第41話 魔道府6―兄と敵対店の娘の関係―
淹れ直した茶の花は、わずかに甘味が強かった。干し無花果を食べ損ねた紅にとっては、ありがたい甘さだ。幾分か、緊張を解してくれた。逆に、思う存分、干し無花果を頬張った長官や陰翡には、少々強めかも知れない。
紅は長官を陰翡の様子を窺うが、二人とも嬉しそうに飲んでいた。長官は落ちそうな頬を押さえ、足をばたつかせている。
「そういえば、話がそれたついでに聞きたいのです」
「え、オレにですか?」
紅から、間の抜けた声が出た。長官の空いた硝子杯に茶を注いでいた手を止める。話し掛けてきた張本人は、干し無花果を三個ほど口へ放り込んだ所だった。
長官は返事の代わりに、手を鳴らした。肯定を示す時の、長官の癖だ。おまけにと、数回、大袈裟に瞬いた。大きな瞳なので、はっきりと意思表示がわかるのは良いが、笑いを堪えるのが、辛い。滑稽なのか、愛らしいのか。判断に迷うところだ。
「紅ってば、華憐堂の一人娘、萌黄に随分と迫られてると聞いたのですが、ほんとうなのです?」
紅は危うく茶壷を滑り落としそうになる。幾らかの茶は、溢れてしまった。黒漆の円卓の上を、黄金が滑っていった。
紅は慌てて布巾を探すが、既に陽翠が綺麗に拭き取ってくれていた。
茶を飲んでいる時でなくて、良かった。そうでなければ、陰翡に茶を吹きかけてしまう所だった。それよりも、大切な報告書を駄目にしてしまう方が、恐ろしい。
陰翡は愉快そうに頬杖をつき、長官は強請るように机を叩いている。紅が椅子ごと身を引いて口を結んでも、一向に諦める気配がない。
「……まぁ、なんていうか、迫られてはいませんが、まだ知り合いも少ないようで、懐かれてはいるみたいです」
紅は頭の後ろに手をやり、乱暴に掻いた。長官と陰翡からは不満げな抗議がぶつけられるが、紅にはそれが事実だ。実際、近くには寄らず遠巻きに眺められている機会も多いし、彼女が自分を見ているのかも怪しい。
萌黄は紅に会うと、泉で助けようとした時の話を嬉しそうに語る。けれど、どうにも思い出の中に、さらに遠い記憶が混ざっているのではと思う時が、ある。もしかしたら、それが蒼の言う、乙女視点というモノなのだろうか。とにかく、突っ込まれるような素材は、胸に仕舞っておこう。
「紅は、にぶにぶちんなのです!」
「せやなー折角、あないべっぴんに好かれてんのになぁ。ぐいぐい言い寄る女は、嫌いなんか?」
どれだけ長官に指で差され、陰翡が床を踏み鳴らそうとも。紅は二人を喜ばせるネタは持ち合わせていない。が、全身を揺らして騒いでいる二人を満足させなければと、使命感が紅を煽る。隣に座る、陽翠の堪忍袋の緒が切れる前に、どうにかしないと。
紅はしばらく宙を睨み、やがて肩を落とした。
「嫌いってのは、ないよ」
「ほんまかいな、つーかぐいぐい言い寄られてんのは認めた」
「なんで疑うんだよ。言い寄られてるっていうか、迫力はあるな。嫌いっていうか、ちょっと色んな理由があって、苦手意識はあったけど」
紅は頬を掻く。少し前の出来事を思い出し、天井を仰ぎ見た。何故か長官も一緒に空を見上げて、陽翠に「長官、吊り下げ式の角灯があるだけです」と突っ込まれた。
澄ました顔で茶を飲んでいた陽翠までもが、瞳をきらきらさせて先を促してくる。
「けど?」
「いや、先日成り行きで、華香札を買いに同行してくる機会があってさ。一緒にいたら、思っていたより普通の女性なんだなぁって。ほら、さっきも言ったとおり、いつも遠巻きでじっと見られてただけってのが、ほとんどだったから。それで、色々街について質問されたり、嬉々として自分が勉強してる内容を話されたんだけど、無邪気っていうか憎めないっていうか。そういう感じだよ」
余計なちゃちゃを入れられないように、紅は口早に話しきった。本当に、これで紅が話せる内容は終わりだ。それよりも、あの時の蒼と紺樹のやりとりを思い出して、むかっ腹が立ってしまった。
それなのに、陰翡は、まだ聞き足りないと身を乗り出してくる。横で、長官は顎に指をあて、唇を尖らせている。こちらも物足りないのだろうか。
「陰翡も長官も、どんだけ叩いても、もう塵さえ出ませんよ!」
紅は、円卓を軽く拳で叩いた。蒼と紺樹の憎々しい記憶への八つ当たりみたいなモノだったが、陰翡は背を丸め大人しくなった。
「ではでは、紅と萌黄は恋人というわけではないのですね?」
「そんなわけ、ないじゃないですか。オレの話、聞いてました?」
紅は、疲労で顔を覆いたくなった。しかし、視線がかち合った長官は、思いの外、強い瞳をしていた。
調査対象に私情を挟むか、見定められているのだろうか。余計な心配だ。好意を寄せてくれる人の父親の店とはいえ、紅には遠慮するほどの強い理由はない。
気圧されながらも、紅は「違いますよ」と強い調子できっぱり否定してみせた。
それで満たされたようで、長官は両頬を押さえ、身体を左右に振る。
「ほっとしちゃったのですよ。だって、わたしは、まだまだ紅に構って欲しいのですー」
「なんやねん、それ。近所のおばあちゃん心かいな」
陰翡の刺々しい言葉に、長官が拳を振り上げた。ふいに、くぐもった声が耳に入ってきた。背後の捨印犬裸子の方から聞こえてくるようだ。
「――ます。長官、お忙しい所、失礼致します」
落ち着いた女性のモノだ。雑音に遮られ、やや聞き取りにくいが、紅にも覚えがある。恐らく、先輩の女性だ。
長官が椅子を揺らして振り返った。視線は長官の机に置いてある、大きめな水晶球――通信球に向けられている。調子が悪いのか。いつもなら、はっきりと聞こえる音には、所々雑音が混ざっている。これも国全体でアゥマの流れが乱れているせいだ。
「随分、通信球の具合も悪いんだな」
紅は顎を撫でた。最近、紅は特に気を付けて空間を漂うアゥマを『視て』いるが、性質自体も変化しつつあるように思えた。だから、アゥマの調整にてこずり、通信制御も困難だ。果たして、それに何人、気がついているのだろう。
通信球は使用する者のアゥマ制御が必要だが、そもそも、空気中のアゥマの量が少なく不安定では、伝達すら出来ない。
紅の呟きに、陽翠は表情を曇らせた。
「平常であれば問題なく通信が出来るのですけれど」
「そこまでなっとるっちゅーこっちゃ」
陰翡が唇を噛んだ。声量が抑えられている分、余計に苦々しさを増している。
長官は立つことはせず、掌を通信球に向けた。遠距離からでも通信制御をこなす長官に、紅から感嘆の息が漏れた。そんな紅を余所に、長官は思い切り声を張った。
「あっ、はいはい、聞こえてるのです! ちょっと待って欲しいのです」
長官は椅子から飛び降りると、てこてこと通信球へ駆けていった。絞られた声で交わされている会話は、円卓までは届いてこない。大げさな仕草で驚いたり、自分の頭を叩いたりしている長官の姿だけが見えて、笑いを誘う。
長官は、ちらりと陰翡と陽翠を見ると、掌を打ち合わせ通信を切った。
「いけない、いけないなのです!」
「どないしたん?」
片足を思い切り上げて椅子によじ登っている長官に、呆れ顔の陰翡が手を貸した。
長官は満面の笑みで礼を述べる。そして、小首を傾げて、部屋の反対側にある棚の上を指差した。黒い漆塗りの小棚、その上には三段ほどに積み重ねられた書簡がある。
陽翠の指が耳裏を滑る。普段は顔にかかっている髪が払われ、表情が露になった。
「確か、あの書簡は、明日各部署へ回す資料ですね」
長官はびくりと首を竦めた。しかし、すぐ頬に指をあて、舌を出した。
「あぅ、それがすっかり勘違いしていたのですよ。夕方までに配布しなくちゃいけなかったんです。さっきの通信は、催促だったのですよぉー」
「はぁ?! あれだけ午前に確認したやろ?!」
がたんと、椅子を大きく鳴らして陰翡が立ち上がった。大柄な陰翡の影が、長官に覆いかぶさる。正面から陰翡に迫られ、横からは陽翠の鋭い視線に刺され、長官はみるみる涙目になっていった。
紅には、魔道府内の仕事は他人事だ。傍観を決め込んだ瞬間、器用に椅子ごと紅に寄ってきた長官が、腕にしがみついた。
「あのう……」
「あぅあぅ、老体に鞭打って徹夜したせいで、ぼーっとしてたのですよぉ。ごめんなさいなのですぅ」
長官が紅の言葉を無視して、潤んだ瞳を二人の部下に向けた。両側で束ねられた髪が、耳のごとく、ぷるぷると震えている。
小動物を連想させる姿に、陰翡と陽翠も言葉を詰まらせた。もちろん、愛くるしい姿だけではなく、長官が連日、寝る間も惜しんで仕事に打ち込んでいるのを知っているからだろう。
ややあって、陰翡と陽翠が、諦め顔で腰を落とした。
「さっきは乙女言うてた口から、よう出るわ」
「わかりました、今から各部署を回ってきます。紅は長官の雑談のお相手をお願いします」
陽翠が柔らかい笑み浮かべ、皺を伸ばすように外套をはたいた。紅は椅子に引っかかっていた裾をとってやる。
「あぁ、わかったよ」
燕鴇の話題に遮られたとはいえ、重要な議の途中だったのに。話の続きを、という雰囲気でもない。しかも、『雑談』という言葉にやたらと力が込められていた気がする。
長官は、未だに紅の腕にしがみついていた。拒否するつもりはないが、長官が腰を悪くするのではと、少し心配になる。
いつの間に手にしたのか、陰翡が書簡の束を抱え扉の前にいた。陰翡が抱えていると大した数に見えないが、かなり時間はかかりそうだ。
「ほな、行ってきますわ」
「よろしくなのですよー!! あっ、午前に言ったとおり、各部署責任者の受け取り署名必須なのですから、きっちり漏れのないようにお願いしますです!」
長官は笑顔で手を振った。しかし、振られた陰翡と陽翠は、思い切り渋面になっている。長官はすすっと身を引くと、紅の後ろに隠れてしまった。その様子は、いつかの蒼と紺樹の姿を思い出す。
紅は双子と顔を合わせ、笑いあった。その様子が見えていない長官は、慌てた声色を出す。
「ついでに、紺樹を見かけたら、一緒に回って、各部署でいろーんな問題に頭を抱えている皆の手助けしてあげて欲しいのです。連絡も手伝ってもらえて一石二鳥なのですね!」
各部署への通達を紺樹に手伝わせるつもりか。本来であれば副長に付き合わせる仕事ではないが、紺樹ならば拒否はしないだろう。
基本的に人たらしな紺樹は、各部署への顔出しを怠らない。用事に託けては、部下たちの相談や不満を引き出し、見事に解消している。
(オレも魔道府にいた頃は、良く声掛けてもらったっけ)
紅もつい最近までは、紺樹を兄のように慕っていた。文武両道な魔道府の先輩としても、尊敬していた。自分に宿る異能についても相談していたのが、思い出される。
紅は裤子を強く握り締めた。昔は昔、今は今だ。
「そのままオレが帰るまで、連れて来ないでくれても良いけど」
「そっ、それはそれで、後々ばれた時、勝手に帰したって、紺樹の雷が落ちるのですよ……」
長官が追い詰められた小動物のように、身体を震わせた。頭巾をすっぽり被っている。年長者に失礼だが、素直に可愛いと思える姿だ。
紅は緩みかけた口元を、拳で隠した。
「したら、行ってくるわ」
陰翡の苦笑いの余韻を残し、重厚な扉が閉められた。