第48話 魔道府13―視える者―
「……数回飲んだところで、判断はつかないだろ」
冷たくなった指先には気が付かないふりをして、紅は視線をあげた。
「白の立場は、いろいろ難しいのですからねぇ」
紅には長官の一言が全てを示しているのが理解出来た。既に何かしらのやり取りが二人の間であるのが予想出来る言い回しだ。
フーシオの地位にある白。彼が何か悟っていたとしても、内容を紅や蒼に伝えるのは、どうしてもフーシオの家族として巻き込まざるを得なくなった最後の時だ。
「おじいはさておき、問題は依存性だよ」
ひとつの商品に禁忌草の効果を含ませ、アゥマの量を調整していく手法ならば、開店当初からの人間にしか自然に依存性を植え付けられない。
華憐堂が巧妙なのは、まさにソコだ。
全部の商品に微量な反復性をもたせる。そして成分を蓄積させることによって、禁忌草と同等の効果をもたらすように調整している。
紅にはアゥマが視える。華憐堂のだけではない。人々が纏うアゥマが。
「人間てのは、流れるような小さな変化には疎いものだ。その心理をついたんだろう。まっ。例えとして禁忌草を出しただけで、実際はアゥマが禁忌草と同じ効果を、一部としてもたらしてるということかな」
「旅行者や一見の反応は欲していない、ということでしょうか」
耳を傾けていただけの陽翠が、重々しく口を開いた。
紅の手が喉元を滑る。
紅は弐の溜まりを守護する家系の長男として、特異な能力を引き継ぐ者として、様々な毒への耐性がある。麻薬はもちろんのこと、未浄錬の食物や人には強すぎる濃密なアゥマもだ。幼少の頃から、両親や祖父に鍛えられてきた。
加えて、実際にアゥマを視ることが出来る。それは自分自身が纏うアゥマも含めてだ。だからこそ、警戒の意味も込めて蒼には華憐堂の茶は飲まないよう注意してきた。
「あぁ。身体だけじゃない。意識よりも深い部分、あれは個人が纏うアゥマが吸い上げられる感覚だった。目的はそこだろう。毒に浸らせるのじゃない。此処にいる人間のアゥマを集め続けることだと、オレは考えている」
茶を飲んだ後の脱力感と意識の消失。原因はまさにアゥマの吸い上げ。現代に生きる人間は、量に関わらずアゥマを纏っている。術として発動可能かは別にして。
紅は真っ直ぐに紺樹を見つめた。自身の考えを確信に変えるように。
けれど反応をみせたのは陽翠だった。
「そんなっ!! 吸い上げられるって茶にですか?」
「ほんまかいな?! つか、吸い上げられたアゥマはどこに集められるん? 空気に混ざって毒が浮遊してるような状況なんか?」
矢継ぎ早に質問を振ってくる双子に、紅は後ずさってしまった。考えを突きつけた紺樹も長官も、読めない表情で傍観しているから。
この恐ろしいアゥマで浄練されている茶葉。皇族の一部が華憐堂の後見人となっている事実、ひいては例の女性の正体に繋がっている。
少し前の紅なら、アゥマが吸い上げられる魔道の存在も奪ったアゥマをどう利用するかも、想像がつかなかっただろう。
「異常な茶葉を出回らして、華憐堂は一体何を企んでいるのですかねぇー首都の人間をなぶり殺しにしても、いち茶葉堂に利益があるともぉー」
あざとく立てた指を頬に埋め、首を傾げている長官。
「オレも……詳しい利用目的までは」
紅は確認するように、長官を見やる。不自然になっていないといい。紅の視線に気がついたのだろう。長官はにこりと音を立てて「こまったちゃんの考えは難しいのですよー」と反対側に頭を倒した。
直感に近いものだが、紅にはひとつだけ可能性が浮かんでいた。ついさきほどまで長官と話していた、禁書の中身。さらにはあの女性の正体に繋がるものだと。
目に映さなくとも、紅の脳裏には禁書の紙質や香りが鮮明に蘇ってくる。
「ほぅ。紅であってもですか?」
藍に近い紺桔梗の瞳を軽く開き、肩を竦めたのは紺樹だった。
嫌味なのか、買いかぶりなのか。
紺樹のことだから両方なのだろうと、紅は瞼を半分落とした。
「副長、現時点のオレが貴方の推測を上回るのは不可能ですよ。将来はさておきね」
「おやおや。幼馴染として、将来が楽しみと微笑ましく思えば良いのか。はたまた元先輩として、成長していませんねと叱るべきなのでしょうかね」
長官と交わした緘黙の誓いには、十中八九、禁書の不可解な男性の話も含まれている。そう考えた紅には、これが精一杯の回答だった。長官との契約を破らず、なおかつ誤魔化しのきかない紺樹に真摯に応えられる言い回し。
ぎりぎり表現した割に、紺樹は実に満足げに微笑んだ。あれは――昔よく向けられた、兄の視線だ。
「紅。今日は家に戻り、蒼の茶を飲んでゆっくり休んでください。あぁ、師傅の茶も捨てがたいですね」
「言われ、なくても」
「蒼の茶が毎日飲める紅が羨ましいです。天候も不安定、アゥマの流れも揺れ、執務による寝不足と疲労が積み重なっている、今は殊更に」
悔しい。紅は舌打ちこそしないものの、内心では盛大にため息をついた。
「あと、くれぐれも蒼に心配をかけるような行動は、控えてくださいね。紅の胃痛を誘う蒼ですが、かなりのお兄ちゃん子なので」
「言われなくても重々承知してますよ。うちの妹が、若干歪んだ優しさをくれてるのはね」
「お節介でしたか。そうそう。蒼は真赭の書庫整理を手伝っているらしいですが……興味深い本が見つかるかも知れませんので、面白い話が聞けたらぜひ教えてください」
紺樹の情報源は広い。なぜそんな日常まで知っていると噛み付くことはしない。 けれど、わざわざ話題に出してきた。蒼に直接告げず、紅に『教えてください』と述べた。必ず、裏がある。紅にはわかる。裏というよりも、単純に表に出さないと言うべきだろうか。
紺樹は蒼に甘い。時折、溺愛をこじらせて蒼自身を傷つけるような守護の精神を発揮するほど。であっても、基本的には過保護である。明白な言動に出ている紅とは、別の部類の。たちの悪いことに、甘さがあからさま時よりも、隠しつつも影ながらに動くという場合の方が多いのだ。
それでも紅を間に挟む機会は少ない。だから、紅を介した蒼の心配は不安を煽る要素しかない。
「まぁ。近いうち、蒼に触れに行くつもりですが」
「言葉の選択が間違ってますよ。会いに、でしょう。普通」
「おや。紅が私を普通と称するなんて驚きですね。棘がないと居心地が悪い」
いつも通りの応酬。なのに、心がざわめくのはなぜだろう。
きっと緊張状態が続いている影響だろう。紅は無理やりにでも自分を納得させた。この数時間で、色んな情報を得すぎて過敏になっているだけだと。
紅の疲労を察したように。柱時計がぼんぼんと大きな音をたてた。
「もうこんな時間か。そろそろ失礼します」
紅は疲労と混乱を誤魔化すように、なんとか営業用の明るさを浮かべた。
親友である双子さえも騙す笑み。けれど、長寿の長官と全てを見せてきた紺樹には、胸の奥の感情までお見通しなのだろう。
それでもと。紅はきゅっと口の両端をあげた。
「長官。近いうちにまたお会いしましょう。失礼します」
「わたしも近いうちに、心葉堂にも行くのですよー。あ、紅。そこまで送るのです。紺樹たちは、華憐堂のお茶を早急に封印棚へ閉まってくださいなのです」
「承知しました」
紺樹の頷きに応え、双子が手際よく片づけを始めた。
紅も持参してきた道具をまとめ、無言で踵を返す。
重々しいはずの扉は、紅の意思を尊重するようにあっさりと身を開いた。貼り付けた表情を崩さず、手元にのみ力を入れる。背後で低い音をともなって、がごんと隔たりの響きが鳴った。
(オレは蒼も紺兄も――家族みんなを守りたいんだ。でも、駄目だな。最後のなんて子どもの癇癪じゃないか。支離滅裂だよ、思考の中も含めて。あぁ、情けない)
願いと反省を噛み締め、紅は面をあげる。顔を覗き込んでいた長官には、心配の色が浮かんでいる。よほど自分の顔色が悪いのか。紅は軽く頬を叩いた。
「――から、自分は」
階下から、懐かしいというには不快な音が響いてきた。紅の眉間に皺が寄っていく。
「問題ない。わしがあのような小娘に挫けるはずはない」
階段をあがってきたのは。ゆったりとした礼服を纏った白髪の老人と、見覚えのある学友だった。
白髪の老人は紅と目が合うなり、恭しく頭を垂れた。長い両袖に手をしまい、膝をつく勢いである。隣の学友も、頬を引きつらせつつも礼にならった。
紅も年上の彼の動作を制することはしない。逆に彼の動作を非難することになるからだ。紅が魔道府に勤めていたなら、真逆の立場だったであろう。紅にとっては、その方が自然な待遇だ。
「貴方様の御前にて私語、大変失礼致しました」
現状は異なる。紅は心葉堂の店主見習い――弐の溜まりの後継者だ。街中であるなら別だが、魔道府や宮では取り決めやならわしに従わざるを得ない。ましてや、長官の目がある。
「弐の溜まり、時欠を賜りし心葉堂の店主紅暁様の御前であるにも関わらず」
「面を上げてください。弐の溜まりの守護を賜りし紅暁、貴方様の言、耳にしておりません」
「ありがたき幸せ。貴殿のごとく聡明な後継者がいらっしゃる心葉堂は、ますますご安泰ですな」
心がこもっていない口上など、紅の心には響きもしない。むしろ嫌味と取れる言葉を並べられただけの気がして、滅入る。恭しい礼の姿勢にも、ただ虚しい息がこぼれた。
だからこそ。白髪の老人にいる学友の、にやついた視線に胸がざわめく。
ちらりと横目に長官を見れば。必要以上に、にこやかだった。
「中に紺樹次席副長がひかえているのです。突然の来府ゆえ、わたしは少々席をはずしますが、すぐに戻りますのです。心葉堂の茶でくつろいでいてくださいなのですよ」
「お心遣いに感謝いたします」
長官と良い勝負の態度で、老人はさっさと扉を開き、姿を消した。
階段の先に視線を投げた紅。
学友である燕鴇は、長官の笑みの裏を読んでいないのだろうか。本物の幼女のごとく楽しげに階段を下りていく姿を、胸糞悪い目で見下ろしている。
「紅さ、華憐堂の娘にたいそう気に入られているそうじゃないか」
「単なる噂だよ。同業者としての付き合いがある程度だ」
返しは、紅の性格から予想がついていたのだろう。
燕鴇はお見通しだと言わんばかりに、肩に腕をまわしてきた。陰翡もよくしてくる行為だが、沸きあがってくる感情は似ても似つかない部類だ。
「この情報通の燕鴇様に隠せるかって。それに、華憐堂は皇族と繋がっているって噂も耳にした。俺も常連になれるよう取り計らってくれないか? 旧友のよしみでさ」
紅の頭を占めたのは、燕鴇の情報などではなかった。
むろん、華憐堂と皇族の接点には多少なりとも驚いた。けれど重鎮の議事録をとる立場にある彼なら、小耳に挟む程度の雑談を膨らませて『繋がっている』と捉えても不思議がない。学院時代から変わらない性格だ。
「あららー」
階段下から響いてきた高い声に、紅と燕鴇は腰をひねった。
すっかり暗くなった景色の中、備え付けの角灯の光を背負った長官。立てた指を顎に添え、両側の口端をあげている。
紅の背筋がぞわりと逆立つ。
「情報通さんなら、もっともーと知ってるのですよねぇ」
長官の挑戦的な語調に、燕鴇はまんまと乗せられたようだ。
目の前の幼い姿の中身が、国の重要機関魔道府の最高責任者であるのを忘れたように、尊大に腕を組んだ。
「おい、燕鴇――」
「はん。知ってたって全部出すもんか」
「なら、いい。『知っている』のなら。理解しているのなら、深入りはしないだろうから」
一段階どころか、二段階も三段階も低く響いた音。口調も日ごろとは異なる。加えて、牽制だろうか。紅には、長官の周囲でひしめきあっているアゥマが視える。
紅でさえ汗が噴出してきた。
隣の燕鴇などは、がたがたと震えている。真っ青になって。燕鴇の瞳には視えなくとも、体内に含有しているアゥマがもろに影響を受けているのだろう。
「じゃあな、燕鴇。長官、お待たせしました」
「いいえーなのですぅ。紅とならいつまでも一緒にいたいのですよー」
長官の警告は燕鴇にきいたのだろうか。正直なところ、彼の性格からして素直にひく可能性は低い。
酒を飲ませれば華憐堂の後見人である皇族の噂のひとつでも、自らしゃべってくれそうだ。
重い音を響かせて、紅は廊下を進む。この先に待ち受ける現実に、歯軋りしながら。
横を歩く長官がもの悲しげに微笑んだ……気がした。