第49話 魔道府14―長官―
長官室近くの階段からやや離れた頃、紅は歩く速度を緩めた。そうしてようやく。紅は、見晴らしの良い渡り廊下に心地よい夜風と涼やかな虫が鳴いているのを知った。
途端、長袖を纏っているはずの腕に寒さを感じた。いや、震えを自覚した。
(政に係る大臣を、弐の溜まり心葉堂の店長代理としてかわせたと思っていたのに。今頃になって緊張がくるなんて、情けない……)
紅の唇に血がにじむ。にじむモノは感じているのに、噛んだはずの唇さえ感覚は曖昧だ。
大臣と対峙した時には、平然を装えていた。けれど、やはり相手は紅とは比較にならないぐらいの人生経験も知識も、ましてや風格のある人物だ。その平然ささえ、滑稽にうつっていただろう。
鼻歌を刻む長官には悟られたくないと、紅はほんのわずかにだけ、石の廊下におろす爪先の拍子をずらした。
「今夜は、良い風が街を包んでくれているのです」
数歩先を行く長官の口笛と、己のわざとらしい足音が重なったのは偶然か。
紅は軽く頭を振った。目の前の女性が人の動揺に気が付かないはずがないと。
握り拳を作る音さえ、見透かされている気がする。それでも、全身を絞めずにはいられなかった。
静かな廊下に鳴る心音はひどく激しいものだ。けれど、唯一、空間を共有している人物は実際の大きさに見合わないほどに、紅の葛藤を受け止めてくれる。見ないでいてくれる。
「夜茶日和なのですねー。蒼の熱々の茶を傍らに盃を持って、星空を眺めるなんて、最高なのですよ。わたしの一番の好物はお酒なのですけどねー」
紅は己の情けなさに耐えかね、長官に見送りの礼を述べようと口を開きかけたのだが。当の長官は弾み気味の足取りを止めることはなかった。
むしろ、このまま心葉堂に乗り込む勢いの台詞に違和感を覚えた紅。本心ではないとわかる口調だから。悲しい。わかってしまう。
「あの、長官。見送っていただくだけでも嬉しいのですけれど。ここまでで――」
紅の呼びかけに、長官はくるりと身を翻した。外套に着られている、と表現した方がしっくり幼子の体は、まるで踊っているようだ。
けれど。赤みのある珊瑚色の髪が廊下の外套の優しい光を受け、いつもより落ち着いた色に見えた。
「ぶっぶーなのですよ」
頭の両側で結われている髪も口調も幼いというのに。浮かんでいる表情のせいだろうか。長官の笑顔は、空気に溶け込んでしまいそうなほど淡い。
紅の手が、肩にかけた鞄の紐をきつく握る。数歩の距離。これ以上、近づいてほしくない。
「せっかくなので、このまま門まで送るのですよー」
「ですが、長官は随分とお疲れのようです。大臣もお待ちのことですし」
「だいじょーぶ、だいじょーぶなのですよぉ。突然ではありましたが、そろそろやってくるだろうっていう心当たりはありましたから、紺樹が全部対応してくれますです」
確かにと、紅は心の中で同意を示した。魔道府の長官を予約もなしに訪れることなど、通常は失礼にもほどがある。
先ほど言葉を交わした老人の様子を思い出してみても、取り立てて緊急性があるとも考えられなかった。
「では、長官を疲労させる場に戻ってくださいなんて、オレには言えませんね」
長官の声色があまりにも可愛らしいものだったから。紅は目の前の女性が年上なのは承知しながらも、まるで蒼へ向けるような色を瞳に浮かべてしまう。
「あぅぅ。紅ってば、ますます白に似てきたのですよー!」
「長官はおじいと昔ながらの付き合いなんですよね」
「はいなのです。でも、まぁ、紅と同い年くらいの時の白ってば、紅みたいな可愛さは皆無でしたけれどー」
長官の声は懐かしさに溢れていた。と同時に、紅にはどうしてか、思い出を語るのとは違った色が感じられた。
いや、考えすぎだろう。紅は自分が年若いゆえにそう思えたのだと流す。
「昔はよく、心葉堂でオレの両親を交えて酒盛りをしては、思い出話に花を咲かせていらした覚えがあります。長官――ホーラ様とおじいの禁書を巡った冒険話や、魔道府の長官になられた後、それにおじいがフーシオの位に就いた時の話もすごく面白かったです」
長官の本名を口にしたのはいつ振りだろうか。紅が魔道府入府して、そして退職してからも部下の時の癖で『長官』と呼んでいたので、かなり久しぶりに思えた。蒼だって、今では紅につられ長官と呼んでいる。
白龍とて、長官と二人で飲む時以外は、どんなに親しい口ぶりでも呼称については一線を引いているらしい。
「ホーラ様?」
幼い頃の記憶にある彼女に見えたからだろう。
紅は敬いを忘れ、小さい自分を向き合っていた頃の長官に出会った気がして、思うがまま呟いていた。
小首を傾げた紅を前に、一気に染まっていく長官の肌。
「紅ってば不意打ちなのです! とんでもなく久しぶりに、紅に名前を呼ばれましたのですよー! 今となっては、この国で名前を口にしてくれるなんて白くらいですから、てれてれですぅ! わたしみたいな文化圏が離れたところの名前って発音しにくいのもありますのですがね!」
かぁぁっと。音を立てて頬を染め本気で照れている長官を、紅は初めて見た。
思わず、ぶしつけに長官を見つめてしまった。珍しく遠慮のない紅の視線を受け、長官はさらに瞳を潤ませた。
「くくっ紅のそーいう天然すけこましな部分は、白にそっくりなのですよ!」
長官はついに、すっぽりと。大きなフードに隠してしまった。
「おじいに、ですか?」
紅は祖父を尊敬している。あの年になっても遊び心を忘れず、引退してもなお人望や好奇心は衰えるところを知らない。
そんな祖父と似ていると言われるのは、とても嬉しい。それと同時に、大きな違いも実感してしまう。
「オレとおじいが似ているのは、外見くらいですよ。おじいは、本当にすごいから」
ぽつりと零れた呟きさえ、響く夜。
白龍は天才肌だ。茶師と言う枠を超えた多分野で才能を発揮している。
おまけに形式にとらわれない自由な人でもあり、かといって、風習や先人の知恵を軽んじることもない。
「中身という点ならば、間違いなく蒼の方がそっくりです。オレは自分が凡人だと理解しているので、厳しい現実ですけど」
「紅ってば白の良い部分だけ引き継いで、奔放さは似ず、藍たちの誠実さを受け継いでいるから安心なのです。あぁ、でも、紅はせめて白の爪先ほどは我儘になっていいのですけどねぇ」
とても軽い口調だった。会話の流れだって極めて自然かつ、長官が場を和ませようとしているのがわかる展開だ。
それでも。どうしてか、紅の涙腺は緩んでしまう。同時に、己の心が弱く、疲れているのだと自覚できてしまい、ぐっと唇をかんだ。
「ちょっ長官は、正確にはおじいがいくつの時からの仲なんですか?」
自分の早口の言葉をつれて、紅はぱっと顔をあげた。
あげた先にあった長官の顔は、呆けていた。一気に、紅の額に汗が浮かぶ。
「すみません! 間接的とはいえ、女性の年を尋ねるようなっていうか、それはまったくなくて、昔のおじいってどんなか聞きたいなって思っただけで……! あー! おじいだけじゃなくって、もちろん、長官っていうか、ホーラ様のこともって思って!」
しまったと。言動を補おうと思うほど不思議なもので、墓穴を掘り続けてしまう。幼少の時期から長官を見てきた紅にとって、長官は年齢をネタにされるのを嫌ってはいないと知っている。むしろ、避けられるの嫌だと思っている。
しかし、本名を連発して口にしてしまったのだけは間違いだった。紅は冷や汗を止められない。
「うわぁ! さっきから本当に失礼ばかりで。長官のお名前はおじいだってなかなかにしないのに、気軽に何回も呼んでますね」
両手を無意味に動かす紅をよそに、長官はつっと一歩前に躍り出た。
「えへへ。いいのです」
宙を踊っていた紅の手から、力が抜けた。
純白に青い線を乗せた外套が、夜風を含んでふわりと膨らむ。
「嬉しいのですよ。ただね、名前を普通に呼ばれると思い出してしまうのです。自分がただの『ホーラ』であったころを」
吹いた風に舞い上がった前髪のせいで、長官の表情は隠れてしまっている。空で煌めいている星も、空にぽっかりと空いた光の穴のような月も。そんな長官の心を代弁しているように、切なく思えてならなかった。
「おじいとは元々冒険仲間だとは聞いていますが、心葉堂のお茶を買いにたまにクコ皇国にも訪れていらっしゃったんですよね?」
長官はわずかに眉を下げた。
「はい、なのですよ。白と知り合った直後から、友人と一緒にクコ皇国を訪れていたのです」
長官の視線は長い廊下の先に向けられている。人気のない、静かな空間。
紅には、そこに長官の過去が映し出されている気がした。それほど、彼女の赤い瞳は遠くを映していた。まるで、大理石のひとますひとますが、思い出の欠片であるように。
「その縁で、腐れ縁の引きこもり悪態魔法使い――この国でいう魔道士なのですね。彼に魔道府長官の話がきたのです。わたしはただの仲介だったのですよ」
「意外です。だって、オレには長官以上に長官だと思える人はって、すみません。すごい主観ですよね!」
長官にしたって、かなり優秀な魔道士だとだれもが知っている。おまけに人徳もあれば、部下の育成に関しても身をもって知っている。
「彼には、愚かなほど純粋で可愛い想い人と大切な子たちがいましてね」
月を見上げる長官に紅の目が見開いていく。懐かしさと、恨めしさと、ほんのちょっとの苦さ。絡み合う感情を赤い瞳に浮かべている長官は、初めて見た。
紅の視線に気が付いたのか。目を合わせてきた長官は、にかりっと歯を見せて笑った。外見年齢相応に。
「彼はその想い人と愛する子たちを守るために、世界最高峰とも称せるこの名誉も地位も跳ねのけたのですよ。まったく! こんな大国の重要職を蹴るなんて! と、わたしが横取りしてやった次第なのですよ! あいつらときたら、ほんとに純すぎてバカバカなのですよ!」
「オレには……よくわかりません。純粋さが愚かさになるのが。長官にとって、その『愚か』というのはどのような意味を含んでいるんですか?」
無知は罪だと、紅は経験済みだ。けれど、無知と純粋は違うと思う。そして、長官の様子からも負の面だけを意味していないのはわかる。だから、紅は知りたかった。
「紅にとっては、そこが問題なのですね」
「すみません。論点がずれていましたね。でも、長官が敢えて純粋さと『愚か』とおっしゃった理由が知りたくなって」
「いえ。だからこそ、わたしは、今日、紅を呼んだのです。そう捉える貴方にだからこそ、あの書物を読んで欲しくて、今回の任務を本当の意味で完遂するに相応しいと思ったのですよ」
紅が口を開くより先に、長官がへにゃりと音を立てて笑った。
「純粋さは人を愚かにする要因になり得る素質が高いですが、本来はとても綺麗なものなのです。けれどね……時として、残酷なほど人を狂わせる一番の毒になるのですよ。本人はただ純粋なだけなので、それにも気が付かない」
紅は、長官が言わんとしていることには共感できた。いや、共感というよりも己がその沿線上にいる存在だから、痛感してしまうのだ。
彼女彼女の場合、自分の身体に無頓着で、向けられる絡み合った感情をひたすら純粋無垢に受け入れるソレだった。
「当人に人を傷つける意図はなくとも。わたしが知っている子もある意味ある人には麻薬みたいな存在だったのです。それこそ人生計画が狂うような捻くれで呆れるような優しさを発揮するようになるくらいには」
紅の数歩前にいる長官は穏やかな笑みを浮かべているのに。何故だろうか。紅には思いっきり泣いていると思えた。つられて涙腺を緩ませてしまいそうになる。
「つまりは、人を助ける薬にもなり得るのと同時、人を惑わせる麻薬にもなると?」
長官は沈黙したまま、少しだけ困ったように笑った。
紅のあからさまな動揺を汲み取ったのだろう。長官はわずかに腰を捻り、紅を見上げた。
「大丈夫なのですよ」
紅は、長官の声に引っ張られるように大きく一歩踏み出す。
「薬であれ、毒であれ。想い自体がいきつく処は、いつだって同じなのです」
いつの間にか、目の前には魔道府の大きくて立派な門が見えていた。