になって笑う蒼もさすがに驚いているようだ。きょとんと大きな瞳を瞬かせ、固まっている。
「蒼」
未だに腹を抱えたまま、幼い紅は蒼に向き直った。
ぽかんと口を開けていた蒼は、びくりと跳ね上がった。それは、あまりに可愛いほどに両足を揃えて本当に飛び上がったのだ。さっきまであんなに強気でいたのにと、紅は込み上げてくるさらなる笑いを堪えることは出来ない。
「うん、蒼。オレの妹の蒼月」
「うい!」
しゃっくりのような返事をした蒼。なぜか真っ赤になって、もじもじと髪をいじっている。いや、理由は明白だろう。だって「お兄ちゃんにあおつきって呼ばれるの、ひさしぶり」と、はにかんでいるから。
可愛いと思った。そして、大人の紅も可愛くて仕方がないと思う。強気なくせに、変なところで臆病で弱気な妹が。大切なものを全力で守りたいといつも願う妹。誰よりも家族の幸せを願う妹。表情が豊かで茶葉が大好きで、なにより人が大好きなあの子。
だから、なにがなんでも守りたいと思う。
(蒼はあの時、オレに生きる意味をくれた。蒼は意識していなかったのかもしれない。けれどあの時、蒼は確かにただの兄ではなく――いや、兄をひっくるめた『くれない』を『こうきょう』を欲してくれたんだと思ったんだ)
本当に偶然だったのかもしれない。蒼がただ紅と呼んだことも、着いてきたことも。
それでも紅は嬉しかった。この小さくて大きな存在を守ろうと思った。守ることが自分の行きる意味の一部だと確かに感じたのだ。どくんどくんと、小さな心臓が大きく跳ねるのがわかる。
(悪夢だとばかり思っていたけれど、よかった。大変な今、自分の気持ちと存在を確認して、蒼を守りたいと思ったから。萌黄さんを――あの場所から離したいと思えたから)
引き離すとは言えない。あの環境から彼女を切り離すことが、必ずしもあの人に幸せとは言えない。けれど、萌黄をあの場所から切り離すことは、きっと必要なことなのだ。彼女とは違う時間を生きるあの人たちには。
今決断しないと、きっと蒼も自分も彼らと同じ道を歩んでしまうと思う。大切な人の影を追って、その生を再びと。
「わかった。オレは家に戻る。だから蒼も約束してくれ」
踵を返して掴んだ妹の肩はすごく小さかった。己の手だけで消せると想うくらい。
ぐっとかかる体重を感じていたのか、紅の色が変わった瞳をみてかは不明だが・・・・・・幼い蒼はしっかりと頷いた。
「うん! くれないとあおの約束!」
しっかりと繋いだ手はとっても柔らかくて、あたたかかった。




