第55話 東屋2―燕鴇と紅―
どれくらい経っただろう。
話の切れ目に、燕鴇は東屋の外に視線を移した。大雨を降らす空は時間を教えてはくれない。
肌寒さにぶるりと体が震える。即座に隣の老婦が、自分の膝掛けを燕鴇にかけてくれた。
老婦を見ると、皺を深くして微笑まれた。くしゃくしゃの顔はただ真っ直ぐに燕鴇を見つめてくる。
(まぁ、当たり前だよな。己は忙しい中、暇人の老人たちの相手をしているわけだし)
今までの悪態とは違い、言い訳の色が強いそれには若干の照れくささが混じっていた。
が、やはり礼を言うべきだと、燕鴇は思いきって顔をあげた。口を開けるまでは出来た物の……生まれてこの方ろくに礼など述べたことがないのが燕鴇だ。
(えっと。なんだ。普通にありがとうございますって言えばいいのか? 貴女の方が年をとっているのだからお返ししますって、冗談まりじりに返すべきか?)
何も言わずに困惑している様子の燕鴇に、老婦はきょとんと瞬く。
「あの――」
燕鴇がうまく笑えず頬を引きつらせたのと同時、きゅぽんという可愛らしい音が響いた。
西瓜ほどの酒壺は、どうやら三つ目の栓が抜かれたらしい。
(まっまぁ、いいか。膝掛けを返す時に言えば感じは悪くないだろう)
糸目の老人に開けたての酒を注がれ、燕鴇は目の前の幸せに意識を戻す。
やはり開けたては違う。口をつけると、自然と舌が唇を舐めていた。
「あー、三壺目こそあたしが一口目をもらおうと思っていたのに!」
「おまえさんはいつでも飲めるだろうに。燕鴇に譲ってやれ」
「まぁ、そう言われると、いつもみたいに無理矢理奪うことはできないのが辛いところだわ」
酒が旨いのもある。だが、美酒よりも燕鴇が心地よく感じていることがある。
(生まれてこの方、自分についてこんなにも興味を持って話を聞いて貰い、気にかけて貰ったことがあっただろうか)
就いている仕事だけではない。生まれてからどんな風に成長してきたのか。学院時代はどんな子どもだったのかも聞かれた。好きな食べ物を言えば「あれね、こんな調理法もあるの。試してみて欲しいわ」と笑ってくれ、嫌いな食べ物については「あぁ、わかる! わしもよくかみさんに健康に良いからと勧められるが、なんとものう」などと肩を組まれた。宮で働く苦労を吐露する側から、「それは上司が悪い」と頷いてくれる。
自分を否定されないことだけでも嬉しいのに、同意までしてもらえる。
「なにか、俺にお礼は出来ませんか」
そんな言葉を口にしたのは初めてだった。
老人たちは顔を見合わせたあと、困ったように笑った。髪の豊かな老人が、空いた杯に酒を注いでくれる。甘い香りが雨の涼しげな匂いに混じる。皮膚や毛穴から冷気が染みこんでくるほどの寒さなのに、ここはとても暖かい。
「お礼って言われてもなぁ。むしろ、老人たちの集いにつきあって貰っているのは、わしらじゃし」
「そうさね。老人たちだけじゃあちびちびとしか飲まねぇのが、今日は燕鴇がいるから、若返ったみたいに酒が進んでいるのさ」
老人たちが戸惑う中、頬に手を当てていた恰幅の言い老婦が手を打った。
「そうだわ!! じゃあ、ここだけのお願い!」
音も声も結構な大きさだったにも関わらず、東屋の隣を通り過ぎた女性は見向きもせず通り過ぎていく。
周囲を観察することに長けている、というか見ざるを得なかった燕鴇はわずかに眉を潜めた。いくら大雨とはいえ、よほどでなければ、今の音量と言葉にはぴくりとは反応をするだろうに。
「水婆、うるさい!」
「まっこと、おぬしは! 若者の鼓膜を破る気か!」
ぼんという大きな音で、燕鴇は我に返った。
視線を戻すと、老婦の隣にいた糸目の老人が老婦の肩に裏手をきめていた。反対側、燕鴇の右側にいる二胡の老人も、つまみの豆を老婦に飛ばしたところだった。
「いっいえ、大丈夫です」
先ほどの疑念など、どこ吹く風か。あまりの様子に、燕鴇はぷっと吹き出してしまった。
こんなに素直に笑いを零したのはいつぶりだろうか。いつもなら年配の前で笑い声をあげることなどない。けれど、今は誰にも叱責されないとわかるからか、止まらない。
「ここだけのお願いとは、なんでしょうか」
そもそも、『ここだけ』というのは燕鴇が嫌いな語句ではなかった。むしろ、舌や脳がうずく。さて、どんなネタをちらつかせようかと。
「あら、聞いてくれるのね。ありがとう」
目の前にいる老婦は、老人二人に突っ込まれたのが恥ずかしいのか、頬を赤くしている。そんなふくふくとした頬を押さえ、わざとらしく目線を燕鴇から外している。
「ほら。あたしってば噂に疎いから、いつも婦人の集いで馬鹿にされるの。なにかいい話はないかしら」
そうぼやかれて、一瞬、燕鴇は意識がはっきりとした。それはきっと、本能に近かった。ただで情報を抜かれるかと。
「例えば、旬の話題である華憐堂と心葉堂のこととか? それとも、大臣の甘英の浮気相手のことか?」
「それはあんたが聞きたい話なだけじゃないのさ」
「いやはや。いつの世も、痴情のもつれというのは酒のつまみになるものよ」
かっかと笑う二胡の老人。
(内情ではなく、ただ単に紅が華憐堂の娘に心酔されていて、それの今回の延長線上にあるとだけ考えているのか? いや、それは短絡的というものか)
糸目で坊主の老人が、すっと冷静になりかけた燕鴇の様子を目ざとく見つけた。老人は、おやと片眉をあげる。
「だから、言うておるだろう。わしはよう知らんが、あの特殊能力を持ち、魔道府の元期待の星であり弐の溜まりの跡継ぎ候補の一人だぞ? 妹想いで、好敵手店の娘にも好かれる子なんだろ? よくは知らないが、だれも口ばかりだ。さっき、燕鴇が言っておっただろう。店主見習いと同期だと。そんな者から、婆さんたちが望む噂話なんぞ聞けまい」
酒を煽った糸目の老人の言葉が、燕鴇の全身の筋肉を強ばらせた。
大げさなため息が東屋に落ちる。老人は天を仰いだついでにと、杯から酒を流し込んだ。
それに続けと、二胡を肩口に置いた老人も酒をあおる。
「まぁ、それはそうじゃが。わしらが想像できることなんざ、精々痴情のもつれか、両者の下げあいからの噂話程度だ。心葉堂の溜まりの水や浄練が危険なんて、信じられるかい」
「……明日以降、一月分の茶葉の仕入れは華憐堂に変えたくせによく言うわ」
「そうよねぇ。まっ! あたしのところは、ここ最近、ずっと華憐堂びいきだったけれどね!」
盛り上がる老人たちをよそに、燕鴇の胸の奥では黒い影がむくりとわき上がっていた。
「なんにせよ。この不安定な気候と情勢に対し、政を行う宮も、魔道専門の魔道府も当てにならん。ちょっとでも情報がないものか」
「情報がないと言えば、件の事件も、心葉堂店主見習いが元魔道府勤めであり、祖父がフーシオだから詳細が出回らんのかのう」
あっという間に話題の中心は燕鴇からずれていく。あまつさえ、あろうことか心葉堂――紅が持ち上げられている。いや、こちらの出方を伺っているだけかもしれないが、それさえにも腹立たしくて仕方がない。先日、立場を見せつけられたばかりなのもあってか、苛立ちが止まらない。
燕鴇の歯が激しく軋む。あまりの力に顎が痛むが、そんなこと気に病む暇はない。痛みよりも脳を燃やす憎悪に、全身の血が沸騰するようだった。
(紅はどこまでも俺の邪魔をする。俺が認められるのを妨げる!! ここはさっきまで俺の空間だったのに!!)
それは子が親の気を引き留めたいとか、他の子を構うのに嫉妬する感情に似ていたのかもしれない。
そうだと、燕鴇は暗い記憶に引っ張られていく。
(だから、俺はあいつが憎くてしょうがない)
そもそも、燕鴇が紅を毛嫌いする理由は、いくつかある。
弐の溜まりの家系という恵まれた環境に生まれ、なんでもそつなくこなし、けれど嫌みのない性格で誰にでも好かれている。花形である魔道府に就職したにも関わらず、茶師の妹を支えたいとあっさり辞職した。期待の星と散々引き留められ、影でも惜しまれていたのに。
はたしてと、燕鴇は考える。
きっと。いや、燕鴇が宮を辞職すると言っても、絶対に誰一人として真剣に引き留めることはないだろう。精々、都合の良い小間使いが一人よくわからないが辞めていくという認識しかもたれないだろう。
その自覚があるから、どうしようもなくやるせない。そして、燕鴇はその感情を外にぶつける方法でしか解消できない。
(あいつは俺が持っていないモノを持ち、それを鼻にかけていないのに腹がたつ! 昔から、いや、出会った時から!)
紅とは魔道学院の同級生である燕鴇だが、直接紅と絡むこと自体は少なかった。
彼らの出会いは、予想に難くないだろう。
燕鴇は幼少期にはすでに今の性格が確立されかけていたので、当然のように弐の溜まりの家系である紅に接触した。
当時はまだ身分のそれもよく知らず、同じ年頃の子どもたちの中ということもあり、へりくだりはなく猿山のボスのように振る舞った。実際、狡猾さと計算高さで子分のような存在も多く、子どもの世界とはいえ同世代からは一目置かれていた。
であるのに、「おれの側につくなら、あっちの派閥から守ってやっても良いぞ」と仰け反り道をふさいだ燕鴇に、紅暁は「言いたいことはそれだけ?」と無表情で尋ねてきた。その割には隣にいた田舎者丸出しな陰翡の「腹減ったわー」という嘆きには、すごく魅力的な笑みを浮かべて「お前は、いつもそれだ」と応えた。
顔を真っ赤にして「俺を無視したこと、後悔させてやるからな! お前、確か妹がいたな!」と鼻息荒く指をさした燕鴇。
当の紅はため息をつきつつ「オレだって、そう宣言されて、自分や友人への嫌がらせを甘んじて受ける気はない」とまっすぐ見返してきたのだ。そうして「使えるものは全部使う。オレや友人、妹に少しでも嫌がらせをしてきたなら、それ相応の対応はさせてもらうのを覚えておけ」と睨まれた。今思い出しても、あの視線は普通の子どものものではなかった。燕鴇はその場に座り込み、ちろりとではあるが尿を漏らしていた。
言葉ではなく音に恐れたのは事実だった。だが、それ以上に燕鴇は紅のまっすぐ人を見る目に、正面から燕鴇を受け止める態度に惹かれていたのだと思う。それまでに会った誰とも違い、紅はまっすぐに燕鴇を見て宣言した。燕鴇を馬鹿にするのではなく、紅は純粋に自分の周りを害することに怒った。
それから紅に構って欲しくて、幾度となく嫌がらせをした。そのほとんどは、陰翡と途中から合流した陰翡の双子の陽翠に滅多打ちにされ、本人が知るところではなくなったが。妹の蒼に関しては、紅と10歳年上の幼なじみの紺樹の目が光りすぎて、絡むことすらできなかったし。
(本当に嫌いだけど。なんだかんだと、まっすぐに感情を向けてくれたのはあいつらだけだったのかなぁ)
思って、燕鴇は随分と酔っているのを自覚した。けれど、どうしてか目の前の杯に手が伸びる。
少しだけと思って杯に唇を触れさせると、どうしようもなく喉が渇いた。乾いて、飲み干す。そうして、ここまでと思っても翁や老婦が酒を注いでくれる。注ぐばかりの自分がもてなされていると思えて、気持ちが浮き足立つ。
「こんな良い気分で酔ったのは久しぶりだから、言ってしまうけれど」
頬を赤くし体を左右に揺する老婦。燕鴇から見て、かなりできあがっているように見えた。
が、いつもの冷めた目ではなく、うんうんと頷いてしまう。頷いた燕鴇に、老人たちは目を細めるものだから、気恥ずかしくもあり、より深く頷き酒を煽っていた。
「あたし、皇太子が大好きだったのよ。でもね、あの噂」
「またかよ。やめておけ。どうせ誰も噂の詳細なんざしらねぇんだ。よりによって『近親相姦』なんて、口にするもんじゃねぇよ」
「えぇ。ここではやめておきましょう。なにも知らない燕鴇の前で、噂でも口にすることではなかったわね。ごめんなさいねぇ。あんたらも、実際をたいして知らない心葉堂の店主見習いにちょっとでも気を遣うくらいなら、あたしらの相手をしてくれている燕鴇こそ大事になさいな」
老婦の言葉に、燕鴇は鳥肌が立った。叩かれた肩が熱を持っていく。
何も知らないと言われたことに承認欲求が沸き上がったのか、紅よりも自分が大切にされたという満足感からなのかは不明だ。けれど、燕鴇の頬は目に見えて色づいていく。
(気遣って貰えた! しかも、知っているぞ。俺は!)
そして、あれを言っても良い場なのだと、錯覚して燕鴇は嬉々として口横に手を添えた。
「お礼になるか、わかりませんが。いえ、むしろ、聞いて貰えますか。己のことをこんなに気にかけてくださったのは、あなた方だけです。そんな貴方たちに聞いて欲しい。だれにも言えず、匂わせても本気にされなかったので」
自然と声が小さくなり、身が縮まる。こんなこと、燕鴇にとっては初めてだった。いつもなら燕鴇の話を鼻先で笑わい信じない方が馬鹿だと思っていた。それに、苛つきを覚えることはあっても、信じてもらえないことが怖いと考えたことはなかった。
老人たちはしばらく呆けていたが、やがて背を丸め燕鴇に耳を近づけた。
「よくわからないが、心に重荷を背負ってしまっていたんじゃのう」
「あたしたちに話すことで少しでも燕鴇の気持ちが楽になるなら、おっしゃいなさいよ」
「あぁ。年寄りなだけあって、そうそうのことでは動揺せんし、むろん広めたりしない」
良かった。いつもは嬉々として先を促されることに喜びを感じるが、今日ばかりは違う。
(やはりこの老人たちは、己を気遣ってくれる!)
燕鴇は勢いづけにと注がれた酒を、一気に喉に流し込んだ。ふわふわとした心地よさに、口の動きも軽くなっていく。
手のひらに乗せられた干しイチジクを噛むと、酔いが濃くなった気がした。
「先ほどお話ししたように、己は宮の高官の小間使いのような働きをしています。会合という名はあるものの、実質、雑談や自分たちがどう動けば自分たちの利になるかの情報収集なんですよ。それに――」
燕鴇は言い淀んだ。皆まで口にする前に、我に返ったのだ。
燕鴇は自分の性格をよく理解している。上には媚びへつらい、下には尊大な態度をとる。同期には負けたくなくて、利益になる付き合いしかしない。自分に振りになるような情報を愚痴ったり吐露したりなど、滅多にしない。
そんな自分がどうして初めてあった人たちに、ここまで話そうとしているのだ。自分はどうして初めてあった人たちに、ここまで話そうとしているのだ。酔いと居心地の良さで霧かかっていた思考が、一瞬だけ鮮明になりかける。
伸びかけた膝にのったのは、女性特有の体温だった。押しつけるのではなく、羽のように触れている掌の持ち主の方を見る。老婦は慈愛に満ちた、でも少しだけ切ない色を瞳に浮かべていた。
――ぽろんっ――
二胡の優しい音色が雨音に混ざって、燕鴇の耳を撫でた。糸目の老人が鼻歌を刻む。
とたん腰の力が抜け、燕鴇はどっしりと椅子に座り込んでいた。