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クコ皇国の新米茶師と、いにしえの禁術~心葉帖〜  作者: 笠岡もこ
― 第二章 クコ皇国の変化 ―
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第44話 魔道府9―理から外れし者―

 冷え込んできた空気が、より一層下がった気がした。紅は自分の中に浮かんだ考えに戸惑っていた。思い浮かんだ人物。自分が知る人間の中に、該当する可能性を見つけたのは驚愕だった。けれど、その人物に対する気持ちよりも、重なった事実の方に衝撃を受けていたのは、古書の著者の思念が作り出した可能性だったからだ。

 古書に書かれた人間と同様の生命を掲げる人物がいるかもしれない。何よりもそれが、紅の鼓動を早めた。

 紅の心の揺れが伝染したのか。円卓に触れている長官の手も、微細に震えていた。赤みを増した頬は、緊張か。紅には、どこか興奮しているようにさえ見えた。もしかしたら、単純に自分の姿を長官に重ねているだけかもしれない。


「紅、この著者は、『発していない』と述べているのです」

「でも、長官も。それに……」

「わたしが言った『繰る能力』と著者がこの時点で記している『発していない』は、同義語なのです。でも、紅が口にした『持っていない』とは、全く似て非なるものなのです」


 確かに、古書に書かれた『発していない』という一部分だけ切り取れば、長官の説明と同じ意味になる。


「つまり、『繰る能力』とは、生命活動を維持するアゥマは持っているけれど、魔道として応用出来ないということ。『発していない』とは、その生命活動を維持するアゥマを保有すらしていないということ、なのです。ということは、古書の男性に施されているのは――」


 長官は、紅が抱いている恐怖より何歩も先を行ってしまっているように思われた。

 紅は前屈みで、長官に詰め寄る。


「長官待ってください。そもそも、この男性って――」


 続く筈だった言葉は、軽妙に鳴った音に弾かれ、粉々になった。半分浮いた腰から、力が抜けていった。目の前にある長官の姿に、拍子抜けしてしまった。

 紅の前には、掌を合わせた長官がいた。その手の震えは、止まっている。


「ごめんなさいなのです。そっちの疑問なのですね。先走ってしまったのです。ちょっとわたしも動揺しているのですよ」

「え?」

「あぅ。こっちの話なのです。今は、関係ないのですぅー」


 紅は問い詰めようと身体を傾ける。が、長官は頭巾をすっぽり被り


「後で話すのです、順番があるのです! 間違えたのです!」


と言い放ち、口を尖らせた。紅が顔を合わせようとしても、頭巾を掴んだまま腰を捻ってしまった。

 紅も混乱しているので、深く追求するのは諦めた。わずかに垣間見えた長官の瞳に浮かんだ高揚の色が胸に引っ掛かったが、長官が後で話すと宣言した以上は無駄だ。感じた色は、紅の思い違いだろう。

 それよりも、今は、自分の中にある恐怖への答えが欲しい。


「紅が欲している答えは、わたしではなく、古書が持っているのです」


 長官は真っ直ぐ紅を見つめてくる。少し前までの高揚は欠片もなかった。

 紅の手が硝子杯に伸びる。きんっと、耳に痛い音が鳴った。喉から落ちていく茶は、味がしなかった。


「話を戻そう。とにかく、男性が結界を張るのは不可能なのだ。つまり、男性意外の人間が、男性を人目から避ける為に、この場所に留まらせているとしか考えられない」


 男性が、紅の考えている有り得ない存在であれば、事情はどうであれ、隠されているのは当然だろう。あの人物が特殊なのだ。いや、その人物という特定も避けるべきだ。今しがた、著者の思念に引っ張られてはいけないと、反省したばかりなのに。


「男性に救われてから一ヵ月半ほど過ぎ、私の身体は完全に回復していた。一時は命さえ危ういと思われた怪我も、跡を残さず綺麗に治癒していた。たったこれだけの時間で回復するなど、通常ならば考えられないことだ。先に述べた通り、男性が治癒の魔道を使った可能性は皆無。それはさておき、私は最悪の場合、身体の自由がきかなくなる覚悟はしていた。どんなに軽く見積もっても、数年の回復訓練は要する状態であった筈だ。しかし、今はむしろ、以前よりも体調が良くすら感じられた。それと時を同じくして、男性は人里へ戻るよう進言してきた。驚くことに、その時の男性の瞳は、初めて見る凛々しい輝きを放っていた。気圧された私は、言葉もなくただ素直に頷くしか出来なかった。正直、男性へ抱き始めていた好意が後ろ髪を引っ張りはしたが、頭のどこかでは、ほっとしていたのかも知れない。時間が経つにつれ、自分が人間から離れていくような錯覚を覚え始めていたからだ。辺境の地で人との交流がないという理由では、ない。意識の範囲ではないのだ。己のアゥマの質が、身体が内側から変わっていったような掴みどころのない不思議な感覚に陥っていた」


 最早、何に驚いていいのかわからないほどだった。紅は自分の中にある確信から逃れるように、簡単な疑問を口にする。


「個人が纏うアゥマの性質が変わるなんて、あるんですか?」

「よほどでない限り、性質自体……というよりも、核は変化しないのです。古書の著者が述べる変化が、核なのか、それとも表面的な性質の揺らぎなのかは、判断出来ないのですよ。特に古書の時代においての常識は、この文章だけではわからないのです。麻薬を摂取した状態の意識的な錯覚を受けているのか、何らかの影響で本来の性質が隠れてしまっているのか、本当に核が変わっているのか……」


 長官の声は冷静だ。反応も静かなモノだ。

 著者が纏うようになったアゥマの話は、今後の展開にさして重要ではないのかもしれない。紅の視線が、再び古書へと落ちた。


「旅立つ前夜、私は男性と杯を交わした。私はこの日、初めて男性が泉の水意外を口にしたのを見た。私の為に森で木の実や山菜を採っては来てくれるものの、本人が食べているのは見たことがない。この時の生活の影響で、私の胃は小さいままだ。食への欲求をあの場所に置いてきてしまったようだ。その日の新月は明るく、森に響き渡る虫の声が印象的な夜だった。夜風は心地よく、月の光を受け止めては揺れる湖の水面に心癒された。酔いも回り始めた頃、それまで私の話に相槌を打っていただけの男性が、澄んだ声で、己を語ったのである。澄んだ瞳の陰に闇を隠し、男性は独りごとのように話した。話によると、どうやら、男性は、ふとした瞬間に記憶を取り戻すらしい。しかし、それも長くは続かず、すぐ己が何者なのかわからなくなるそうだ。最初にその状況に陥った時は大変だったが、次に己を取り戻した際、自分宛に走り書きを残すようにしてからは、取り乱すことも少なくなっていったらしい。とは言え、我を忘れる間隔が段々と長くなり、次に正気を取り戻せるのか、怪しくなってきた頃、私が現れたのだという」


 単なる記憶喪失ではないらしい。徐々に自分がわからなくなる、自分が忘れてしまっている事実に気がついてしまう恐怖とは、いかばかりだろう。紅の胸が、ぎゅっと締め付けられた。それも、一人で何とかしようと努める男性。先程古書に書かれていたように、全くの独り身というわけでもなさそうだが、それにしても、孤独である時間は長い。

 種類は違っても、一人悩みを抱える辛さは、紅にも理解出来た。


「男性の口で語られたのは、俄に信じがたい話であった。けれど、それまで誠実そのものだった男性が、別れ際になって、今後会う機会もない私に作り話をする理もない。私は男性を信じることにした。男性は一人で山奥に暮らしている。これは、先に聞いていた話と変わりはなかった。しかし、二・三ヶ月に一度は妻が街から訪れるらしい。揃えられた食器や洗面具から、可能性として持っていた考えとは言え、男性の口から妻という言葉が出た時は多少の衝撃を受けた。と同時に、このような辺境の地へ夫を一人残している妻に呆れ怒りさえ覚えてしまった。その衝撃もすぐに薄れてしまうのだが。何故なら、男性は自分が――」


 紅は、そこで言葉を切った。いや、声が出てこなかったのだ。

 頭をがつんと殴られたように、世界がぐらりと揺らいだ。こぼれ落ちそうなくらい開かれた牡丹色の瞳。紅は視線を古書から逸らせない。


「紅、息を止めてはいけないですよ」


 長官に言われて初めて、紅は自分の呼吸が止まっているのを知った。無理にでも息を吸おうと試みるが、喉に薄い膜がはったようで叶わない。苦しさで顔中が歪んでいくのがわかる。

 息をしなければと頭では理解出来るのに。自分の意志とは別のモノが、喉を、首を締めてくる。

 指先から流れてきていた著者の黒い思念。それが紅という媒体を必要とせず、空気中のアゥマと溶け合って、外からも紅を取り囲んでいる。そんな幻覚が見えた。いや、実際に『視え』た。


「紅……」


 長官の手が、紅の頬に触れた。染みてくるぬくもりのおかげで、紅はやっと息をすることが出来た。

 渦巻いていた淀んだ空気が、浄化されていった気がした。次第に、報告書を握る指先や足に痺れが走っていった。心臓が鈍く鳴っている。


「嘘だろ……だって、まさか、そんな術が存在するなんて」


 紅は一人、煩悶はんもんする。がたがたと煩く鳴る歯を食いしばろうと力むが、紅の意思を嘲笑うかのように、音は大きくなっていく。指先も顔色も、真っ青だ。

 紅が狼狽している理由。それは、目の前の言葉が、ただ過去に起きたであろう話ではないから。

 異能を持つ紅は、あの人物の特異性を理解していた。理解していたつもりだった。

 それに、著者の思念が伝えてくる行き場のない怒りと憤りの感情に、胸が詰まって苦しい。


「甘かった。命を留まらせる何かしらの術だとは思っていたけど」


 冷静になれ。紅は深呼吸を数度繰り返し、自分自身に強く言い聞かせる。

 そう、今読み上げているのは古書。昔の出来事だ。全てを読んでから、どうするべきなのか考えるんだ。紅は、震える唇を動かす。


「男性は、自分が既に死人しびとなのだと告げてきた。生き返ったのでもなく、死人として、この世にあるのだと」


 紅の声が、広い長官室に響いた。さほど大きな声ではなかったの、部屋の隅々に行き届いてしまったような気がした。

 紅は顔をあげ、大きく息を吐く。

 日が傾き、部屋の中は薄暗い。あれ程までに存在を主張していたステンドグラスの煌めく光りは、なりを潜めてしまった。大理石の床には、点々と弱い光が漂うだけだ。ほのかに香っていた干し無花果の甘さは、名残さえない。

 言葉に出すと、紅の中でくすぶっている恐怖が、再び沸き上がってきた。誤魔化すように横目で長官を見るが、悲しそうな色を浮かべるだけで、口を開く様子はなかった。


「苦しそうに寄せられた眉間が真偽の程を語っていたが、どうして信じられよう。目の前で動き、苦しそうに微笑んでいる恩人が、既に世に在らずと。その時、私には男性が口にした『死人』が持つ意味を考える余裕はなかった。がむしゃらに掴んだ手首。触れ合った肌からは温度が伝わり、間違いなく脈を打っているのがわかったのに」


 紅の背が椅子にぶつかる。

 思い出されるのは、あの温度。絡まった腕から伝わってきた温かさ。紅は重い右手をあげ、左の腕を握りしめた。皺のない上着が、みるみる、形を変えていった。

 自分の中にある感情からの行動なのか。それとも、古書の著者の思念が、紅の身体さえ動かしているのか。正直な所、紅には判断がつかなかった。これが陽翠や陰翡という友人ならば、涙も出よう。蒼や白、それに紺樹という家族たちならば、発狂も出来るだろう。だが、相手は、どちらかと言えば苦手な部類の人間だ。親近感を持ち始めたとは言え、蒼を苦しめる立場の人間。敵対する相手。

 ただ、古書が語る恐ろしい術が、自分の知る人物に施されていると考えると、心臓が凍った。それはきっと、憤りという感情ではなく、未知なる存在への畏怖。 


「オレって、白状な人間なのかもしれません。それとも、やっぱり、あの歪んだ父親と同じなのか……」


 細まった瞳から、涙は溢れ落ちなかった。静寂がひたすら耳を痛める。ぽつりと呟いた言葉だけが、紅の脳を揺らした。

 どんなに距離を置きたい人とは言え、自分に好意を寄せてくれる人間に対する気持ちだろうか。いや、自分が大切に想う家族や友人が無事であれば、それで良い。特に蒼から不安要素を取り除けるのであれば、喜んで受け入れられる事実だと、どこか冷静に考えている。やはり、自分は狂気に溺れた父親の血を引いているのだ。

 茶に映る牡丹色の瞳が、冷たい色で語りかけてくる。紅は舌を噛み切りたくなった。紅が最も危惧している闇に、触れてしまった気がした。


「距離感を考えれば、紅の反応は至極当然なのですよ。むしろ、わたしは紅がそう思ってくれていて、安心しているのです。もし、紅があの人物ともっと近しくなっていたなら、到底受け入れられる現実ではないのですから」


 頬を撫でる小さな手に、涙が落ちた。長官の小さな手が、何度も紅の肌を滑る。その度、ぽろりぽろりと流れていく雫。ひんやりとしていた長官の指が、熱を増していく。

 頬を伝う熱が安堵からなのか、生まれ来る葛藤からなのか。ただ単に著者の思念に共鳴したからなのか。

 紅自身にも、全くわからなかった。



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