第51話 違和感の正体2―湯庵―
「遅くなっちゃった! 紅に怒られるよね。参ったなぁ」
蒼は、うんざりと呟いた。人気の少ない大通りを小走りに進みながら。
思いのほか大きかったはずの声は、だれの耳に届くこともなく消えていった。まるで、湿った空気を吸い込み、地面に吸い込まれてしまったように感じられた。
(やだな。なんか怖いや。今まで、どんなに人通りが少なくても、こんなに寒気を感じたことはなかったのに。やっぱりアゥマが乱れているせいで、気持ちが不安定になっているのかなぁ)
アゥマは人の体に大きな影響を及ぼす粒子だ。だからこそ、アゥマを制御する技能を持つ職人が必要とされる世界であるし、特に食に関するアゥマを調整できる者が重宝される。
考えて、蒼は足を止めた。そして、胸を押さえて大きく深呼吸をする。胸部ラインを浮かばせる服が、ことさら呼吸の荒さを自覚させる。
(だから、アゥマ馬鹿って言われるんだよ。違うでしょ、蒼。まずは、心には人あり)
蒼は深く息を吐いて、ゆっくりと周囲を見渡す。肺を満たした湿った空気に、心音が静まっていく。雨の香りがするので、一雨来そうだと思った。
(人、かぁ。この通りも、寂しいなぁ)
閑散としているのは道だけではない。中央区に軒を連ねる店も、ひっそり息を飲んで身を潜めているようだと、蒼は感じた。
いつもなら東屋で酒を飲み音楽を楽しむ翁衆や、屋台の顔見知りに「夜に一人で歩いてちゃー兄ちゃんの説教で星が飛ぶぞ」などと、からかわれるものだ。
「一雨来たって、それさえ楽しそうにする人たちが、東屋や屋台に人がいるはずなのに」
蒼の脳裏には、否が応でも先刻の出来事が鮮明に思い出されてしまう。
親友の真赭の店である蛍雪堂の地下で起きた出来事。謎の黒いアゥマに襲われただけではなく、秘密の扉の向こうにあった古書に衝撃的な歴史を突きつけられたのだ。
思い出して、心臓が暴れ出す。頭が真っ白になりそうになる。肌に感じる気温は涼しいくらいなのに、汗が額から頬から音を立てて滴り落ちる。
(今は、とにかく、帰らなきゃ。家に帰ればおじいも麒淵もいる。いっそのこと、魔道府に行っている紅が、先に家に着いていてくれて遅いって怒られる方がいいや。一人で……いたくない)
古書の中の出来事はとても遠い世界の出来事――偽の溜まりだとか、禁術だとか――なはずなのに、心がざわめいてしょうがない。
再び駆けだすものの、膝さえ笑い始めそうだ。蒼は気がつけば全力で道を走っていた。
それでも、やはり恐ろしいのは、そんな蒼を怪訝そうに見る人さえいないことだ。絡んでくる、たちの悪い酔っ払いさえもいない。
(くる、し)
そう思った瞬間、バケツをひっくり返したような雨が、蒼の体を打ち始めた。大粒の雨が体を叩くのもだが、なにより視界が霞むほどだ。数歩先が確認出来ないくらいに激しい。
蒼はとにかくと、近くの軒下に体を滑り込ませた。ずぶ濡れになり、重くなった髪をぎゅぅっと絞る。服よりなにより、両側で結った長い部分が重い。
(紺君が好きだって言ってくれた髪。長い部分を残しているなんて……私、変だ)
アゥマ使いは、古来より店を継ぐ前に他店で二年以上修行するのが習わしだ。近来では古い風習と言われ、さほど重要視されない。けれど、老舗茶葉堂でもある心葉堂は、慣習に沿い、蒼を桃源郷と呼ばれる場所へと送り出した。白龍の悪友でもある黒龍の店へと。
そこで色々あり、幼い頃からずっと長かった髪は両側以外は肩ほどになってしまった。その時、さっぱりと全部長さを揃えられなかったのは、とっさに紺樹のことが思い浮かんだからに違いない。
(お父さんとお母さんが死んで。戻ってきた時、紺君がすごくよそよそしかったから)
長い部分の髪を指でくるりと巻いた蒼の瞳が、じわりと熱を持つ。
ぎゅっと両手で長い髪を掴む。ぼたぼたと音を立てて落ちる水が、まるで自分の内側から出ているようだと思った。
蒼が帰省したり修行から戻った後、彼がよそよそしかったのがとてつもなく寂しかった。旅立つ前は、とても甘い時間をくれたのに。だから、彼が好きだと言ってくれて淡藤色の髪を、出来るだけ残しておきたかった。そうすることで……幼い自分を残すことで、紺樹の近くにいられると思ったのだ。
(前を行っちゃう紺君や紅に追いつきたくて頑張っていたのに。修行に行く前は、紺君、あんなことしたのに。戻ってきたら、ずっと丁寧語だし、よそよそしいし)
落ち込んで立ち直って、彼の隣に並びたいと頑張って、また落ち込んだ。華憐堂に客をとられたと思った。自分の力量不足で、初代から、そして先代までが切磋琢磨して茶葉を愛する人に気持ちに応えようとしてきた努力を、水の泡にしてしまった気がして。
「華憐堂さんができるまでは、私、ずっとアゥマが、茶葉がただ好きで、好きな茶葉を楽しんで貰いたいってやってきた。でも、それじゃ駄目だってわかった。だから、前よりもっと頑張ろうって思ったの。その結果の積み重ねで、紺君の隣に立てるようになるんだって。でも、それどころじゃないって知っちゃったんだよねぇ」
蒼は落ち込みが飛んでしまい位、とんでもない事実を知ってしまった。世界を揺るがすような、禁術の存在を。ただ大好きだったアゥマが、人の生死の概念さえも揺るがすような、とんでもない兵器になり得ることを知ってしまったのだ。
(さっきは、家に帰れば麒淵もいるから安心だって思ったけれど。どんな顔をして、麒淵にあえばいいのかな)
麒淵は建国以来の守霊だ。全部とは言わなくとも、少し位は禁書の存在やアゥマの恐ろしい裏の顔を知っているだろう。
本の内容を素直に全部話せばいいのだろうか。そうすれば、クコ皇国の弐の溜まりの守霊である麒淵は、アゥマの全部を教えてくれるだろうか。いや、人間の書物なのだから禁書自体は白に聞いた方がよいか。
(いやいやいや! おじいは書庫に封印の術をかけた張本人な可能性が高いわけだから、ちょっとでも話に出したら駄目でしょ!)
ぶんぶんと頭を振った蒼は、めまいに襲われた。それが衝撃からなのか、心理的なものかわからず、大きなため息ばかりが落ちる。
「わからないよ。もう、何に悩んで良いのかが。これなら、ただ自分の不甲斐なさに落ち込んでいた数日前の方が、よっぽど気が楽だった。私なんかが知って、どうしたら良いのかわからないよ」
膝に抱えた鞄が、きしりと悲鳴をあげる。茶器や心葉堂の水も、痛いと言った気がした。
「っていうか、雨が激しすぎて、ここまで濡れていたら走って帰っても被害は変わらないか」
地面にしゃがみこんでいたせいか、石畳に貯まっているであろう水がふんだんにスカートに染みこんできている。正直、下着もびちょびちょだ。
ため息をつくしかなくて、それが悔しくてもごっと空気の塊を飲んだ。
――こんっ――
その直後、頭上からこつんこつんと堅い音が聞こえた。無視をしたが、やはり、しつこく鳴る。うんざりと見上げて、ぱぁっと視界が開けた。
「お兄ちゃん!」
少し高いところにあるガラス窓にへばりつき、冷や汗を流して拳を打ち付けているのは紅だった。なにやらあせあせと動いているが、どうやら萌黄に腕を捕まれて出口に移動できないでいるのがわかった。
萌黄になにやら言い、それでもしゃがみこむ蒼に必死にこっちにこいと仕草で伝えてくる紅。いや、人気のない場所でしゃがみこむなと怒っているのか。
どちらにしろ、蒼は先ほどまでの鬱々とした気分も忘れ笑っていた。
「ほんと、紅ってば、だれにでも優しいんだから。萌黄さんの腕、本気で振りほどけないんだろうなぁ」
蒼はこみ上げる笑いを堪えることなどできず、膝を伸ばす。それを見て、紅が『助けろ』と言わんばかりに眉を垂らしたのに、さらに笑ってしまう。窓硝子1枚を隔ててもなお、伝わってくるぬくもりを蒼を幸せだと感じていた。
だからだろう。ガラスの向こう側にある嫉妬も、その奥に潜んだ哀愁にも気がつくことはできなかった。
「お店もう閉まっているみたいだけど、入れてもらえるかな?」
蒼は荷物を抱えてなおし、入り口の扉を手のひらで押した。
◆ ◆ ◆ ◆
時間は少しばかり遡る。紅が湯庵の後をついて行き、個室で腰を下ろした頃。
通りに面した個室は、大人四人ほどでいっぱいになる広さだ。何故通りに面しているかというかと言うと、それは実に単純な理由だ。
暑ければよく冷えた茶を涼しげに飲んでいる姿、寒ければあたたかな茶に頬を綻ばせているところ、そして春や秋にも見せ方は様々だ。実際、心葉堂でも小さいが茶処は設けられている。物の売り方とは、いかに人の購買欲を刺激するかだ。
「ささ、心葉堂の若旦那。雨で冷えましょう。ただでさえ、天候が不安定でございますからねぇ」
紅の目の前には、ふんわりと湯気をあげている硝子の茶壺がひとつある。丸まった茶葉がふわりとほぐれていく様に、心が安らぐ。そして、柔らかくほのかに香る花の香り。
花茶の中でも最高級と言われる『茉莉龍珠』だろう。香りだけではなくまろやかな口当たりに、深い味わい。心葉堂でも入手出来ないこともある茶葉だ。
(それが華憐堂でどう浄練され、浄化しているの味わってみたい)
ごくりと、紅の喉があからさまに上下した。警戒しているはずなののに、だ。
湯庵はそれを見逃さず、にやりと嫌らしい笑みを浮かべだ。一方、萌黄はどこかぼんやりとして、ただただ茶器に注がれる茶を眺めている。
「さすが老舗茶葉堂の若旦那でいらっしゃる。すぐにこれが茉莉龍珠と判断つくとは」
「見た目も香りも特徴的ですからね。今はなかなか手に入れにくいでしょう。茶葉店を営むオレがいただくより、待っているお客たちに出していただいた方が、同業者としても嬉しいですよ」
あまり稀少なものを出されて、変な恩を売られても困る。それらしい理由をつけて、紅は席を立とうと腰をあげかけ……手首をとんでもない強さで押さえつけられ、奥歯を噛む。
護身用に仕込んだ無詠唱魔道を発動する。毒物への抵抗力だけではなく、ある程度の防衛魔道が脳からの信号だけで発動が可能になる。
「まぁまぁ、茉莉白龍珠とおわかりになられたのが嬉しいんでやんすよ。それにおかしな心配はしないでくだせい。浄練の失敗作ですし。とはいえ、排毒に問題はありやせんから、遠慮なく飲み干してくだせい。折角淹れたのに、若旦那に飲まれなかったら捨ててしまうわけですし」
白龍は紅の祖父の名でもある。
読み方自体は茶の『はくりゅう』と名の『はくろん』と異なるが、わざわざ失敗作と表現した上に、捨てるとは少々というよりも、通常なら無礼極まりない。白龍はクコ皇国弐の溜まり心葉堂の先々代というよりも、現役の国のアゥマ使い最高峰にあるフーシオだ。
いや、華憐堂規模ほどの店守が、誤解を招くような発言をさらりとするだろうか。この部類の発言をする人間は2種類だ。警告か自己顕示欲からくるものか。
紅はぐっと堪え、困ったように笑ってみせる。
「いやだな、湯庵さん。まさかいくら浄練が思うようにいかなかったとはいえ、こんな稀少で香りが良い茶を捨てるなんてあり得ませんよ」
言いながらも、紅は考え続ける。紅の印象では、湯庵は上にはごまをすれるだけすり、自ら敵を作る部類の人間ではない。
あえて、このタイミングで口にして、茶を出したことに意味はなく、後で気がつき慌て出すかもしれない。
(どっちにしろ、こちらがどの程度把握しているのか探られている、って考えるにこしたことはないな)
紅のアゥマを視ることが出来る能力は、公にはしていない。魔道府に勤めている時だって、知っているのは魔道府長官と当時からの副長くらいだった。が、紅は国のアゥマ使い最高位であるフーシオの白龍の家族である。フーシオの一族は有事には全員で身をなげうつ義務を背負っている。当然、皇子である蘇芳を始め、皇族は把握しているだろう。
ということはつまり、情報が漏れている可能性がなくもない話だ。華憐堂の後見人となっている皇族が、彼らになんらかの理由で、この異常気象に手を貸しているとすれば。
「一度、お客人にお淹れしたものを家人がいただく訳にもいかないのは、おわかりでしょうに。ねぇ、萌黄お嬢さまからもなんとかおっしゃってくださいな」
湯庵の皺だらけの手が萌黄の肩に触れる。一見すると添えられているだけだが、武術を嗜む紅には、見た目以上の力が込められていることも、相応の痛みがある掴み方であるのもわかった。
いくら店守とはいえ、仕える家の娘にあんな風に触れるのが許されるのだろうか。
「えっと、あの。ごめんなさい、お――」
「お嬢さま。今日は長いこと外に出られて体調がすぐれないのでしょう。もうお休みなさいな。父≪ちち>さまである旦那様もご心配なされていやした」
湯庵がやけにしっかりと萌黄と目を合わせ、ゆっくりと言い聞かせるように口を動かした。前にも感じたが、どうにもこの店守は萌黄に対して高圧的だ。それだけではない。主であるはずの萌黄の父親にさえ、同様の態度に思えた。
「ふえっくしゅ!」
そこまで考えたところで、雨に紛れて愛らしいくしゃみが聞こえた。大きな雨音の中でもわかる。蒼のくしゃみだ。こんなことを言えば、また陰翡や紺樹にからかわれて、陽翠には呆れられそうだ。
「失礼。妹がいるみたいです」
蒼は真赭の書店の地下整理に出かけていたはずだ。どうせ書庫整理に夢中になって帰りが遅くなり、雨宿りしているに違いない。
紅はふっと笑っていた。あまり紅が浮かべない無垢な笑みだった。
(オレと蒼は昔から不思議なくらい、偶然会うんだよな。隠れたり落ち込んだりしている時に限って)
紅が蒼を兄としてずっと守ると決めたあの日も、そうだった。家出をした自分を追ってきて、髪は泥で、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった蒼。決して、幼かった蒼がこられる場所ではなかったにも関わらず、蒼はひょこっと現れた。
紅が無視して進んでも、めそめそしながら後を黙ってついてきた蒼。そして、最後には泣いているのか笑っているのかわからない蒼が、魔物をびびらせるくらいの大声で叫んだ。
「ぶえっく!」
ずいぶんと親父くさいくしゃみに、紅は我に返った。あげかけた腰を完全に伸ばすと、柔らかいものが腕に押し当てられた。健全な青年である紅は若干の焦りを伴い、衝撃をあたえてきた本人に視線を落とす。
腕にしがみついている萌黄は、先ほどまでのぼんやりとした視線が嘘のように、きっと強い瞳を向けてきていた。
「あっあの、萌黄さん?」
本人のきらきらした瞳よりも、湯庵のじとっと伺うような視線の方がつらい。紅は窓に近寄りつつ、必死で萌黄をはがそうと試みる。
とりあえずと窓を叩けば、蒼が大きな牡丹色の瞳で見上げてきた。少し前までは陰っていた瞳が、どこか大人めいた色を伴っているように思えた。雨が淡藤色の髪を肌にはりつけているせいだろうか。
「妹がずぶ濡れなようなので、一刻も早く自宅につれて帰ります。失礼」
仕草で蒼に店から離れるように伝えるが、当の蒼は楽しそうに笑うだけだ。普段なら可愛くて仕方がない笑顔だが、今は空気を読まない蒼が恨めしいと思った。華憐堂に近づけたくないのに。
ともあれ、不穏分子に蒼を近づけたくないのは絶対だ。紅はことさら大きな仕草で蒼に店から離れろと伝える。
「……どうして、あちらばかりを見るのです?」
ぞくりと冷たいものが背中を駆けた。蒼がこちらにくるのを止めるより、腕に絡みつく氷の体温が、紅を凍らせた。
視線の先には、見たことがない無表情の萌黄がいた。