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クコ皇国の新米茶師と、いにしえの禁術~心葉帖〜  作者: 笠岡もこ
― 第二章 クコ皇国の変化 ―
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第45話 魔道府10―反魂の術―

「気分は落ち着いてきましたのです?」


 長官から手渡された茶杯からは、白い湯気が立ちのぼっていた。紅が茶杯ちゃはいを両手で包み込むと、茶の熱が掌から優しく染み込んできた。少し熱いくらいだが、今の紅にはちょうど良い。


「とっておきの隠しおやつなのですよ」


と出された練り菓子を口に押し込むと、あんの甘さが広がっていった。こしあんを包んだ練りきりは、薄い桃色や若草色の花で飾られている。

 本音としては、食べ物は喉を通らないと思っていた。けれど、見覚えのある練り菓子は、あっさりと裏切ってくれた。激甘党の長官専用にと、蒼が作った菓子だ。

 とても強く感じられる甘味も、今は優しく舌を包み込んでくれる。心地よい安心をもたらした。

 もう一口と、紅は菓子にかぶりついた。


「すみません、取り乱してしまって。……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」


 古書に宿る著者の思念に引っ張られただけではなく、自分の私情まで吐露とろしてしまった。いくら長官が紅の身の上を知っているとしても、場所が場所だ。

 紅がすっかり乾いた目元を擦っていると、長官はころころと笑いを転がした。


「一気に古書を読んでもらっていたので、ちょうど良い区切りだったのですよ」


 長官の気遣いが、余計に羞恥しゅうちを刺激してくる。紅は、脇に置かれている古書に、視線を落とした。頼りない夕日だけでは、古書の文字は読みづらくなっている。

 長官の細い手首が、ぎょくを撫でるように動いた。長官の動きにあわせて、ぽっと部屋中の角灯ランプに明かりがともっていく。リンドウの花を模した硝子ガラス。中心に抱いたアゥマを凝縮ぎょうしゅくした玉が、光を放った。

 最後に天井の花にも光が宿ると、部屋全体が明るくなった。


「暗いと、気持ちも落ち込んでしまうのです」


 紅は何となしに、茶杯を両手でいじる。じっと茶を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。と同時に、先ほど茶に映った自分の目が、脳裏に蘇ってきてしまった。

 自分の血縁上の父親を思い出し、胸がつきりと痛んだ。大切な両親との別れを思い出したからだろうか。それとも、死者を蘇らせるという禁忌を犯した妻の狂気が、想像出来たからか。こんなに強い痛みは、久方ぶりだった。


「紅、話を進める前に、ひとつだけ伝えておきたいのです」


 長官の真面目な口ぶりから、余計な考えを捨てろと忠告がくるかと思われた。しかし、かち合った長官の表情は、紅の予想に反して、とても柔らかかった。

 紅は無言のまま、小さく頷く。


「親子だからといって、全てが似るわけではありませんのです。もちろん、紅の父親があの人だという事実は変わらないのです。それに、わたしは、実父の人となりも直接は知りえませんのです。能力や容姿、様々な場面で父親の存在を感じるでしょうし、生きている限り付きまとうことなのですよ」


 わずかに、紅の頬が硬くなる。長官が語る内容は、毎日嫌と言うほど実感しているからだ。

 紅は父から受け継いだ特殊な能力を持っている。今でこそ意識して抑えられる力だが、それまでは視界全部が父親の目の代わりとも思えて、紅を苦しめていた。

 ただ、紅の外見は、母親似もしくは白似だと評されることが多かった。どちらかと言えば、蒼の方が、紅の実父の家系を思わせる顔立ちだ。

 しかしながら、両親が亡くなった直後に蒼と再会した時、驚くほど母親に似てきたと息を呑んだのも実際だった。逆に自分は鏡を覗くたび、写真と育ての父から窺える、実父の面影に侵食されている気がして仕方が無い。

 能力を制御出来るようになったと思えば、今度は変えようの無い外見が、首を絞めてくる。


「けれど、紅はあなたが信じる自分、それに蒼や白をはじめとした大切な人たちが信じてくれている紅に誇りを持って、『紅の人生』を歩めばいいのですよ。だれかの人生をなぞっているなんて、自分を追い詰める必要はないのです。……紅に限らず、みんなみーんな、そーなのです」


 口にしている内容は、とてつもなく心強く凛然としている。だが、当の長官は、両腕で大きく円を描き、溶ける様な甘い笑顔を浮かべていた。

 あまりに差のある光景に、紅は口元を押さえ喉を震わせていた。


「善処します」

「ぶー! とってーも素敵な台詞を言ったのに、ずいぶんと曖昧なお返事なのですよぉ」

「長官。自分でおっしゃった途端、オレの中で『善処』から『覚えておきます』に程度が変わってしまいました」


 もちろん、本音ではない。紅の目の前で、鬼灯ほおずきのように頬を膨らませている長官も、冗談めかしているのだろう。

 紅は微笑むと、茶杯をあおった。


「すみませんでした、長官。話を戻しましょう。つまり、古書の男性は死後、妻の手によって生き返った――『反魂はんこんの術』を施されたということでしょうか」

「紅は、そう考えたのです?」


 質問を質問で返され、紅はたじろいでしまう。

 古書の表面だけを纏めるならば、間違い無いとは思う。紅は改めて古書に目を通していく。後半部分を開き、指をなぞらせる。途端、紅を再び著者の思念が浸食してくるような、感覚に陥っていった。

 紅自身の心が落ち着いているおかげか、感情が高ぶりはしなかった。


「オレは『反魂の術』について、全くと言っていいほど知識がありません。それでも、引っかかる点が、いくつかはあります」

「例えば?」

「えっと、その。本当に素人目線というか、人として基本的な部分ですけど……」


 紅が感じた違和感は、術の本質を語る理論の形を成しているかは疑問だ。いや、理論と呼ぶに値しないほど、子どもの間違え探しのようなモノだ。禁書と称される古書を前に語るには、あまりにも稚拙な意見で、口にするのは気が引けてしまう。

 しかし、言いよどんだ紅におかまいなしにと、長官は笑顔で先を促してくる。観念するしかなかった。

 紅は、自分の表情がどれほど情けなく崩れているのかを想像し、内心で溜め息をついた。


「えーと、ですね。まず、本当に生き返ったのであれば、食物を口にしないのは可笑しいかなと、単純に思ったんです。それに、生き返った時点で記憶をなくしているのであれば、まだ納得出来そうですが、若い男性が徐々に、しかも戻ったり忘れたりしながら記憶をなくすなんて聞いたことありません。それどころか、そもそも男性自身が『生き返ったのでもなく、死人として、この世にあるのだ』と言っているわけですし、生き返ったという概念自体が真実からずれているのかも知れないって思って」


 もごもごと口を動かしていた紅から、長官が視線を外すことはない。かと言って、厳しい目つきをしているわけでもなく、ただ紅の考えに耳を傾けているだけに見える。どちらつかずの態度に、紅は居心地が悪くなってしまう。

 紅とて、男性の『死人として』という箇所を丸呑みしているわけではない。文学的な表現や本人の心情を語っている可能性もあるので、そこに真実を重ねるのは、いささか残慮な気がする。

 だが、可能性として提するくらいなら、許容範囲だ。

 笑みを浮かべたまま、そっと瞼を閉じた長官。紅は急にこみ上げてきた羞恥を隠すように、頭をかいた。


「すみません。考察どころか、矛盾探しも出来ていないですよね」

「いえいえ、なのですよ。紅の着眼点は、悪くないのです」

「え?」


 てっきり、仕方が無いとでも笑われる覚悟をしていた紅は、間抜けな声を出してしまった。

 肯定ともとれる、予想外の言葉に首が傾く。

 長官は、ゆっくりと目を開いていく。白く柔らかそうな皮膚の間から姿を現していく瞳は、とても赤く、血を連想させた。その瞳は、至極愉快そうに細められている。

 つい先ほども感じた違和感に、紅の背中を冷たい汗がどっと流れていった。

 そもそも、何故、長官は紅に禁書である古書を読ませたのか。紅は空になった茶杯へ茶を注ぎながら、思考をまわす時間稼ぎをする。

 古書を読ませた意図。それは、最初に依頼された通り、紅の異能を使って手助けをして欲しいからだろう。紅に依頼がきたのには、独立した機関であるはずの魔道府が受けている圧力が関係している。魔道府を辞めている紅なら、長官や副長である紺樹よりも、幾分かは自由に動けるから。

 それに、もうひとつ。古書の男性と紅の身近にいる人間を重ねた時、長官は「距離感を考えれば、紅の反応は当然だ」というような慰めの言葉をかけてきた。ということは、つまり、長官はあらかじめ、その人が『反魂の術』を施されている可能性を加味していたと予測出来る。いや、もっと言えば、既に確信さえ抱いていたのかもしれない。

 考えすぎだと、紅は奥歯を噛み締める。可能性で言えば、紅の反応を見て確信を得た方が高いだろう。だからこそ、紅に古書を見せたのだと、思う。

 そこで、ふと依頼の話を始めてから間もなく耳にした会話が思い出された。

 円卓に触れていた指が、小刻みに震えていく。


「長官」


 よくよく考えれば、とてつもなく恐ろしい存在だ。

 死人が生き返る。その言葉が物事の核心をついているかなどは、どうでもよい。反魂の術などというモノが存在すること自体、生命の理から外れた脅威なのだ。

 術を手中に納めた人間は、ある意味では永遠の命を約束されたも同然。そんな術を、権力者が欲しないわけがない。

 紅の強張った様子を見ても、長官は顔色を変えはしなかった。


「確か、国の中央に新しく発見されたアノ溜まりの守人を選出したのは、皇族だとおっしゃいましたよね。管理を担う皇族が、あの店の後見人になっているとも……!」

「はい、いいましたのですよ」


 反魂の術、というものがどんな術式を得て発動されるのか。紅の知識を遥かに超えた域の話だ。けれど、術の性質から考えて、人智の及ばない領域と言って良いほど、高等な術だという想像くらいはつく。

 紅は古書を次々めくっていく。が、目当てのモノが書かれた紙は、なかった。


「長官、手元にある古書は、これで全部ですか?」

「『今』ここにあるのは、それが全てなのですよ」


 一歩ずれている返答に、紅の体温が上がっていく。

 長官は、紅の言わんとしている意味を理解しているに違いない。幼い外見や言動に惑わされる人間も多い。が、目の前の女性は、国の重要機関である魔道府の長官を長年に渡り務め続けている人物なのだ。最も長けているのは、人の心を掴む方面以外のモノだろう。

 長官が反魂の術を詳細に記した箇所を紅に提示せずにいること自体は、事の重大さを考えれば何ら不思議ではない。

 しかし、反魂の術を発動し得る材料が揃っているのと、これから探すのでは、対応や調査に費やすことが出来る時間が違いすぎる。

 そんな紅の思考も全てお見通しだというように、長官は微笑を浮かべて優雅に茶をすすっている。

 かっと、血が沸く。紅は椅子を倒し、立ち上がっていた。


「聞き方を変えます。長官、禁書でもある古書に書かれた術形式――反魂の術について詳細が記述されている部分は、この世に存在しているんですか? いや、『術を施行しうる知識』が、クコ皇国に存在しているんですね?」


 紅の押し殺した低い声が、部屋の温度を下げていく。張り詰めた空気に、それを発したはずの本人さえ、鳥肌が立った。

 しかし、鋭い声に射抜かれたはずの長官は、小さな手を前に出し、相変わらず笑みを浮かべている。動揺している気配など、微塵も感じさせない。


(反魂の術の発動を整えられる環境が、すでに用意され始めているってことか?!)


 だからこそ、皇族は余所者である人間に、前例の無いほど肩入れしている。

 術の成功例は、人々に溶け込み生活している。術を施されているのを証明する手立ては不明だが、アゥマからでも身体からでも確認出来るのだろう。

 ならば、あとは術を施行する知識が必要だ。文字としての記憶か、あるいは知識を持った人間か……いずれにせよ、術の形式だけを得たとしても、発動させられなければ無意味だ。クコ皇国に、それだけの実力者は不在とは言い切らないが、表向きの最高術者は、紅の祖父である白だ。

 アゥマ使いの最高峰、フーシオである白を越える術者。そのような脅威を、国が野放しにするだろうか。位を与えるか、あるいは特権を与えるか。いずれにせよ、白が受けている縛りと同等、もしくはそれ以上の義務を負わせるはずだ。見返り、と表現してもいいだろう。


「『術を施行しうる知識の存在』とは、言いえて妙なのです」


 長官は反動をつけて椅子を降りる。立ちすくむ紅を横目で見ると、鈴のような笑い声を零した。嫌味は感じない。むしろ、紅の言いように感心しているようにさえ思われる笑みだ。

 ゆっくりと執務机に近づいていく長官の背中が、どうしてだか、大きく見えた。

 そのままの表情で、長官は身軽に腰掛けた。小柄な彼女に合わせて作られた椅子のおかげで、大きく立派な机からも、十分に顔は見えている。長官は組んだ両手の上に、顎を置いて、机上の通信球を眺めている。


「まどろっこしい言い方はやめます。あの店の関係者が禁書を持っているか、あの人に術をかけた術者が、クコ皇国にいるんですよね。でも、あの店は必要以上に注目を浴びていたし、それだけの術者がいれば、いくらなんでも噂ぐらいにはなるんじゃ?」

「紅は、華憐堂の一族がいた国を、どこまで知ってるです?」


 紅が無意識で避けていた呼称。長官は、はっきりと口にした。

 華憐堂の一族がいた国。

 紅は記憶を辿る。探ってみるが、考え込むほどの情報はなかった。萌黄と出会った当初に聞いたのと、巷の噂程度だ。萌黄から聞いたのは、アゥマの枯渇で国が滅び、一族でクコ皇国に移住してきたという話。市井では、内乱で滅んだらしいという状況も不確定な井戸端会議のネタだ。

 アゥマに関して以外は、どちらも大差はない。今となっては、うなぎのぼりな店の評判が、噂の大半を占めている。


「内乱で王族は全員死亡、魔道の暴走で国民ごと消失。……聞いた話では、溜まりの枯渇が、一因ではないかとも」


 話の組立ては若干変えたが、大よそ間違いないだろう。

 紅は躊躇いを感じながらも、溜まりの話も包み隠さず口にした。少し前の時点では非現実的な話と思っていたのもあって、紺樹にも言ってしまった。だが、今考えると、あの時の紺樹の鋭い目つきは単なる職業病からくる警戒ではなく、長官側はともかく華憐堂側からの情報漏洩を危惧したゆえの反応だったのだろう。情報の重要性を加味すれば魔道府にとっても華憐堂(一部の皇族)にとっても、情報の漏れは有益だとは思いにくい。

 『心葉堂』の店主という立場は、ただ単に溜まりを管理する店という意味におさまらない。心葉堂はクコ皇国の立国以来の老舗であり、なおかつ国の管理外である溜まりの以外の中で筆頭となる『弐の溜まり』の称号を持つ。しかも、前々店主である白龍は、アゥマ使い最高峰であるフーシオの称号を仰せつかっているのだ。

 そんな心葉堂を預かりながら、幼馴染という理由で紺樹にまで気を抜いたのは、うかつだった。紅は自分の失態に、舌を打ちたくなってしまった。

 至った結論に、紅の心臓が跳ねた。思い出した結果の反省だが、元魔道府の人間として、心葉堂を預かる店主見習として、うかつな発言は控えるべきだった。

 煩くなっていく心音を誤魔化すため、紅は足を動かした。


「溜まり、なのですか。だれからの情報なのです?」


 机を挟んで向き合った長官は、目を瞬かせていた。

 紅は内心、首を傾げた。てっきり、紺樹から長官へ情報が上がっているだろうと考えていたからだ。ささいな噂話も収集し、不正や異変を見逃さないのが紺樹のやり方だ。

 いや、と紅は頭を振る。長官の表面上の反応に、いちいち振り回されている自分を叱咤する。


「萌黄さんから、一度だけ」

「紅は、だれかに話したのです?」

「おじいと蒼、それに副長ですかね。世間では内乱という話になっていますし、信じがたい事象とはいえ、言いまわっていいような内容だとも思えなかったので」


 長官はぴっと一本指を立てて、おどけた様子で大きく頷いた。


「身内に留めておいたのは賢明なのです。紅は調査に協力してくれるのですし、根本的な情報を提供しておきますのです。亡国は、各方面に関して非常に規制が厳しい国だったのです。国は円状に壁が設けられ、中心部から王宮、研究所や各国政機関、貴族とアゥマ使い、特別商業地区、一般国民の居住区と分かれていたのです。もちろん、それぞれの地区への往来は厳重に管理されており、特別商業地区より内部の特権階級の人間でさえ、外部へ出るには秘匿の術をかけられるのは必須だったのですよ? とにかく、息がつまる国だったのですよぉ」


 紅の牡丹色の瞳が大きく開いた。そうしてすぐ、萌黄の言葉を思い出し、軽く頷いた。

 クコ皇国とは正反対と言っていいほど窮屈きゅうくつな国だが、おそらく溜まりの数が関係しているのだ。萌黄は、亡国はアゥマが豊かでないと言っていた。限られた資源は特権階級とアゥマ研究に優先してまわされる。そして、研究結果を守秘するため、他国からの侵略を防ぐためアゥマの量の漏洩ろうえいを防ぐため、厳重に管理したのだろう。

 それならば、現状の情報量にも納得がいく。


「余談なのですが。秘匿の術の開発者は抹殺されたーって話になっているのですが、実は式神を寄越していて生き延びた、という裏話があるのです。まぁ、どこぞの森に呆れるくらい長年引きこもっていた旧友は『命奪う程度じゃ弱ぇよ。おまけに記憶組織壊すくらいやれっての』って、鼻で笑ってやがったのですけどね。極悪人面で。懐かしい思い出なのですよ」


 ふっと、長官の視線が遠くにいってしまった。紅は、長官の年齢相応な表情を、始めて目の当たりにした気がした。

 と同時に、とんでもない裏話をさらりとされ、紅は愛想笑いを返すのがやっとだ。頬が引きつっているのが、自分でもわかった。


(というか、この人は、なんで、内情を詳しく知ってるんだ?! っていうか、長官の旧友って一体!)


 紅の冷や汗に気がついたのか。視線を戻した長官は、にこりと音を立てて微笑む。


「もちろん、ここだけのお話ってやつなのですよ? じゃないと、わたし。おえらいさんたちに捕獲されて、拷問ごうもんされて頭の中の情報全部吸い上げられた挙げ句、いやんいやんになっちゃうのですぅ」


 指を頬に当てて可愛らしく微笑まれても、今の紅には恐怖をあおる原因にしかならなかった。しかも、口にしているのは、全く可愛らしさの欠片もない内容だ。

 自分は信頼されているのだ。紅は拳を強く握り、心の中で何度も頷く。そうして、無理に自分を納得させることにした。


「ただ、華憐堂かれんどうの娘が紅に漏らしたとなると、やはり――」


 ぽつりと零れた言葉。

 広い執務室に落ちた低い声色は、やけに紅の耳奥に残った。しかし、硬い調子を感じ取っただけで、言葉そのものは明確には聞き取れなかった。

 紅は背を正し、長官へ向き直った。


「すみません、良く聞こえなかったんですが」


 けれど、長官は紅の言葉には答えず、通信球を軽く叩いている。肩をすくめたのか、長官を包み込んでいる外套がいとうが、かさりと衣擦れが鳴った。

 口元あたりまで埋まってしまっている顔では、眉尻が垂れていた。


「残念ながら、時間切れなのですよ。ともかく、紅には華憐堂の溜まりと、術の被験体のアゥマに気をつけておいてほしいのです。華憐堂の溜まりの性質を読み解いて欲しいのもあるのですが、特に後者のアゥマの綻びは最優先事項なのです。アゥマを常に視覚的に捉えられる紅なら、ささいな変化でも、いち早く気付けるのですよ」


 執務机の通信球が、再び輝きを取り戻していく。角灯がともっている部屋の中でも、水晶で作られている通信球は、ひときわ明るい。

 長官の『残念』という言葉を察するに、各部署へ書類を配りに出ていた陽翠ようすい陰翡いんひが戻ってきたのだろう。きっと、魔道府外へ出掛けていたという紺樹も一緒だろう。


「わかりました。ちなみに、依頼の件は――」

「もちろん、紅とわたし、ふたりだけのあまーい内緒ないしょなお話なのですよ。前者はともかく、後者は蜜月並みなのです」


 長官の言葉の選択はともかく、紅は得心がいった。

 わざわざ陽翠と陰翡を騙してまで、紅に古書を読ませた理由。魔道府として表向きな依頼は、華憐堂の溜まりに関する調査だ。それだけならば、古書の知識は不要だったはずだ。

 だが、反魂の術を施されている被験体が存在する証拠を見つけ、何らかの対応をするのであれば、必要不可欠な知識だ。

 紅は、深く息を吐く。正直、今日知りえた事実に、頭は爆発寸前だ。心も揺らいでいる。

 けれど、外側からやきもきするよりは、断然ましだ。自分の手で、心葉堂を――蒼を守れるのだ。紅の拳に力が入った。


(しかし、観察って、華憐堂に足を運んだり、萌黄さんに近づいたりするんだよな。蒼に、なんて説明するか、だな……)


 紅にしてみたら。任務の重さ云々よりも、蒼を落ち込ませる方が、気が重い。はっきりとした行動の意味を説明不可との制約がある以上、また蒼が一人であれこれ考え、浄錬じょうれんへの自信をなくしてしまう可能性が大だ。

 それに、心葉堂の店主見習である紅が、華憐堂に足しげく通うというのは対面的にも好ましいとは言いがたい。であれば、今までとは逆に、紅が影から観察するということになる。それはそれで、新たな誤解を生みそうだ。しかも、非常に面倒くさい部類のモノを、だ。

 どうしたものかと、紅はひどく憂鬱ゆううつになった。


「長官、陰翡ならびに陽翠、ただいま戻りました」


 通信球から、物静かな女性の声が聞こえてきた。どうやら、本当に時間切れのようだ。

 紅は下へ向けている顔を上げる気になれず、床を見つめたまま、とぼとぼと円卓へと戻っていった。顔にかかってくる深紅の髪を払うと、隙間から重厚な扉が開いていくのが見えた。ついでに、出来れば顔を合わせたくなかった人物も。


「おや。心葉堂の全員が不在と思ったら……珍しい場所で、会いましたね」


 片腕に紙袋を抱えた紺樹は、相変わらず爽やかな風を吹かせるような笑顔を浮かべている。であるのに、不思議なくらい、脱力感しかもたらさない。

 早く蒼が淹れた茶が飲みたいと、心底思った。

 紅の体は、ぐったりと椅子に沈んでいった。




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