第53話 絆2-だれか-
蒼が華憐堂の扉を叩いてすぐ、湯庵が姿を現した。それと同時に、蒼の体を大きく跳ねた。
それもそうだろう。扉の隙間から覗いた濃い緑色の目は焦点があっておらず、けれど、ぎょろりと存在を主張しているのだ。皺だらけでたるんだ瞼。なのに、その奥にある瞳はやけにぎらついている。
「あっ、あの。閉店しているのに、すみません。紅、いえ、兄の姿が見えたので」
蒼がしどろもどろと言い訳するのを聞いていないようで、湯庵は蒼の後ろや周囲ばかりを気にしている。何かに警戒しているようだと、蒼は思った。
が、蒼が抱いた大きめの鞄を捉えた瞬間、湯庵は高揚した笑みを浮かべた。まるで宝物を見つけた子どものように。
「これはこれは、心葉堂のお嬢さん! 年のせいが、ぼうっとしてしまい失礼しやした。それは……茶道具ですな。お兄さんと同じく、出張のかえりで?」
「はい。あっ、でも、私は出張じゃなくて私用ですけど」
蒼はつい湯庵に気圧され、あからさまに一歩後ずさりしてしまった。生真面目に返事をしながら。
何が気に入ったのか。湯庵は丸まった背に両腕をまわし、満足げに頷いている。
店の中が薄暗いからだろうか。蒼には店自体が不気味な生き物で、その腹に飲み込まれているような錯覚に陥った。茶葉を愛する蒼にさえ、並んでいる商品すらもおかしなアゥマを纏っているように感じられた。
「へいへい。であっても、どちらでもいいのです。お鞄の中には心葉堂の水が?」
さらに下がる体。容赦なく降ってくる雨にはっとなり、蒼は重い体を軒先に戻した。
やはり、やけに興奮気味の湯庵は気味が悪い。しかし、それも老舗茶葉店の溜まりの浄化を受けている水が目の前にあるせいだと考えると、同業者としては当然かとも思えた。
茶葉の精錬具合は茶師や溜まりの影響が強い。なにより茶葉のおいしさを引き出す――いや、加護を加えるのは溜まりの影響を受けた、しかし直接飲むことができる貴重な水なのだ。
「えーと、その」
それゆえに、店に隣接した茶房は週の内の数日に限る経営、しかも完全予約制だ。浄化され加護を受けた水は飲料としてだけでなく、茶道具や店の家具や茶葉の保管庫を清めたりと用途が広い。そのため、飲料としてだけ無限に使えるわけではない。
とはいえ、持ち出すことに問題はないし、出張も受けているのだから持ち運びについて隠す必要はない。でも、なぜか蒼は素直に答えることに戸惑いを覚えた。
「野暮でしたかな。いや、心葉堂さんほどとなると、軽く答えられないもんでやんすね。ないものをあると言われたら、そりゃ困惑もしましょう。勝手な想像をしやした」
大げさなほど肩を落としきびすを返した湯庵。とぼとぼと店に戻っていく湯庵に、蒼は慌てて口を開いていた。
駆け寄る蒼を、ちらりと見上げていた視線の色にも気づかずに。
「いえ! すみません、そんなつもりは。ただ、今日は頼まれごととは言え、友人の家に行っていたので、私用と言うこともあり言い淀んでしまっただけです」
「ほぅ。やはり心葉堂のお嬢さんは素直でいらっしゃる」
湯庵の言葉が純粋な褒め言葉でないのは、さすがの蒼にも手に取るようにわかる。が、「それは単純に馬鹿という意味ですか」と尋ねる図太さも、蒼は持ち合わせていない。
どこかやるせない気持ちになっていると、店の奥から紅が顔を出した。
「蒼! ちょうど良かった!」
言葉とは異なり、表情は全く安堵の様子はない。どちらかというと、焦っているようにさえ見える。
どうしたのだろうかと、蒼はその場で小首を傾げた。
紅は片手に荷物を抱え、体を引きずるように個室からだ出てきている。荷物はたいして重いように見えない。それに、非力そうに見えなくもない紅だが、幼い頃から体術を習っているし、少し前までは魔道府で働いたのだ。少々の重さでふらつくことはない。
そこまで考えて、答えが蒼の視界に入ってきた。納得するのと同時、やきもちが蒼の頬を下げる。
「紅ってば……萌黄さんにしがみつかれて、なにやってたのさ」
「ばっ馬鹿! 変な想像するな。というか、口にするなよ」
やたらと焦っている紅に、蒼は心の中でだけ「ばかってなに!」と愚痴を吐いた。本当なら、頬を膨らませてそっぽを向いているところだ。
しかしながら、確かに紅と萌黄だけならともかく、湯庵もいるのだ。あからさまに萌黄がしがみついているとはいえ、責めるような言い方をされるのは面白くないだろう。
蒼は悪態をつく代わりに、小さなため息を落とした。
「それは、失礼しました。萌黄さん、こんにち――」
挨拶を口に仕掛けて、蒼の体が音を立てて固まった。ぞくりと、雨の冷たさではない何かが背中を駆けていった。雨の香りだけではなく、空気が鳥肌を立てる。
てっきり、いつものように、萌黄は積極的な態度とは裏腹なはにかみを浮かべていると思った。
「だれ、ですの? 私と愛する人を邪魔するのは」
「――!?」
蒼は息を飲んだ。
ごくりと唾が喉を落ちていく感覚があってすぐ、肺がぎゅうっと縮む。体中の筋肉がきしみ、足の裏が地面に縫い付けられたようだ。
あまりの冷たい声に、虚無の瞳に。
目の前にいる女性はいったいだれなのだ。蒼は己の血の気が引いていく音を聞いた。さぁさぁっと耳の中を音が走る。
「萌黄さん、あれはオレの妹の蒼ですよ。ほら、ちゃんと見てください」
やけに冷静に対応している紅に、蒼の驚きはさらに深まる。湯庵も腰に両手を回したまま、じっと状況を傍観している。
そのことが、蒼の動揺を深めた。自分だけが現状を理解していないようで、動悸が激しくなる。
「妹? つまり、妹は、大事な、人?」
萌黄は、くるりと頭をまわした。
あまりの動きの奇妙さに、蒼の身が震えた。ぎゅっと力を込めて荷物を抱くと、腕から心葉堂のアゥマが染みてきて、少し心が落ち着きを取り戻す。
そのせいだろう。蒼は萌黄の言葉に強く頷き返していた。
後になって考えれば、この時の蒼の反応が大きな転換期となるきっかけだった。蒼にとっても、紅にとっても。だれより、萌黄自身の人生にとって。なんともない事実。それは、まるで人生そのものを表す言葉。
だが、蒼や紅がそれに気がつくのは、その頬を涙に濡らす時だった。
さておき。蒼はなんとか萌黄に自分を認識して欲しくて、事実を述べようと口を開く。
「そう、妹です! 紅の妹の蒼ですよ、萌黄さん!」
そう、自分は紅の妹。蒼は噛みしめるように、高い声を出していた。
「そう、この人の、大切な人」
「蒼!!」
蒼の名を呼んだ後、紅はしまったと口を覆った。それと同時に、萌黄が離れ自由になった腕を蒼に向かって伸ばす。
踏み出した右足は、ずるりと音を立てて床を滑った。本能的に抱えた茶道具を守り、肩や背中を痛烈な痛みが走った。痛みを感じ、はっと息を飲む。そうして、どこか冷静に今の自分の状況さえ相手に読まれていた道の上にあるのだと、紅は激しく舌を打った。
狭まった視界の端、にやりと口の端をあげている湯庵。初老とは思えない彼の動きに驚くよりも、いかにも怪しい湯庵に警戒しきれなかった自分に、後悔がわき上がる。
「くそっ! 蒼、逃げろ! 扉をあけて走れ!」
「どうして、どうして、私以外を見るの?」
紅の叫びは蒼の足をわずかに動かしたが、逆に萌黄の琴線に触れたようだ。ぐらりと頭を回し、紅を見た萌黄。何も写していない瞳が、悲しみを浮かべた気がした。
明らかにおかしい様子の萌黄に、湯庵は口を出さない。薄気味悪い位に静かな調子で、ただ佇んでいる。
なぜだと紅は唇を噛む。ここまでおかしな様子の萌黄を――そこで、紅は拳を床に打ち付けた。今までのことを思い出し、歯ぎしりをするしかない。あからさますぎて、見落としていた。怪しい店の中枢にいる店守が、関与していないわけがないのに。
「 」
紅は意を決して、音にならない言霊を唱える。
蒼は紅の周囲に不思議なアゥマが漂う気配を感じた。萌黄も湯庵も、それに気がついた様子はない。
「解!!」
紅は口の中で呪文を唱えた後、口の端を噛んだ。ぷくりと溢れ出た血が空気に触れた瞬間、紅の視界が一変する。
人がある隙間に、いくつもの丸かったり四角だったり、色んな形の泡が現れる。色が混じったものがあれば、青かったり赤かったり、色を持っている。それらは等しく、甘い香りを放っている。
途端、紅は激しい吐き気と頭痛に見舞われた。胃がひっくり返り、心臓が回転しているようだ。腸が燃え上がり、骨がきしむ。血が沸き返り、肌が破れそうだ。
紅は悶える体を叱咤し、わずかに体を起こす。蒼が『あの萌黄』の標的となった以上、能力の出し惜しみをすることはできない。
鼻どころから肌から容赦なく染みてくるアゥマに、内側から身を裂かれそうになりながら、紅は萌黄を視る。
(やはり、異常なアゥマが萌黄さんから出ている! けれど)
本当に紅が息を飲んだのは、予想していた萌黄にではない。ちらりと視界の端に映った湯庵と――壁の向こうに潜む、店主。
(全員が異常なアゥマを纏っているだと?!)
想定外の状況に、紅は薄氷色になった瞳を隠すことも忘れていた。すべてのアゥマを視ると言われる呪われた色。ましてや、紅が普段持つ色とは正反対の色だ。絶対に人に見せることがない、能力を解放した状態。
よって、紅が能力を解放しているのがあからさまとなる。だからこそ、紅が人前でその力を使うことはない。
「変だわ、変よ。いつものあの人じゃない」
のそりのそりと蒼に近づく萌黄。
蒼は視なくともアゥマに愛され、アゥマを愛する存在だ。本能的に萌黄とこの場の異常さを悟っているのだろう。足は震え、動くことが出来ずにいる。いくら紅が視える存在でも、それらを繰ることは叶わない。ただ、魔道府長官に緊急信号を映像を送ることしか、できない。
「あなたが、あなたが!! わたしとあの人と引き裂くなんて、絶対に許さない」
もはや人と呼べる仕草でなく、萌黄は蒼に指先を伸ばす。その愛らしい口からは白く染まりきった息が吐き出されている。体を引きずるように足を運ぶ。
今、蒼の目の前にいるのは紅に恋し、華憐堂を語る萌黄ではなかった。
――執着――
その一言に支配されている、ゾンビがいるだけだ。
蒼は、ただただ恐ろしいと感じた。目の前にいるのが化け物だと、恐怖におののいた。蒼は知らない。こんなにも何かに執着し、嫉妬する人の姿を。
いや、蒼はたった先ほど、それを知ったばかりだ。黒いアゥマに飲まれ、危ないと知りながらも両親の最後をみたいと望んだ自分。
それは……鏡写しのようで、決して理解したくない欲望の塊。
「やっやだ!」
萌黄の指先が自分に触れる寸前、蒼は思い切りその手を弾いた。触れた手はとんでもなく冷たくて、硬かった。怖いと思った。あまりの体温に、なぜか悲しくなった。悲しいのに泣けなくて、ただただ怖かった。
自分の手に弾かれ萌黄はゆっくりと後ろに倒れていく。同時に、腕に抱いていた荷が宙に浮く。不自然に腕から離れていく荷物を訝しむ暇は、蒼にはなかった。
「あぁぁっぁぁ!!!」
萌黄が顔を覆って、身もだえる。白い肌は見るも無惨に焼けただえている。床を転げ回る萌黄の姿に目を開いているのは、蒼だけではない。
床から体を起こしている紅も、片手を伸ばして固まっている湯庵も、壁から半身を覗かせている店主も。全員が、萌黄の様子にあっけにとられていた。ただ――浮かべる表情は違うけれど。
「ここまでの純度とは!!」
沈黙を破ったのは、歓喜に満ちた声だった。それをあげたのは、店主である萌黄の父であった。今まで、静かな表情しか見せたことがなかった店主。それが嘘のように、高らかな笑いが店に響き渡る。
苦しむ萌黄に、歓喜に溢れる萌黄の父。そして、意外にも呆然と、瞳に影を浮かべている湯庵。
「やだ、萌黄さん! どうしたの?! 心葉堂の水が毒になるなんて、あり得ないよ!」
蒼はただ萌黄に駆け寄った。爛れる肌を掴む萌黄は、苦しそうな息を吐き蒼を見上げた。
苦しげではあるが、先ほどの瞳に光がない状態ではない。荒い呼吸の合間に、掠れた声が漏れる。
――お願い、助けて。どうか、助けて。わたくしじゃなくって――
涙に滲む瞳が蒼に訴えかけてきた。
けれど。それがどんな意味を含むかを確かめる前に、華憐堂に入ってきた人々によって、萌黄の声はかき消されてしまった。
そうして、数時間もたたずに心葉堂はほとんどの客を失ったのである。