第46話 魔道府11―華憐堂の茶葉―
「紺樹、おかえりなさーい、なのですよ!」
長官席から身を乗り出した長官は、わざとらしいほど明るく手を振っている。だが、長官の明るさを後ろめたく感じたのは紅だけだったようだ。自分に極秘任務を与えるため、人払いをしたと知っているが故の、色眼鏡かもしれない。
双子は、別段変わった反応を示すことはなかった。それは、彼らの横から一歩前へと出てきた紺樹も、同様であった。
「はい。ただいま戻りました、長官。それに、紅も」
紺樹は、相変わらず爽やかな微笑みを浮かべている。紅にとっては憎たらしいことこの上ない微笑みだ。だが、今の紅には紺樹を睨む気力はない。視界の端に入れるだけに留めた。とは言っても。紺樹は、目の端にだけ映っているというのに、妙な存在感を放っている。紫色を基調とした制服姿の紺樹は、大きな白い外套を纏っている長官や双子の中で浮いているせいだ。紅はだれにするのでもなく、言い訳をした。
紺樹自身よりも、問題は抱えている紙袋だ。厚めの素材で作られている紙袋は、壊れ物を扱うように抱えられている。
中身は瓶だろう。職業柄、わずかにぶつかり合う硝子の音や袋のふくらみ様で、大体の予想がついた。
「長官、次からは配布物の期日、忘れんよう頼むで。ほんまに。配って署名もらうだけで、お日さんがどっぷり沈んでもうたわ」
「すみません、長官。それに紅も。各部署、各々の案件で煮詰まっているようで、紺樹副長を離してくださらなくて。思ったより、時間を要してしまいました」
紅が訝しげに紙袋を見ていると、紺樹の後ろからついて来た双子が申し訳なさそうに眉を垂らした。紅は一瞬、何故自分が謝罪の視線を向けられたのか、首を傾げてしまった。
けれど。陽翠の視線が、すっかり空になった茶瓶に向けられているのを確認できると、すぐに納得いった。
紅が長官からじきじきに調査を受けることを、双子は知らされていない。単純に、長時間、長官の茶の相手をさせてしまったという意味合いなのだろう。
「人気者はつらいですね。人望と言いますか、日ごろの行いでしょうね。あぁ、このような自慢をしては、長官がへそを曲げてしまいますかね」
「ぶー! 自分で口にするなんて、世話ないのですよー!」
「はい、反省いたします。ので、ぜひ、次回は最も人望を集めていらっしゃる我らが魔道府長官直々に、みなの話を聞いてやってください。魔道府一同、感極まって涙を流すことでしょう。まぁ、今回私は別の状況から、心の中、涙を流したわけですが」
怒っている。偽りの穏やかさの中にあるのは、確実に苛立ちだ。
どんなに完璧な笑顔を浮かべていようと、万人がうっとりするような柔らかい声調で相手を褒め称えていようと。童顔で人当たりの良い空気を纏った青年から、長官へ向けられている感情は、とても捻くれたもの。紅は察してしまう。
最後の一言とて、魔道府の部下たちに慕われてではなく、心葉堂に出向けず――蒼に会えなかったという意味に違いない。
(わかりきっている理由を改めて、しかも意図せず認識させられるなんて、オレの腹が立ってしょうがないよ)
紺樹に笑顔で凄まれ、長官は大きな外套に埋もれてしまっている。あれでは、どちらが上司かわかったものではない。
長官と副長のやり取りなど耳に届かぬが如く、陽翠は抱えた紙の束を、皮の書類綴へと挟み込み始めた。陰翡といえば、呑気な顔で背を伸ばしている。
先ほどまで紅を支配していた緊張感の反動だろうか。心持ち瞼を落として、ぼんやりと茶器を見つめてしまう。
しかし、紺樹が円卓に置いた紙袋の印を確認すると、途端、頭に血が上っていった。
「おや。親の敵でも見つけたかのような恐ろしい形相で睨まないでください。ただの茶葉ですよ?」
「副長。またそないに、紅の怒りを煽るような物言いはやめぇな。紅も蒼以外のネタで副長に噛み付くなんて、珍しいやないか」
「……陰翡、本気で言ってるんじゃないだろうな」
紅自身が驚くほど、低い声が腹の底から這い上がってきた。あわせて、陰翡の焦燥交じりの声が大きかったせいか、長官と陽翠も体ごと二人に向き直った。
女性二人の顔には、驚きの色が浮かんでいる。
いささか過敏に反応しすぎただろうか。体格に見合わない気の優しい陰翡が、叱られた子犬のようになっている。びくりと体を縮めた陰翡を見て、紅は申し訳ない気持ちになった。陰翡は、紺樹の『ただの茶葉』という言葉の持つ意味を和らげたかっただけ。紅も理解はしている。
けれど、と。珍しく、紅は目じりをあげたまま、空気を和らげることはない。紺樹と陰翡、双方が捉えている『ただの』という言葉が持つ意味は、異なっているのだ。
「華憐堂の茶葉、なのですよね。紅、紺樹も好んで購入してきたわけではないのです。あくまでも、調査の一環なのです」
可愛らしい足取りで近づいてきた長官は、諭すように紅の腕を叩いた。
長官が口にした内容など、紅も重々承知している。彼の琴線に触れたのは『ただの』という部分だ。紅は、自分の店や妹が扱う茶葉を大切に想っているのはもちろん。茶葉自体を大事にしている。
それが、いくら商売敵の茶葉であっても揺らぐことはない。商売の姿勢や茶葉を扱う心構えに反発は抱いても、茶葉には礼儀を持って接する。それが紅――心葉堂の教えだ。
紺樹はその信念を知った上で、あえて『ただの』と口にした。明らかな故意だ。
聡い紺樹のこと。長官が人払いのため双子を使いに出し、時間稼ぎをするために紺樹に指令を出したことなど見通しているのだろう。加えて、紅や部屋の空気を読んで。
つまり。今回のアゥマの乱れと華憐堂が絡んでいる事態に関連し、紅が公な監査以外に、密命を受けたのも予想の範囲だろう。であるのに、『ただの』と言い放ったのは、十中八九、紅に深入りするなと警告したのだと解釈できる。
だてに十年以上、家族のような付き合いをしてはいない。
紅は強く唇を噛んだ。
「心葉堂の茶を飲まれていたのですね。でしたら、折角です。華憐堂の茶もあることですし、利き茶でもしてみますか?」
「お心遣い、痛み入ります。ですがっ! 商売敵の茶葉など、とっくの昔に頂いておりますので! どうぞ、お気遣いなくっ!」
「いえいえ。こちらは新作らしいですよ? 本日立ち寄った際、萌黄さんから販売に先立ってと、特別頂戴したものです」
今の言葉で、紺樹が華憐堂に受け入れられている程度が、嫌でも突きつけられた。
紅の口内に、苦味が広がっていく。紺樹が華憐堂の贔屓の中でも、特に家人に近しい位置にいるなど。間違っても、蒼には知って欲しくない現状だ。
蒼が消沈する姿がありありと思い浮かび、紅の表情が怒りよりも複雑な思いの色に変わっていく。
「ちなみに、付け加えておきますと。本日、店主はご不在でしたので、萌黄さんに直接茶葉を頂いたのです。あぁ、当初は新作を頂けるという話ではなく、あくまでも注文していた黄茶を、だったのですけれど――」
紺樹がにこりと音を立てて微笑む。しかも、もったいぶった口調だ。
正直、紺樹の言葉の続きを聞きたくはない。紅は耳を塞ぎたい衝動を押さえ、なんとか冷静を保っている、振りをした。
陰翡と陽翠は興味津々といった様子で、紺樹の言葉を待っている。
長官は――視線を動かすと。案の定、天井を仰いでいた。きっと、紅と同じ考えを持っているに違いない。
「紅が魔道府に来ているのを伝えたところ、ぜひにと下さったのです。長官の長話につき合わされているだろうとお話したところ、ご一緒したいとも希望されたのですが。さすがに、それは丁重にお断りしておきました」
「……萌黄さんの希望はともかく、副長が帰られるまで、オレがいる保障なんてないじゃないですか」
「おや。長官が紅を指名しておいて、そう簡単に帰すとも思えませんけれどね」
新しい茶器を手際よく用意していく紺樹は、いつも以上に考えが読みにくい。紅は内心で盛大な溜め息をついた。
紺樹のことだ。単純に萌黄との会話を用いて、紅をからかっているだけではないのだろう。密命のことも、時期はともかく、特異な能力を持つ紅に依頼が降りるのをある程度は予想の範囲だ。だから『簡単に』と遠まわしな言い方を用いた。
しかし、長官の行動を先読みした上で、紅に依頼がくるのを阻止しなかったのは、少々疑問が残る。紅自身ではなく、確率はともかく、蒼を巻き込む可能性が生じるからだ。蒼に対し、紅とはまた違った過保護さを持つ紺樹にしては、いささか不可解な判断だ。
「あぅ。だってだって。白は別件で用事があると言いますし。蒼も真赭のお手伝いをしに行くから邪魔をするなと、白から釘をさされましたのですよ。あっ! 消去法で紅のお茶になったという意味ではないのですよ?!」
「長官、わかってますよ。蒼に気を使って頂き、ありがとうございます」
「はぅ。紅は、紺樹と違って素直でいい子なのですよー紺樹は元々いい子なんて、似合わないのですけどねっ!」
紅とて、決して良い子と呼ばれるにふさわしい年齢ではない。が、長寿という長官からしたら子どもなのだろう。少なくとも、「可愛げのある」という点で、紺樹よりは。
紅はとりたてて反論もせず、曖昧な笑みだけを返した。
一方。比較された紺樹は全く気に障った様子もなく、涼しい顔をしている。優雅な動作で、茶葉を硝子の茶器に注いでいく。茶測からさらさらと落ちていく茶葉は、灯りに照らされ、煌いている。発光性のあるアゥマでも含まれているのだろうかと、紅は目を凝らした。
「そのような好奇心に満ちた瞳で見つめているのでしたら、紅もどうぞ?」
紺樹の目つきが挑戦的に思えたのは、紅の中にある反抗心が反映したせいか。
長官からの依頼を聞き終えた紅が、魔道府に長居している理由はない。紺樹が帰って来たのなら、なおさらだ。
紅は茶器を仕舞いにかかる。 近くに寄ってきた陽翠が、さりげなく手をかしてくれた。
「えー! 紅、帰っちゃうのですぅ?! もうちょっと待っててくれたら、美味しい飯店連れて行ってあげるのですよ! さいきん、魔道府に泊まり込み続きでしたので、今日はみんな帰るのです!」
「蒼も晩飯前には帰宅すると言っていましたので。今日はおじいに頼まれているおかずが――」
紅が小さく頭を振ったのとほぼ同時に、掌を打ち鳴らした音が部屋中に鳴り響いた。紅と陽翠は、発信源を見上げた。
幼馴染と双子の姉に迫力のある視線を投げつけられても、陰翡が気に病んだ気配はない。今の陰翡にとっては、せわしなく動いている瞳に映っている、紺樹の方が危惧の対象らしい。
「せやな! 美人さんが紅にってくれはった茶葉やし、一口くらい飲んどきーな!」
「私も陰翡の意見に賛成です。女性の好意を無下にしてばかりでは、罰が当たります。紅もいい年なのですから、そろそろ蒼離れでもしてみてはいかがですか? 蒼も恋のひとつでも経験すれば、茶葉の浄錬にまた違った味が出てくるかもしれません」
呑気な速度で頷いた紺樹に、紅の口元が引きつった。場の空気がぴりっと張り詰めてしまった。が、苛立ちのあまり取り繕うという発想にすら至らない。
陽翠は、口を塞いだ陰翡の横っ腹に容赦なく肘をぶつけている。長官にいたっては傍観を決め込んだようで、円卓に顎を置き、気の抜けた表情で紺樹が淹れる茶を眺めている始末だ。
三人三様の反応を横目に、紅はさらに眉間の皺を深めた。
(白々しいどころか、わざとオレの癇に障るようなことばかり言いやがって!)
紺樹は魔道府の副長だ。長官が紅に託した依頼内容も承知しているはず。その紺樹を、長官が同席させなかった理由。反魂などという途方もない術が絡んでいる件に、紅を関わらせるのに紺樹が反対の立場にいるからだと推測できる。
反対の真意はともかく、紅にも想像にかたくない流れだ。結局長官に従わざるを得ない自分にか、はたまた、街の変化を「見て」いながらものこのこと魔道府へ足を運んできた紅にか。どちらにしろ、珍しく紺樹も苛立っている。年がら年中、傍にいる双子が怯えるほどに。
「せっせやな! さっき話してた燕鴇みたいに、蒼の体見てる男ばっかじゃないねん! 蒼ってば、わいらの後輩とか、衣堂の息子とかな。誠実そうな奴に大勢好かれとるし! 紅も、番犬業を控えたらどうや?」
「ちょっと、陰翡!!」
陽翠が素に近い口調で咎めるが、時既に遅し。一同の視線の先にいる紺樹からは、表情が消えていた。紅も、自分に投げられた台詞など、右から左へと流れてしまうほど空気が凍りついている。
紺樹から染み出ている重々しい空気に、長官室は静まり返った。
「ほぅ。その名には聞き覚えがありますが……蒼の体を、ですか。ぜひとも詳細を報告願いたいものですね」
「あんな、副長――」
「あぁ、そうですね。さすがに仕事中にする話でもありませんね。おごりますので、飲みにでもいきましょうか」
全身を粟立たせる音域。その場に居合わせた全員を震わせた。いや、声だけではない。短めの前髪のせいではっきりと見えてしまっている目つきは、研ぎ澄まされた刃物よりも鋭い。加えて、どんな時にも保たれている笑顔は、影すらない。辛うじて、いつもの丁寧な口調だけは残されているというありようだ。
「紺樹、落ち着くのです! 胸に劣等感を抱いてしょんぼりしちゃう系女子よりは、本人にとっても良いことなのですよ! 大きいに、こしたことはないのです!」
「長官がご自分のことをおっしゃっているのか、お知り合いの女性の実際をおっしゃっているのかは存じ上げませんが。本人の心持ちと、他の男が邪な感情の対象にして喜んでいるのとは、全く別次元の問題では?」
「あっあぅ。さり気なく失礼なのですよ……」
ゆっくりと紡がれる言葉が、逆に恐怖を煽っていく。長官など、拗ねるどころか恐怖のあまり涙目になっている。
とどのつまり、今の紺樹は口を開いてもいなくとも。言動ひとつひとつが、恐怖の塊と化すのだ。
そんな紺樹に正面から見られている陰翡。紅には、彼が卒倒どころか、泡を吹きだすのではないかと思えるほど、悲愴感しか感じられなかった。
早々に立ち去りたい。紅の頭の中を締めているのは、帰宅を切望する思いだ。
「それはともかく。敵を知るには相手の動向も常に知っておかねば。自分の世界にばかり篭っていては、見えるものも見えなくなってしまいますよ?」
「オレ、そろそろ帰らないといけないのでというか、切実に家へ戻りたいのですが」
明日の開店準備もある。その言葉が音になることはなかった。
いつの間に紺樹の隣から逃げてきていたのか。紅よりも体格の良い陰翡に力いっぱい肩を押さえられてしまい、抵抗の余地はなかった。幸い、茶器は箱に仕舞いきった後であったので、円卓から転げ落ちるような事態は免れたが。
有無を言わせない陰翡の行動に不満を覚えながらも、怯えている幼馴染を置いて去るわけにもいかず。紅は渋々と腰を落ち着け直した。
「良い心がけです」
差し出された茶器の中。ゆらんと波を打った黄金が、不気味に思えて仕方がなかった。