第39話 魔道府4―報告書―
燦然と煌めいていた捨印犬裸子は、柔らかな光を纏い始めている。
紅が魔道府にいた頃、日差しが穏やかな間は街の見巡りをしていることが多かった。主に治安を守るために見回りをしている武道府と違い、魔道府は街中に溢れるアゥマを管理・調整するため動いていた。見巡りは主に新人の役割だ。また紅がアゥマの流れを視る能力に長けていることから、記憶に残っている仕事のひとつだった。
見巡りの後、報告に立ち寄った長官室で浴びていた光が、今も大理石の床で揺らめいている。昔の仕事と今回自分が呼ばれた可能性とが繋がり、紅は目を伏せた。ばらついた情報たちが、黒い糸で絡み合いたがる。胃がきりっと悲鳴をあげた。
心配症な自分を笑い、紅は布鞄から小箱を取り出す。からからんと軽い音が響いた。蓋には、桃の樹を模した細工が施されている。光沢のある、手触りの滑らかな木箱だ。
こうして要人に呼ばれて茶を淹れる際、少しでも楽しんで貰えるようにと、蒼から提案があって新調した菓子箱だ。期待通り、箱を見る女性陣の顔が綻んだ。中身は、もっと喜ぶに違いない。紅が蓋を開けると、ほのかに甘い香りが漂った。
「ちょっと今更かもしれませんが、お茶菓子にどうぞ。それと、依頼の話もそろそろ――」
「わー! 干し無花果なのですよ!」
机に箱が置かれるやいなや。蕩けた歓喜の声が、紅を遮った。干し無花果が、長官の小さな口に吸い込まれていく。
「くぅー! 中身の、このぷちぷち感がたまらないのですよ!」
「ワイも、ワイも!」
紅は己の行動を大いに悔やんだ。しかし、出してしまったものを引っ込めるわけにもいかない。目の前で、たちまち減っていく無花果。貪り食べている元上司と元同僚を、諦め顔で見守った。いっそのこと、全部食べきってもらった方が、話は進むのかもしれない。
口をつぐんで肩を落とした紅とは反対、すぐ隣の人物は細かに体を震わせている。細い腕が、干し無花果目掛けて一斉に伸ばされた腕たちを捕らえた。
恐る恐る顔を上げたのは、陰翡と長官だ。紅も二人に釣られて視線を上げる。瞬間、頬が引きつった。陽翠の頭に角が生えている、ように見えた。
「長官、陰翡。そろそろ本題に入りませんと。お二人がどうしても、今夜も泊まり込みが宜しいとおっしゃるなら、別ですけれど」
陽翠の声が、腹の底に響いてくる。切れ長の目は、さらに細められ刃物顔負けの鋭さだ。
関係のない筈の紅も、たじろいでしまう。当事者の長官などは、体を震わせて涙目になっているし、陰翡に至っては石のようだ。
「よっ陽翠、わたしは、仮にも上司なのです! 国の重要機関、魔道府の長官なのですよぉー!」
長官が声を震わせながらも、大声を張った。けれど、片膝を円卓に乗せたままの長官の姿勢には、全く畏怖することが出来ない。どう考えても親に叱られている幼児か、肉食動物に喰らいつかれそうな小動物にしか思えない。
一瞬、長官の言葉に、陽翠の眉がぴくりと跳ねた。しかし、じわじわと笑顔を滲ませていった。それが余計に、三人の背筋を凍らせる。
「でしたら、上司らしく威厳を見せて頂ければと思うのですけれど」
「あぅあぅー。最近の陽翠は、紺樹に似てきたのですよぉーいやですよぉーそれに白磁にもですぅー」
「紺樹副長に近づけているのなら、私は光栄です。鋭すぎる所のある白磁副長と、というのは、少々受け入れがたいですが」
陽翠の手は二人の腕から離れ、硝子杯へ添えられた。陽翠の顔中に笑みが広がっている。茶を飲む仕草も、心持ち軽やかだ。
紅は、白磁副長を思い出す。白磁とは、外部で機動している魔道府のもう一人の副長だ。
「そないに言わんと。確かに白磁副長は近寄りがたい方やけど、紺樹副長よりずっと長いこと副長として、魔道府で頑張ってはる人やし。沈着冷静に淡々と指示を出して、首都から地方まで広く仕切ってはる、凄腕さんやで? どっちかっつーと、陽翠が似ているのは、白磁副長やないか?」
ようやく硬直が解けた陰翡が、薄笑いを浮かべ陽翠の肩を叩いた。紅から見ても、陽翠は紺樹よりも、白磁との共通点が多い気がする。けれど、それは別の話だ。
「陰翡も、白磁副長を庇っただけだろうけど。わざわざ今、説教くさく言わなくて良いのにな」
紅は、口の中で苦々しく呟いた。案の定、陽翠の眼光が、再び鋭利になってしまった。
「そんなことは、百も承知です」
陽翠の歯が、干し無花果を噛み砕いた。
幾ら茶を飲んでいるとは言え、打ち解けすぎた雰囲気だ。陽翠が放つ冷えきった空気さえも、身内ならではのモノだ。紅は、虚脱感で肩が落ちる。確か、依頼を聴きに来た筈だ。存外、最も掴みどころも緊張感もない紺樹が、場を締めているのかもしれない。
それにしても、先程から見ていると、陽翠は苦言を呈しながらも不快には思っていないようだし、陰翡もいつも自分と接しているのと大方変わらない様子だ。紺樹の補佐付きとして長官室で仕事をこなしている二人。恐らく、これが日常的なやりとりなのだろう。紅は静かに茶を含んだ。ほんのり、苦味が出ていた。
「ともかく! 依頼の件ですが、具体的な内容と、オレの役割を聞かせて頂けますか?」
紅は長官に向き直る。大量の茶を喉に流し込んでいた長官の目が、見開かれた。漆の円卓と硝子杯から、硬い音が響く。慌てて口元を拭った長官が、執務机に向かって音を立てて、駆けていった。
紅の脳裏に、依頼の件を忘れていたのではと、疑いが浮かぶ。床を鳴らして戻ってきた長官の腕には、大量の書類が抱えられていた。
「そうです、そうなのです! まず、これを読んで欲しいのです」
手渡されたのは、数枚の書類。所々に赤い印が付けられている。紅は、上質な紙に綴られている文字を辿っていく。
「クコ皇国全体のアゥマの乱れ、それが影響して起きているのであろう、各地の天災や悪天候の報告ですね。この統計だと……この街が、一番影響出てるみたいですね。ちょっと奇妙ですね」
「せやろ! 国境付近に次いで結界が強く施されとる首都が、やで。結界と溜まりの数なら、国一番やしな。変やろ?」
陰翡の大きな声が、全員の鼓膜を揺らす。もとより、陰翡は身体にあわせて声量も凄い。長官室は壁が厚く音漏れを防ぐ結界がはられている。話を盗み聞きされる心配はない。が、紅の鼓膜が大丈夫ではない。
紅は耳を抑えたい衝動に耐え、続きに目を走らせる。
「となると、他国に陣を設けての干渉とは考え難いのか。クコ皇国は領土もそれなりに広いですからね。空を介するくらいでないと、遠くにある首都に最も強い影響を及ぼすのは無理ですね。街がある場所を避けての龍脈干渉の線も捨てきれないですが、術者の溜まりへの反動を考えると、可能性としては低いですね」
「えぇ、わたしも同じ意見なのです」
先程とは打って変わって、長官は凛然としている。口調は同じだが、幼い身体に纏う空気は気迫に満ちている。
紅は気圧されないよう、歯を食いしばった。
「どちらにしろ、自国の溜まりやアゥマが甚大な損害を受けてまで、クコ皇国に挑もうとするくらい、外交関係が悪い国があるんですか? 確かに、クコ皇国は世界的に見ても、アゥマが豊富とは聞きますが」
「いえ。外交上は、至って平和そのものなのです」
長官は、真っ直ぐな瞳のまま、首を振った。実際は額面通りでは無いのかも知れない。しかし、今回の事件に絡む程ではないのだろう。ならば、自分が知る必要もないことだと、紅は素直に頷く。
「でも、オレが呼ばれたということは、問題のひとつとして、アゥマや龍脈の流れが絡んでるんですよね? でも、今オレが口にしたような可能性を探るっていう段階じゃない。長官の口振りは、答えは掴んでいるように思えるんですが」
紅の頭にも、自分が魔道府に呼ばれた答えが、ひとつだけあった。以前から感じていた、幾つかに対する違和感。紅の嗅覚に引っかかる、胃液が逆流してくるような匂い。蒼と白が街を調査している間に、溜まりで麒淵とアゥマの乱れを辿った先にあったモノ。
長官の視線が、すっと細められる。
「そうなのですよ。紅が持つ能力で、確かな情報が……証拠が欲しいのです」
「オレの生まれ持った『異能』が、役に立つのなら」
紅としては、特に意識して使った言葉ではなかった。普段から自分が認識していた呼び方をしただけだった。しかし、紅の言葉を受けた長官の顔に、影が落ちてしまった。
「紅……」
「長官、そんな顔しないで下さい。血で受け継がれてる力です。異能と言えば、異能ですが、ずっと存在はしている力ですよ」
その血が問題なのだが。長官がそれを憂いているのは、紅も理解している。いや、未だに憂いていると思っているのだろう。
首を動かすと、陰翡と陽翠は苦笑していた。二人は、鏡写の仕草で肩を竦め、長官に視線を移した。
「せや。紅の事情知っとんのは、ほとんどおらん。白様やワイら双子、長官それに紺樹副長含めた数人や。紅を、よう知っとる人間や。そんなワイらから言わせてもらえば、気にしとらん本人差し置いて長官が不幸顔しとると、逆に本人に気にせぇ言うとるみたいやで?」
「そっそんなわけないのです!! ただ、わたしは心配なのです」
長官の手に握られている書類に、皺が刻まれる。ついさっきまで長官を包んでいた、底光りのする迫力は解かれている。悲愁に揺れる珊瑚色の瞳が、紅を映す。
「長官、オレだって二人だって、もちろんわかってますよ」
紅の口の端が、柔らかく上がる。陰翡は、目の据わった陽翠に耳を抓られて悲痛な声を上げているが、深く頷いていた。
長官の幼い指が、書類の皺を撫でる。なかなか、元通りにはならなそうだ。
「わたしも、この国では異なる種族なのです。けれど、それは誰しもが承知しているのです。それでも……色々あるのです。ですから、紅の事情は漏れていないからこそ、怖いのです。特に今回の事件に関わるということは、捜査中にしろ解決後にしろ、引きずられて紅の事情を悪用しようとする輩も出るかも知れないのです」
「別に、公になっても、たいして困りはしませんよ。 まぁ、知った蒼を宥めるのが一番大変かもしれませんがね。外交に利用したり、戦が起きた時に使われるとかくらいです。でも、外交上だって、使えるとは思えませんが」
紅としては、本心だ。紅の事情は、本人にとってこそ厳しい現実だが、伴う事柄は良くある人間模様と言える。
平穏な毎日。それが、白のフーシオという立場によって守られているモノだとは、理解はしている。だからこそ、白には出来る限り自由に生きて欲しいと願っている。
「一時期は、自分という存在にひねてた時期もありましたし、その時は長官にもご心配をおかけしました。でも、もう本当に吹っ切れてるんです。気に病んだどころで、どうにかなることでもありませんし。なんでオレが、とか悲観しているわけでも、卑下しているわけでもありません。むしろ、引き継いだのがオレで良かったです」
紅は歯を見せて笑った。紅の言葉に、淀みはなかった。蒼が紅の立場だったらと考える方が、胸が痛む。紅は、兄妹逆でなくて良かったと心底思っている。
「それはさておき。今回は容易に証拠集めに立ち入れないってことですか? 魔道府の特権があったとしても」
紅の問いに、長官の声は返ってこなかった。じっと、硝子の茶壺の中、揺らめいている花茶を睨んでいる。代わりに口を開いたのは、陽翠だった。
「魔道府は生命活動の要であるアゥマを扱う機関です。そのため、他の府よりもある程度独立した機関であり、特権を持っています。特に皇王や宮廷ですら、干渉は御法度。白様のフーシオの特権も、そこに準じているのは、紅も知っていますよね」
「あぁ。確実な情報さえあれば検めが許され、その場で最後の証拠を掴むことも珍しくないよな。アゥマを管理する魔道府には、政のしがらみに捕らわれない機動力と迅速さが求められている」
確認されるまでもなく、紅も散々叩き込まれた魔道府の理念だ。紅は顎を引く。陽翠がわざわざ話に出した理由は、ひとつだ。
特権行使を阻止出来る程、巨大な圧力。しかも、圧力をかけているのは宮廷。いや、下手をすると、それ以上の――。
紅は固唾を呑む。事態は想像以上に、煩瑣を極めているようだ。
「次に、これを読んでくださいなのです」
紅に渡されたモノは、今しがた読んでいた報告書とは大分質が異なっている。厳重な魔道術の鍵が施された、冊子状の報告書だ。表紙には『魔道府長官権限において、最高機密とする』と刻まれている。文字の上に押されている蝋印に触れると、じんと痺れが走った。
紅の呼吸が乱れる。術の余波ではない手の震えが、全身へと駆け巡っていく。
「大丈夫なのですよ。形式上、機密を読む前に誓約を立ててもらう必要はあるのです。でも、例え行動が答えに繋がらなくても、誰も紅を責めはしないのですよ」
長官の雰囲気が、柔らかく解けた。紅は心の内を読まれた気がして、目元が染まった。
瞼が、静かに閉じられる。報告書に右手を乗せる。滑らかな手触りだ。ふわりと、柔らかい感触が重ねられると、長官の唇から呪文が紡がれていく。
「――汝、緘黙の誓いを立てよ」
「承服致します」
厳粛に誓いを立てると、紅の手の甲に白い光りを放つ魔道陣が浮かび上がった。痛みはない。身じろぎせずにいると、やがて目には見えなくなっていった。紅は、ぐっと拳を握り締めた。
以前から危惧していた、アゥマの乱れの原因に近づける。それは国のため、何より蒼のためになる。アゥマが安定すれば、蒼が行う浄練の助けになるだろうし、人々も落ち着きを取り戻すだろう。そうすれば、街に人が溢れ、心葉堂にも客が戻ってくる。蒼が大好きな街を守ることが出来る。どんなに妹馬鹿だと言われようと構わない。紅にとっては、蒼を、家族を守ることが最優先事項だ。
瞳に光を取り込む。円卓に置かれた茶壺を映す。気が付けば、紅の心に恐れはなくなっていた。しっかりとした手つきで厚い紙を捲った。堅苦しい言葉を読み進めていくと同時、紅の表情が険しくなっていく。
「外から入ってくる品物や人物について、アゥマの異常性は認められないんですね」
それが意味する答えは、至って単純だ。簡潔だが、とても恐ろしい事実。紅としても避けたい可能性ではあるが、目の前の資料が現実を突きつけてくる。
紙を捲ると、溜まり管理者の定例報告書に加えた魔道府自身の調査資料が、紅を待ち構えていた。魔道府が直接動いた情報が、やけに少ない。紅が魔道府に勤めていた頃と比べても、かなりの違いがある。
「報告書として焦点が当てられているのは、内部の異常。心葉堂を含めた、複数の店の商品と溜まりの水に関する資料がありますね。でも、魔道府独自の調査情報が曖昧で少なすぎませんか?」
「それでも、魔道府の総力を上げて、極秘に行われた調査の結果です」
陽翠が強い調子で呟いた。噛み締められた言葉が、紅の耳の奥に響いてくる。
「『正規』に集めた情報を元に得た証拠がどれだけ正確無比であろうとも、解決しないのですよ。問題は、然許り深刻なのですよ」
伏せられた珊瑚色の瞳は、深い憂いを帯びていた。