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クコ皇国の新米茶師と、いにしえの禁術~心葉帖〜  作者: 笠岡もこ
― 第二章 クコ皇国の変化 ―
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第43話 魔道府8―生命活動とアゥマの関係―


 紅は文字をなぞっていた指を離す。どくんどくんと跳ねる鼓動は、押し込んだ言葉のせいではなかった。

 著者の動揺が、古書から流れ込んできた。古書に著者の心――執筆時に纏っていたアゥマが込められるのは珍しい。というよりも、アゥマを文字や紙に練り込むこと自体、非常に困難だ。しかし、古書の著者は、敢えて感情を伴わせたかったのだろう。紅には、そう思えた。


「紅、大丈夫なのですか? 顔が真っ青なのですよ」


 長官が心配そうに顔を覗き込んでくる。決して、紅の心の内を測ろうとしているのではなく、純粋に危惧している顔だ。

 紅は慌てて左手を振った。


「いえ、作者自ら『酒のつまみ』と書いている割には、その、込められたアゥマが……」

「紅も感じ取れたのですね。まぁ、紅の能力を考えたら、当然なのですよね」


 長官は大きな瞳を伏せた。ふっと長官の吐息が古書に触れると、得も言われぬ色の靄が沸き上がり、消えた。

 紅が靄のあった空間に手を伸ばすと、ずんと鉛を抱いたように胸が重くなった。視界が回転して、ひどい悲しみに目の奥が熱くなる。


「感情を引っ張られるほど、強い思念ですね」

「特に今は具現化させたので、影響も強く出たのです。けど、それも元の思念が激しく、深く染み込んでいるからなのです。大昔に書かれた本に、これだけの思念が未だに残っているなんて、相当なのです。著者が書いている『酒のつまみ』は、それを誤魔化す――というか、紛らわす為ではないかと、思うのです」


 先程、紅は『酒のつまみ』より前の部分を読みたいと思った。著者の思念を感じ取れずにいたというのもあるが、それよりも、自分の思慮の浅さに情けなくなった。

 それまでの流れや古書の封印を考慮に入れれば、文字通りでないことは容易に想像出来たのに。口に出すべきではなかったと、肩が落ちた。


「紅、そんなに自分に落胆しないでくださいなのです。わたしや紺樹は、その古書の存在を知っていますし、何もしなくても思念を感じとってしまうのです。ですが、他の者には内緒なのです。古書の封印もですが、思念が漏れないように、封印というか抑圧の術は施していたのです。それを読み始めてすぐに『視る』だけじゃなくて、『共鳴』して感じ取れただけでも、充分凄いのです」


 紅の心情を察して、長官の声はいつも以上に柔らかかった。それが、余計に紅の羞恥心を刺激した。自然と背が丸まっていった。


「もちろん、紅が能力的な面じゃなくって、判断的な意味で落ち込んでるのも、ちゃんとわかってるのですよ?」

「……すみません。オレ、思慮の浅さは魔道府にいた頃と全然変わってないです」

「逆に、その若さで完璧に行動される方が、困っちゃうのですよ。わたし、長官としての立場がなくなっちゃうのです」


 両手をあげて大袈裟に身体を振った長官の姿に、笑いが溢れた。こういう所に、魔道府の人間は付いてくるのだろう。もちろん、人望だけではなく能力も人を惹きつける長官だが、この上司の元で頑張りたい、頑張れると思えるのだ。

 紅はずれた思考を戻そうと、軽く頬を叩く。長官から「おぉうなのです」と驚きの声があがった。


「その勢いです。わたしの言葉も、ばんばん疑っちゃってくださいなのです」

「それは、ちょっと疲れそうです……」

「猜疑心なんてもってないですとか、微笑んで欲しいのですよ。ここは」


 長官が足をばたつかせ、外套とぶつかり合う音が聞こえた。しかし、拗ねているのも心からのモノではないとわかる。だいぶ、気持ちが落ち着いたようだ。

 紅は現金な自分に心の中で苦笑しながら、口元を引き締めた。


「続き、読みますね――男性の住まいは煌めく泉の側にひっそりと佇む、素朴な木造の建物だった。男性が泉から汲んできたという水を一口飲むと、不思議と疲労を感じなくなっていった。私が動けるようになるまでの数日間、男性は私の身元の詮索は一切せず、黙々と世話を焼いてくれた。ほとんど言葉を発さず虚ろな瞳で無表情かと思うと、時折、華が咲いたように微笑んでみせるのだ。男性に使う表現としては不適切かとは思うが、無邪気に笑む様子は、まさにそうとしか表現出来ない。全くと言っていい程、警戒心を持っていなかった。しかし、何故自分が山奥に一人住んでいるのか、という問いに対しては必ず戸惑いをみせた。男性自身、いつから暮らしているのかは不明だと言う。ただ、この場にいなければならないし、安全であるのは確からしい」


 古書の男性は、その場で記憶をなくしたのだろうか。それにしても、男性が本当にたった一人でいるならば、住んでいる場所が安全だと確信を持っているのには疑問がわく。

 紅が知る記憶喪失の人物――紺樹は、クコ皇国に連れられてきた以前の記憶がないらしい。今の両親に養子として引き取られる、七・八才までの記憶を持たないと、出会った頃に聞いた。年齢も名前も他人から教えられたモノ。不安で仕方がなかった、どこかへ逃げたかったと言っていた覚えもある。


「私は伝承の裏を読み、口伝の真偽を推し量ることに関しては、経験上、多少なりとも自信がある。男性が嘘を付いているようには、思えなかった。付け加えるなら、男性は一人で暮らしているという点については、事実ではないとわかってはいた。何故なら、詮索せずとも、目に入る生活用品から容易に想像出来た。大きめの棚に置かれている食器は、あまり使用された形跡はないものの、きっちり組みで揃えられていた。そもそも、私は、男性が食事をしている姿すら見たことがなかった。それに、洗面用具もだ。寝台はひとつだが、男性の一人用にしても随分と大きい。しかし、私が疑問を口にしても、男性はわからないと己の腕をきつく抱きしめるばかりだった」


 食事に関しては、宗教や身分の問題で、他人に食事を取る行為を見せるのを卑しいと考える者もいる。一瞬、紅の脳裏にぼんやりとした可能性が浮かんだ。そもそも男性が食事を取らないという考え。そして、結びつく人物。

 しかし、それよりも気になったのは、文字に込められた著者の思念だ。押し隠された感情が一気に弾け、風さえ巻き起こった錯覚に陥った。

 紅の鼓動が鈍く跳ねた。紅の頭の中で、著者の思念が勝手に別の文字を綴ろうとしている。倫理的に、いや、世界の理としてあってはならない答えだと警告してくる。自分の中にない答えという水に、無理矢理顔を突っ込まれているようだ。それが恐ろしかった。

 口を噤んでしまった紅の肩を、小さな手が撫でてきた。目に掛かっていた前髪を払うと、視界の端には首を傾げた長官の姿があった。


「紅?」

「あっ、いえ。本人がわからないって、一体どういう状況なんだろうと思って。記憶喪失なんでしょうか」


 出た疑問は、どうでも良い内容だった。自分の中にある考えを口にするのは、躊躇われた。変に熱を持った汗が、背を湿らせていく。

 紅は、すぐに報告書へ視線を落とした。視界の端に、茶壺が映った。

 紅の知り合いの中で、共に茶を飲んだことのない者がいる。それも、席自体は一緒についているにも関わらずだ。紅は茶葉店で育った。その為、自然と様々な人間と茶の席を設ける機会が多くなる。特に同業者との会合や顔を合わせる時には、、茶を口にするものだ。

 そこまで考えて、紅は我に返った。すっかり著者に引っ張られてしまっている。というよりも、乱されている。関係のないことを思い出している場合ではない。

 紅の揺れた瞳を見逃したわけでもないだろうが、長官は敢えて触れてはこなかった。


「当然、不思議に思うのですよね。理由は、最後まで読めばわかるのですよ」


 長官の掌が、静かに離れていった。紅は半笑いで「そうですよね」とだけ返し、続きの文字を辿る。

 長官も思念を感じ取れると言っていた。紅の頭に踏み込んできた思念も、無論体験しているだろう。しかし、綴られていた文字の思念を感じる程度には、個人差でもあるのだろうか。紅は思念の影響を受けすぎているのかもしれない。

 紅は足を組む。


「不可思議なことは、もうひとつあった。動けるようになってから気が付いたのだが、泉と建物を中心に、不可侵の結界が張られていた。術はとても高度で、それとして視なければ、決して術が施されているとはわからない。私は旅を繰り返してきたせいで、周囲の状況を観察する癖がついてしまっていたので、気付くことが出来た。それにしても、と私は不思議に思った。強く特異な結界は、異形の者を遠ざける、という以上に、人にすら居住を悟らせない役割があるように思えて仕方がなかった。彼自身の願いか、はたまた、組みになった食器の持ち主の意図か、その時は判断が付かなかったのだが」


 次の行へ視線を滑らせると、端に硝子杯が入り込んできた。黄金色の茶が、ゆらんと波打っている。紅は自分の手が喉に当てられていたのに、気が付いた。緊張のせいか、のどが渇いて仕方がない。


「紅、声が掠れてきているのです。お茶で潤してくださいなのですよ。折角の素敵な声が台無しなのです」

「すみません、頂きます」


 確かに、唇や喉は乾ききっている。

 すーと、爽やかな甘味が鼻腔に広がっていく。優しい味が、体中に染み渡っていった。ほうっと、出た息も温かく、緊張は程よく和らいだ。蒼のアゥマが込められた茶は、著者の負の感情をとかしてくれる気がした。

 紅は、もう一口、茶を啜った。


「褒め言葉は無視なのですか。しょんぼりなのです」


 長官が両手で思い切り目尻を下へ引っ張った。長官の可愛らしい顔が崩れきって、台無しだ。

 思わず、紅は口に含んだ茶を噴き出しそうになった。わずかに濡れた口を長官に悟られないよう、袖で大雑把に拭った。

 改めて報告書を持ち上げた瞬間、張り詰めた空気が部屋を支配した。それは、紅から発せられたモノではなく、長官から滲み出ている緊張だった。今のやりとりは、紅の緊張を解してくれたものなのか、それとも長官自身の心の準備だったのか。

 紅は恐る恐る、続きの行を探す。見つけた箇所を、指の腹でなぞった。


「結界を張った人物としては、他者という可能性が、非常に高いと言えよう。重要なのは、男性は今の世に珍しく、いや、有り得ないことに、全くアゥマを纏っていなかったという点だ」


 紅の背が、勢い良く跳ね上がった。そして、すぐに報告書にかじりついて、穴が開くほど凝視した。絡んでいく思考とは反対に、霞みに隠れている姿は浮き彫りになっていく。紅が知るアゥマを纏わない人物。一人だけ、心当たりがあった。いや、あの人は纏っていないわけではない。周りのアゥマが、異質なだけだ。紅は頭を振った。

 しかし、頭の中だけで続きを一文だけ読むと、その人物の輪郭は鮮明になってしまった。


「正確には、不可思議なアゥマに包まれてはいるものの、通常の人間のように体内からアゥマを発していないのだ。古代、前の文明――世界が滅亡した直後ならば、珍しくも奇妙でもない。しかし、現在存在する長寿を特徴とする種族であっても、もって数百年。今は、樹の誕生から千年単位の時が流れている。当時の人間が未だに生きていられる年代ではない。魔道は己の中から染み出すアゥマと空気中に漂うアゥマを共鳴させて繰る。共鳴力が弱くとも、魔道媒体を使用すれば術の発動は可能だ。多くの人間は後者で魔道を使うことが出来る。しかし、アゥマを発していないとなると、どんな魔道も繰ることなど、絶対に不可能なのだ。共鳴は行えない」


 報告書を掴んでいた手にも、力が入っていく。上品な装丁をした硬い表紙が、みしりと悲鳴をあげた。文字の下を走っていた指から汗が吹き出す。頭の片隅で古書を汚してはと冷静に思うのだが、肝心の指は紙に縫い付けられて動いてはくれない。


「回りくどい書き方になることを許して欲しい。けれど、その時は世界の辺境のそれよりも果てならば、私などの知識が及ばない種族もいるのだと言い聞かせ、考えることを拒否していたのだ。魔道を繰れない人間もいるのだと。いや、考察した所で、まさか男性が愁張しゅうちょうの想いがもたらした悲劇で形作られているなど、想像も出来なかったのだが……」


 紅は口を掌で覆った。紅は、その単語が持つ意味を正確には知らなかったが、流れ込んでくる思念から、予想が付いてしまった。紅も感じたことのある、胸が張り裂けそうな想い。どんな時にでも惜しみなく愛情を注いでくれた人たちを失った、あの時と同じだ。到底納得など出来ない、現実。しかし、著者の悲しみの『思念』より紅を驚愕させているのは、人として有り得ない『記述』だった。

 足が勝手に震えていく。振動を止めようと、爪が食い込むほど腿を掴むが、効果はなかった。靴の踵が大理石の床にぶつかる音が、耳鳴りに混じって聞こえてくる。


(不可思議なアゥマに包まれてはいるものの、通常の人間のように体内からアゥマを発していない)


 何度も反芻される、自分の声。よそよそしく聞こえる声は、容赦なく響き続けた。


「いや、アゥマを纏っていない人間がいる可能性だって……」


 止まりかけた紅の思考を押したのは、長官だった。長官は、紙に触れたまま震えている紅の指をそっと両手で包み込む。二・三度あやすように叩くと、円卓の上に置いた。


「アゥマを完全に制御するに至らなくとも、媒体を通しても『繰る能力』が備わらないというのは少ないのです。少ないというのは、例外扱いだとしても存在しないことも、ないのです。けれど、あくまでも『繰る能力』の範疇でだけ、言えるのですよ」


 淡々とした長官の声が、逆に紅の心を凍らせた。押すというよりは、現実から逃げるのを許さず、腕を引っ張られるようだ。長官は言外に、紅の考えを否定したのだ。

 汚染が薄れた現代でも、そう言える。ましてや古書が書かれた、汚染が遥かに強かった時代でなど、有り得ない。いや、自分が思い込んでいるだけだろうか。著者も有り得ないとは記しているものの、実際は、アゥマの誕生に近い時間軸である古書が書かれた時代の方が、アゥマを体内に『持たない』可能性が、まだあるのか。

 額に前髪が張り付く。かきあげても、不快感は拭えなかった。次から次へと汗が吹き出てくる。後頭部まで流れた髪が、のろのろと眼前へ落ちてきた。


「アゥマを体内に持っていないとは、すなわち、生命活動をしていないという意味に等しい。アゥマは血。血はアゥマ。溶け合って、常に体内で自己治癒を行っている。アゥマを持っていないなんて」


 つまり、一言で片付けるなら、生命活動を行っている人間として、まさに「有り得ない」状態だ。

 耳を振動させる心音が脳に流れ込んでくる。血の気が引いていくのが、気持ち悪いほどわかった。こみ上げてくる嘔吐感を堪え、喉の奥を締めた。それでも、気を抜けば、胃の中にあるもの全てが、出てきてしまいそうだ。


「まさか、あの人も」


 ぽろりとこぼれ落ちた言葉。決して確認したかったのでも、肯定して欲しかったわけでもない。頭の中でだけ留めておきたかった考えは、紅の許容を越えて勝手に形となっていく。





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