第54話 東屋1―燕鴇と老人たち―
主人公外のお話。
各登場人物は以下のお話に出てきています。
※今回、老人たちについて割とわかりやすい特徴で書いていますが、東屋編最後まではっきりとした正体を知りたくない方は読了後にお願いします。
老人たち⇒第3話および第4話、第14話
燕鴇⇒第11話および第40話(名前だけ)、第48話
この日、燕鴇の機嫌はすこぶる良かった。
どんよりとした重い雲に反して、大通りを歩く足取りが軽い。
至極面倒くさい雑用であるはずの買い出しも気にならないくらいだ。いつもは適当なカモを見つけては、粋がっている知り合いをそそのかして一般人を痛めつけさせる所だが……今日ばかりは必要がなかった。むしろ、笑いが止まらない。
(いや、落ち着け己)
弾む足を必死に地面に近づけて、燕鴇は通りにいる数少ない人々の声に耳を傾ける。
「ははっ。でも、これが我慢できるか。街中があの噂で持ちきりだ」
自他共に認める情報通としては、自分がその発信源でないことに承認欲求が満たされることはない。
が、燕鴇個人としては両手を打ってしまう。
だが、これも『しかし』だと、燕鴇は細く息を吐いた。この時期の街に似つかわしくないと調子で、吐き出した息が白く色づいていく。
(落ち着け。人とはおかしなものなのだ。ここであからさまに浮かれては、人の不幸を喜んでいると己が冷めた目で見られる。まったく、あほらしい。噂をする自分たちのことは棚にあげて)
さすがの燕鴇とはいえ、ひと一人が重傷を負っていることを喜びで語れば、印象が最悪な事くらいは承知している。心の中で吐いた毒を必死に消そうとする。
やはり、心が躍るのばかりは止められない。
(ひそひそ話の裏を知っていることに笑うのも良いが、鼻持ちならない元同期が――しかも家柄なんぞ意味ないが、嫌々従っているとすましている奴。そんな奴が落ちていくのは心地良い。慕われている風でも、所詮人は裏切り、悪い噂に傾くものだ)
くつくつとこみ上げてくる笑い。燕鴇は、どうだとついに笑ってしまった。
数日前に抱かされた屈辱。ただの一茶葉店という立場の人間に自分の上司が頭を垂れ謙ると言うことは、その部下である燕鴇はさらに下にいることを意味する。しかも、相手は魔道府の元期待の星であったとなれば殊更だ。
「おや、兄ちゃん。どこかで見たことがあると思うたら、今、噂で持ちきりの心葉堂、その店主見習いである紅暁の知り合いじゃないかい?」
高笑いを誤魔化すように咳払いをした燕鴇に、ふいにかけられたのはしゃがれ声だった。
一瞬、己の上司と被り背を丸めたが、下から伺うように向けた先にいたのは、東屋でたむろする老人たちだった。
翁が二人に、老婦が一人。翁の一人は二胡を手にしている。
(なんだ、くそ。ただの暇人か。しかも、それなりの服と装飾からして、この異常気象も気にしないようで娯楽にいそしむ、ただの馬鹿か。自分たちだけは被害を受けない、『特別な人間』だと思っている部類の)
姿を確認した途端、燕鴇は舌打ちをしていた。
思ったより盛大な音が己の耳に入り、さっと青ざめる。けれど、ぽろんと、老人の指が弦を撫でたのと同時だった。目があった弦を撫でた老人は、にこりと笑った。
我ながらうまい間合いで悪態をついた物だと、燕鴇は思った。そう、彼は思った。錯覚を与えて貰ったとは知らずに。
(落ち着け。こんな天気で、しかも弐の溜まりである心葉堂の水が人を傷つけたにも関わらず、外で茶を飲むような、自分たちの欲望に忠実な老いぼれどもだ。しかも己を紅の知り合いと、自分たちから言った。ならば――)
燕鴇はどこまでもあがりそうになる口角を必死に叱咤し、袖に隠す。そうして数秒後、うんざりとしたという顔をまんまと作りだし、袖を下げた。
一歩後ろに引いてみせ、「お前たちもか」とうんざりとした視線を作る。
遠くからしばらく様子を見ていると、老人たちは至極面白そうに顔を見合わせた。
(いける!)
燕鴇の感が、そう告げた。
燕鴇の経験上こんな風に暇をもてあましている裕福な老人たちは、扱いがたやすい。
さらに言えば、燕鴇は、嬉々として話に乗ってくる若者より少しばかりの警戒心と噂の相手への情を見せる者が打ちのめされるのが好きなのだ。
(己に直接危害を合わせた輩に復讐が出来ぬのなら、今度は俺がその立場になってやる。そんな下々の経験など知らぬとのうのう生きている同期は、それ以下の愛玩に成り下がれ!)
ふいに肌を撫でた寒さと木枯らしで、燕鴇は昨晩の乾き皺だらけのおぞましい感触を思い出した。思い出して、音が鳴るほどに奥歯を擦る。反射的に木の葉を避ける振りをして、顔を大きな袖で覆ったが。
その仕草が功を奏したのだろう。
「大丈夫かのう。ほら、こちらへおいで」
坊主で糸目の老人が、まるで歌うように優しく誘った。その音はどこまでも慈愛に満ちているように、燕鴇は思えた。
いつもならもっともったいぶってやるところなのに、一音ごとに勝手に足が浮く。心地良いのは、踏み出す度に、ぽろんと弦が鳴くからだ。音楽などこれっぽっちも興味がない燕鴇だが、手招きされ、背中を押されているようだと思った。老人が指で弦を弾く度、ぽつりぽつりと雨が葉を揺らす。
「こんな老いぼれたちの誘いに乗ってくれて、ありがとうねぇ」
気がつけば、燕鴇は東屋に腰掛けていた。東屋の外はたいそうな雨になっていて、さらに周囲に人気はなくなった。
この東屋だけが切り離された空間になっている。
そんな不思議な感覚に陥る。実際、周囲には全く人気がなくなっていた。燕鴇は単純に思う。雨のせいだと。
(己はただ誘いに乗った振りをしたのに、礼を言われた)
どこかふわふわとした心地になっているという自覚はあった。けれど、燕鴇にはそれが魔道音によるものだなんて想像もつかなかった。
常日頃から上のご機嫌を伺い、周りに目を配っている燕鴇だったならば、さっと引いていく少ない人の波に気づけていたかもしれない。
「本当に今日はちょうどよかったわ」
感情が見えない声で、老婦が扇子をあおいだ。扇が動く度、甘い香りが舞う。
燕鴇がまるで酒の匂いだと思いながら顔を上げると、なぜか老婦は豪快に笑った。
彼女はひとしきり笑ったあと急に声を潜め、扇で顔を隠しながら燕鴇との距離を詰めて生きた。
「いえね、ここだけの話だけれど」
燕鴇はこの言葉を耳にした途端、はっと背を伸ばした。
聞き慣れた言葉だ。この意味は二つある。こう表現することで相手の懐に滑り込もうとする人種と、ただ自分が知っていることを人に話したいだけの噂好き。
この老人たちはどちらだろうか。燕鴇は出来るだけ曖昧な表情を浮かべる。
「おい、やめておきな。お前さんの悪い癖だ。口が硬そうな男を見ると、たまらず噂話をするのは」
水煙草を吸っている老人が、咎めるように煙を吐いた。片膝を立てている老人は、一切、燕鴇に興味を示していない。手元にある小さな杯にだけ、視線を落としている。
燕鴇は、いけると思った。浅はかにも。燕鴇は気がつくことが出来なかった。芝居のような踊る音に。
「いいじゃない! ちょうど、心葉堂の心配をしていたところなのよ。ほら、最近……大きい声では言えないけれどねぇ。弐の溜まりということで、うちの主人も昔から贔屓にしていたけど、ほら、代替わりして、ねぇ? 昨日なんて、滅多に意見しない侍女が恐る恐る茶葉を取り上げたくらいだし」
いかにもという風に語尾を濁し、老婦が茶杯を燕鴇の前に置いた。老人たちにも同じように、杯を進める。
そこで初めて、燕鴇がはっとなる。
(まさか、己に毒味をしろってんじゃないよな!?)
燕鴇が卓に目を滑らせると、随分と高級な煮水機が置かれていた。一般的には陶器の物が多い。が、高級な物になると、アゥマを含んだ水が変化して行く様を色鮮やかに見せる硝子性となる。本来であれば各溜まりに併設された店でのみ見られるのだが、限られた客には――例えば買い手自身が優れたアゥマ使いか、溜まりの主、またはそれを手に入れられる者――出回ることもあると聞く。
気温差で余計に喉が鳴る。けれど、毒味かと思うと手が伸ばせない。
「あら。最近の子は見知らぬ老人のお茶なんて怖くて飲めないわよねぇ。無理に誘ってごめんなさい」
「だから言っただろう、さっきも。噂好きのお前さんの悪い癖だ。しかも、どうせ若者に華憐堂の非売品の茶葉を自慢したかっただけだろうに」
「そうだ、そうだ!」
楽器をおいた老人が、ぱんと自分の太股を打つ。そんな音さえ響く街が嘘のように感じ、この東屋だけは異空間な気がして、どうしてか燕鴇の胸はざわつく。いやなのではない。むしろ逆だ。いつも以上に話したいと思った。
(皇族が肩入れしているという華憐堂と親しくしているなんて。本当に俺はついている!)
心の中で呟いてしまえば、もう止まらない。どこかふわふわとした気分で、下げかけられた茶杯を掴んでいた。
「いただきます! 普段は知らぬ方と茶の席で物をいただくなどともにしませんが、ここはひどく安心します」
この燕鴇の言葉に偽りはなかった。現に茶を一口飲むと、嘘のように肩の力が抜けた。
「あら、嬉しい。こんなおばあちゃんの茶をそんなに嬉しそうに飲んでくれる子なんていないから。貴方、お名前は?」
問われて、燕鴇は血が沸くような思いだった。
(名を聞かれた! 名前を! しかも、見知らぬ裕福そうな老婦に!)
上司に付き添いどんな場にも足を運ぶ燕鴇だが、物を口にすることはほとんどない。
そもそも進められることすらないに等しいし、むしろ口にすることすら許されない。ひどい時など、ぶつかっても物を零されても、意識外に置かれていることがほとんどだ。
同級生や同期と飲む際だって、そうだ。皆、燕鴇の噂話を催促する割に、終わるとまるで無価値だと言わんばかりに話しかけることなどない。
「えっ燕鴇、といいます」
そんな自分が名を聞かれたと、燕鴇は心が踊った。しかも、思わずむせてしまった燕鴇に、老婦は柔らかい視線をともに茶を注いでくれた。二胡を持たない方の老人も、背を撫でてくれた。寒い空気を払うように大きくて温かい手のひらが添えられている。
「で、燕鴇。もそっと、こっちにこい。おぬしの最初の態度、感心したぞ。噂話にただ乗るのではなく、嫌悪を見せたことがな。いやぁ、今は街中、不安定な気候を払拭するように噂話にいそしむけしからん奴が多い!」
「まて。久しぶりに気概のある若者と飲むのだぞ。今度はわしにも酒を注がせろ。あぁ、なんぞ嬉しいのう。自分が注いだ酒を飲んで貰えるのは」
自分を挟み、両脇からにらみあう老人。ただ空気として、でも酒を注がされ、気を遣わされるだけだった燕鴇には初めての感覚だった。それはなにも職場だけではない。
中流家系に生まれた燕鴇は、中途半端な自尊心を持ってしまった。ここで深く掘り下げることはないが、つまりはまぁ、家系の集大成が燕鴇という人物なのだ。父は未だにうだつがあがらない下級役人。ただの下級役人ではない。
(上を目指すより必死に下を守ろうとするどうしようもない奴!!)
燕鴇には理解が出来ない。家族の幸せより他人を、すぐに恩を忘れるような人間ばかりを守る父。
だから、燕鴇は恩を忘れるような奴より、恩を売れる人間につきたいと思ってきた。実際、恩恵はそれなりに得た。自尊心を捨てることによって。
(だから、これは頑張ってきた褒美なのかもしれない)
茶をあおり、燕鴇は随分と良い気分になった。ふわふわとなり、物足りなくなった。茶を飲み干したのと同時、硝子作りの煌めいた杯が差し出された。ちゃぷんと、まるで楽器のような音を立てたのは、薫り高い酒。
燕鴇は躊躇なく喉に流していた。そして、目をむく。これは一気に飲み干していいような酒ではない。度数は高いが、甘く、薫り高い酒。
(こんなうまい酒、残り物でも舐めたことがないぞ!)
屈辱を思い出すのと同時、それ以上に極上の酒を出された自分に酔っていく。
燕鴇は使いのことなどすっかり忘れ、東屋に居座り続けた。雨は激しさを増していく。




